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西條氏の専論として予定したのは、
国語と国文学・上代文学研究の展望、2007.11月特集号、の
定型の原理――詩学史とリズム論の現在――
というものであった。これはこの人の特徴なのだろうか、題名から期待すると肩すかしを食らう。これも、定型の原理というから、57577の和歌の定型を論じるのだろうと思ったが、副題のそれもそんな大げさなものでもない、いわば予備的な考察(原理的な考察という)が主で、定型の原理などというのは、その付け足したになっている。
和歌のリズムというよりも、日本語の詩の言葉のリズムといったようなもので、土居光知の2音を基本とする気力説などが紹介され、また時枝などの国語学的な理論も説明したあと、
すると、定型を成り立たせているのは、単独母音の脱落や融合を生じさせている声のレベルとみなければならない。これを音韻に対する用語でいえば、音声の次元ということになる。音声はそのつど発せられるなまの〔三字傍点〕声であり、意識されるものである音韻に対していえば、意識されないものである。この肉声が定型を生み出していることになる。そのばあいの定型は、丁寧に数えると六音八音になる音数を五音分もしくは七音分として発音するような定型である。それはどのようなものであろうか。言い換えれば、なまの肉声が生み出す定型、音数律ではない、しかも、結果として音数律になるような定型とは、いったいどのようなものであろうか。
と言う。ここで言う「音声の次元」というのが記紀歌謡などの「こえの歌」であり、音韻を意識した音数律の歌というのが万葉の「よむ歌」になるということだろう。
そのあと福士幸次郎の2音のリズム説(意味の切れ目が音声の切れ目ではなく、2音で切れるのが日本語の言語としてのリズム、例、絵葉書→エハ・ガキ)を援用して肉声(身体)のリズムということを考察し、結局、
万葉集長歌は <五音句+七音句>すなわち<四拍節+四拍節>(八拍節)を基本的な単位として、これを幾度か繰り返してから、七音句で収める形式になっている。終息の形は四拍節を三回繰り返すことになる。
という。これは奇しくも、前回私が、犬養孝氏の歌唱は、8音の繰り返しに聞こえるといったこととほぼ一致する。
その身体的な8音のリズムが、なぜ頭脳のリズムとしては、57になるのかは後日の課題というわけだ。ずいぶん荒っぽい要約だと言うことは自覚しているが、福士幸次郎の日本語2音基本説というのがかなり素朴な説なので、それを主要な根拠とする西條氏の主張も十分なものとは言えないように思う。
私も福士幸次郎著作集(津軽書房)を持っており、かなり読んだ。例の「絵葉書→エハ・ガキ」論ももちろん覚えている。しかしあまりに偏狭な国粋主義のうるさい言説にうんざりして、半分ぐらいで真面目に読むのをやめ、斜めに読んだ。詩人としてもあまり面白くない。