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西田悦子、萬葉集短歌の定型の問題 〜 第一句不足音句の訓について 〜、「萬葉」106号、1980年12月
これは、
万葉集字余りの研究、山口佳紀、塙書房、362頁、2008.05.01
を逆に行ったような論文で、山口氏が、字余りから調べていって、定型に読む工夫をされたのに対し、字足らずから調べて、定型に読もうとしたものである。山口氏は長歌も考察されたが、西田氏は長歌は完全に除外し、短歌のみ、それも一句目だけにしぼって定型に読もうとされる。確かに字足らずは圧倒的に一句目にあって、二句目以降は極端に減る。特に五句目は皆無で、山口氏が五句目には字余りがないといわれたのと同じ現象だ。但し私は、25番歌の長歌の二句目を字足らずに読もうとしているので(ミミガノミネニ→ミミガミネニ)、西田氏の論文では参考にならない。長歌に字足らずがあるのは黙認するということだろうが、短歌はきれいに定型で読むべきだという主張に対して、万葉では多くある長歌が、57音の定型にならなくてもよいというのでは説得力がないように思う。
ところで、4音に読まれている「三毛侶之(みもろの)」等の「之」を、沢瀉注釈の10-1906「平城之人」の「之」は「なる」と読むという童蒙抄の説を参考にして「なる」と読み5音に読もうとされた。(塙本では「平城之人」を「ならなるひと」と読んでいる)。しかし、
萬葉集童蒙抄に
1093 三毛侶之其山奈美爾兒等手乎卷向山者繼之宜霜
みもろの、そのやまなみに、こらがてを、まきもくやまは、つぎてしげしも
三毛侶之 これをみもろなると五言にも又四言にもよむ也。之の字なるとよめること集中多し
とあって、一案ながら、童蒙抄は「平城之人」以外の歌でも「なる」と読んでいる。
ついでに、西田氏が「之」を「なる」と読むべきだとされた残り4例を童蒙抄で見ると、
156 三諸之…、みもろの…、 「みもろのや」と読む古本を批判して4音に読めという。
251 粟路之…、あはぢなる…、 5音に読めという。
1376 山跡之…、やまとの…、 特に発言せず。
2834 日本之…、やまとの…、 特に発言せず。
残念ながら一貫していないが、2例(一例は一説扱いだが)について童蒙抄は「之」を「なる」と読んでいるのだから、すべて西田氏が初めて読んだわけではない。童蒙抄に言及するべきだったと思う。ちなみに一句目字足らずの全用例を出した第1表において、江戸時代の読みを付した中に(童蒙抄も出されている)、251番の童蒙抄の「あはぢなる」は記入されていない。見落としか。