2261

2261、松浦氏論文からの引用。

  (五) 「言語のリズム」と「楽曲のリズム」の区分の必要性

 詩的リズム論として不可欠な第三の前提は、詩歌における「言語のリズム」(朗読・読書のリズム)と「楽曲のリズム」(歌唱・朗誦・吟詠のリズム)とを、識別・区分することである。
 この点は、原理的に見れば自明のことでありながら、各国詩歌史における初期的な享受形態がおおむね「歌唱・朗誦」を中心とするものだったために、この両リズムの本質的な相違が見落され、両者が混同されたままで「詩的リズム」が論じられている場合が少なくない(9)。

一般に「歌辞」だったと見なされている日本の「記紀歌謡」や中国の『詩経』の諸作品も、日常の会話や一定の散文の中で引用される場合、必ずしも常に本来の「楽曲のリズム」に即して引用され再現されていたとは考えがたい。むしろ、詩歌自体を構成する「言語のリズム」に即して引用・再現されることが多かったと考えるのが、恐らくは正確であろう。
注から。
(9) 早い時期のものとしては、本居宣長『石上私淑言』(巻一の二)の所説‥「三・四・六・八音の句も、歌う時にはそれぞれ延長・短縮して五・七音句と同様に歌われたから、上古の歌も五・七音の定型から外れない」(要旨)が名高い。最近では、毛利正守「音群に基づく平安朝和歌の唱詠――『詞華和歌集』の単独母音を手がかりに」(『文学』岩波書店、一九八七年二月号)が、論文題目自体が示すごとく、短歌の「詩的リズム」を「唱詠リズム」(歌唱のリズム)と直結する立場から書かれている。‥「句中の切れ続きが唱詠の結果として〔八字傍点〕文字数の上に顕在する、句中に単独母音を含んだ句をまずは対象にして……」(六七ぺ-ジ上段。傍点、松浦)等。

注の毛利氏の説は松浦氏の説明だけでは分かりにくい。直接その論文にあたるべきだが今はその余裕がない。