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國歌の胎生及び發達、五十嵐力、博文館、407頁、1円50銭、1943.08.20、国会デジタルコレクション
ずいぶん間があいたのは、この本を読んでいたから。ずいぶん有名な本なのに一度も読まなかった。書名が古めかしくて興味が湧かなかった。1943年初版なら、もう有名な万葉学者がたくさん出ているのに、ずいぶんとへんな書名だ。短歌のことを国歌などというのは珍しいし、胎生というのもまるで生物学のようだ。大した内容でもないのに、407頁というのは量が多いし、敗戦直前の出版のせいか、デジタルのせいか、印刷不鮮明で読みにくく余計時間がかかった。
閑話休題。著者が国歌というのは、575/77という、上の句と下の句で出来た短歌が、最高の形式で、歌の完成した形だという点にある。そこにいたるまでの変化の過程を記紀歌謡からたどっていったのが「胎生及び発達」ということだ。記紀歌謡のころは、2言から11言の雑多な句があったのが、試行錯誤で、5、7音の標準的な優越位ができた。それが、組み合わされていく時、5、7というのが、下が重くて安定性があり、重厚な感じがするのが好まれて定型になっていった。7、5というのもあったが、下が軽いために不安定で、軽薄な感じがするのか、はやらなかった。そして、5、7が対偶式にくり返され、そのあとを7音でしっかりと締めくくるのが主流になった。これが万葉などの所謂57調である。その組み合わせから、片歌、旋頭歌、長歌、短歌の歌体が生まれた。万葉の長歌などは、57の繰り返しが長々とつづき退屈極まる。途中で解(スタンザ)を切り、段落も入れて複式の長歌にしたのが記紀歌謡には多いが、万葉では憶良や巻13あたりにしかなく、それも問答を長歌にした程度だが、憶良の令反或情歌(800-801)は複雑な複式長歌で、このすぐれた形式が後世受け継がれなかったのは実に残念だ。57が圧倒的だった、万葉集の短歌に75の混じってくるのがあり、57/57/7、が、575/77の上の句と下の句に分けて読まれる形式が生まれ、これが、57と75の長所を兼ねたすぐれた形式なり、完成した歌となって、平安朝以後、長く和歌の主流となったと、いうものである。
だいたい推測だらけながら納得できる内容が多いが、今問題にしている、万葉の長歌の、出だしが、56…となるような、字足らずや不規則な調子のものについての言及はほとんどない。要するに、字足らずのようなのは、ちょっと調子のずれた、畸形であり、いかもの食いであって、57577ぼ定型に至る予備的なものだというのである。あるいはそのいびつなところにおもしろみがあって作ったのだろうとも言う。25番歌などを、記紀歌謡などとは比較にならないすぐれた長歌だといっているが、それは、今の研究者がほぼすべて、字足らずに読んでいる句を(「まなくそ」など)、定型に読んでいる(「ひまなくぞ」など)からで、字足らずに読んだら、記紀歌謡と同じような、乱取り調とまではいかなくとも、かなり無器用な歌になると思うのだが、そういうことは問題にしていない。とにかく、字足らずのようなものは、初期万葉の時代までで、それ以降は影をひそめ、たまに古い型を意図的に使ったのが纔にあるだけだ、ということのようだ。