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1-25、    天皇《すめらみこと》の大御歌《おほみうた》
25 み吉野《よしの》の 耳我《みみが》の峰《みね》に 時《とき》なくそ 雪《ゆき》は降《ふ》りける 間《ま》なくそ 雨《あめ》は降《ふ》りける その雪《ゆき》の 時《とき》なきがごと その雨《あめ》の 間《ま》なきがごと 隈《くま》もおちず 思《おも》ひつつぞ来《こ》し その山道《やまみち》を
これは阿蘇全歌講義の書き下しで(塙本1970年8版も全く同じ)、ほぼ現在の通説である。これでいくと、七五の繰り返しという長歌の定型からして、「間なくそ」が四音で字足らず、「間なきがごと」が六音で字足らず、「隈もおちず」が六音で字余り、「思ひつつぞ来し」が八音で字余りとなる。もっとも三つ目四つ目は母音の「お」が含まれているので字余りとはしないのかも知れない。これについて阿蘇は一言も触れていない。他の注釈書はどうだろうか。「来《こ》し」を「来る」と読む説もあるのでついでにそれも見る。
多田全解、間なきがごと。来し。
阿蘇全歌講義、間なきがごと。来し。
新大系、間なきがごとく。来し。(文庫本も同じ)
和歌大系、間なきがごと。来る。
釈注、間なきがごと。来し。
新全集、間なきがごとく。来し。
伊藤全注、間なきがごと。来し。
全訳注、間なきがごと。来し。
集成、間なきがごと。来し。
全集、間なきがごとく。来し。
注釈、間なきがごと。来る。「来る」と読むことの考証は詳しいが、音数は無言。
大系、間なきがごとく。来し。
私注、間なきがごと。来る。
佐佐木評釈、間なきがごと。来る。
窪田評釈、間なきがごと。来る。
全註釈、間なきがごと。来る。
金子評釈、間なきがごと。来る。二句目を「みかねに」と読む。5757…が、5457…となり、5657…どころではない異様なリズム。
精考、ヒマナクゾ ヒマナキガゴト モヒツヽゾコシ・オモヒツヽゾクル。「ま」が「ひま」になっている。「こし」「くる」は結論出さず。
武田総釈、間なきがごと。来る。説明も全註釈とほぼ同じ。
全釈、間なきがごと。来る。
講義、ヒマナクゾ、ヒマナキガゴト、コシ。 ヒマは古語ではないと言いきれない。
口訳、ミカネのタケに、マなきがごと、コし。
新考、マなきがごと クル クルは古義に云へる如く今ならばユクと云ふべきなり
美夫君志、ヒマナクゾ ヒマナキガゴト コシ 僻案抄にはおもひつゝぞくるとよみては、山路にての御製となるなり、結句に其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあれば、山路の間の御製にてはなく。到り給ひて後の御製と見えたれば、來の字をこしとよむべしといへり、さることなり
近藤註疏、ミガネノタケニ。マナキガゴト。クル。
古義、ミカネノタケニ。マナキガゴト。クル。新考が引用したように、来るは行くだと詳説しているが、吉野は外(目的地)であって内(本拠地)ではない。だからやはり文字どおり来るだろう。
檜嬬手、ミガネノタケニ、ヒマナクゾ、ヒマナキガゴト、コシ、
攷證、ヒマナクソ。ヒマナキカコト。クル。
燈、ミミガネニ、ヒマナクゾ、ヒマナキガゴト、ク 万葉文庫にない 
楢の杣、ヒマ無ぞ ヒマなきが如 來る
略解、ひまなくぞ。ひまなきがごと。くる。 
万葉考、ヒマナクゾ、ヒマナキガゴト、クル、
僻案抄、ひまなくそ。ひまなきかこと。こし。
代精・代初、ミカノミネニ ヒマナクソ ヒマナキカコト クル
拾穂抄、ひまなくそ ひまなきかこと くる
管見、くまも落す思つゝそ來る其山道を、他は語注なし。
仙覚抄、読みなし。
萬葉集新講(改訂版)、ひまなくぞ ひまなきがごと 來る 来るは行くこと。
久松秀歌、まなきがごと 来し 作者不明歌との先後問題が詳しい。
評釈万葉集《選》阪下、まなきがごと 来し 作者不明歌との先後問題が詳しい。
25番歌については、読み以外のほうが問題になりまた興味も多いことから、多くの論文があるが、それは後に回して、取り敢えず音数の問題をもう少し追及する。
古くは「ひまなくそ」が多かったが、古義で「まなくそ」の読みが出て、美夫君志、講義、精考以外は、全部「まなくそ」になった。山田講義は、万葉では時間の間隔がるのを「ひま」とは言わないという主張に対して、「ひま」という言い方がなかったとはいえない、といっているが、用例の多さから見て無理だろう。古く「ひま」と読むのが多かったのは、字足らずを避けようとしたのだろう。ただし「ま」とすると、あとのほうで「まなきがごと」という字足らずが生じる。それを避けようとしたのだろうか「まなきがごとく」という読みも出ている。大系、新全集、新大系の三つだがみな最近のだ。字足らずを避けようとしたのだろうか、一言の説明もない。あとの「来」にしても「如」にしても、送りがなのようなものはないから、「ごと」か「ごとく」か決めてはない。「来」の場合、
「来る」、拾穂、抄代精・代初、万葉考、略解、楢の杣、攷證、古義、近藤註疏、新考、全釈、武田總釋、金子評釈、全註釈 窪田評釈、佐佐木評釈、私注、注釈、和歌大系、新講、。
「来し」、僻案抄、檜嬬手、美夫君志、口訳、講義、大系、全集、集成、全訳注、伊藤全注、新全集、釈注、新大系阿蘇全歌講義、多田全解、評釈万葉集《選》阪下、久松秀歌。
燈、ク 
精考、「来る」「来し」のどちらか判断保留。 
勢力が拮抗している。現在形なら、山道を来る途中での詠、過去形なら、吉野についてからの回想。意味の滑らかさという点では「来し」が有利だが、「如」を大方「ごと」と読んでいたように、「来」一字なら「来る」と読む方が表記に忠実だ。意味的には成り立たないわけではない。燈の「ク」は係り結びを無視したもので、賛同者がいない。「来」の読み以外は、音数以外の主題とかの問題がないので、ほとんど言及されない。なお、「耳我嶺」の読みも、古くはいろいろあったが、今は「みみがのみね」で落ち着き異論を出す人はいなくなった。