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日本・神話と歌の国家、工藤隆、勉誠出版、2003.12
について、字足らずの不定型の長歌は、記紀歌謡などの万葉より一時代前の口誦歌謡の名残で、文字表記を通して読む長歌になった万葉集では消滅していくとされていることについて、中国少数民族の歌垣の例などから、口誦の歌謡にも定型はあると言っているが、十分には論じられていない、といったことを以前述べた。そこで、通説の例として、品田氏と西條氏との著書が引用されていた。そこで、まず、
万葉集の発明-国民国家と文化装置としての古典、品田悦一、新曜社、356頁、3200円、2001.2.15(2019.5.30.3p)
を読んだ。これは初版の時に読み、今回の新装版で二度目だ。最初は、明治、大正ごろのアララギ派を中心としたことばかりで、真面目に読まなかった。今回工藤氏の言及によって真面目に読んだ。しかし古代歌謡の形式のことなど無かったような記憶があって、「第三章 民族の原郷」から読みだしたが、「民謡の発明」をはじめどこにも出てこない。それで最初から読んだ。だいたい、明治の国民国家創出のために国民歌集としての万葉集が発明されたことの経路を論じているのだから、古代歌謡から万葉の定型へといった話は出てこないと思っていたが、「第一章 天皇から庶民まで」の「五 国民の全一性の表象」でついに出て来た。八二頁~八七頁である。
○今でも万葉集といえば、天皇から庶民までの歌があると思われているが、それは事実ではなく、造られた(発明された)言説である。
万葉集には、東歌や防人歌など、庶民の作や、民謡のようなものがあるというが、それはほぼすべて、五七五七七の定型になっており、口誦の民謡ではあり得ない。だいたい記紀歌謡などの口誦的な歌謡は定型が確立されていない。
○万葉にある、民謡(国民的な歌謡)のようなものは、実際の民謡ではなく、貴族によって意図的に作られ万葉集に入れられたものである(おそらく政治的な事情から)。万葉集は庶民の歌まである国民的な歌集だという考えは嘘であり、発明されたものである。
といったようなことが書かれている。これはもう全くその通りであり、万葉に記紀歌謡的な、五十嵐の言う乱取り調の長歌などはないのだが、しかし、字足らずをかなり含む、完全な定型とは言えない、長歌がかなりあったのは前述の通りだ。そこを品田氏は、宣長的な考えを受け継いで、伸ばしたり縮めたりして歌ったのだろうとも言われる(定型は文字文化の受容によって完成したのだが、同時に歌われもする)。万葉に民謡(フォルクスリ-ト)などはないというのは、その通りだとして、完全な定型になっていない長歌がかなりあることについて、民謡でないとしたら、どういうことなのか。五七調のなかのちょっとした変調だですますのだろうか(歌えば伸び縮み、矣で五七のリズムになるというふうに)。しかし、リズムやメロディーによる57調などというのは論証不十分だろう。そういうところは、品田氏は言及されないが、五十嵐力と同じである(つまり宣長以来の通説の受け売り)。そもそも歌の定型や形式の変遷を論じるのが主眼ではないから、五十嵐は全く引用されないし、論じた部分もわずか数頁で、民謡をながながと論じている(第三章)のから見ると簡単すぎる。しかし論点や主旨が違うのだからそれはそれでいいのだろう。こういうところに目を付けて、批判してくる工藤隆氏のほうがお門違いかも知れない。
ところで、五十嵐が国歌というのは異様な感じだと言ったが、品田氏の文章を読むと、明治時代には国詩といういいかたが多かったようだ(一度だけ国歌の例も出されていた)。内村鑑三が言っているように、ゲーテやダンテのような国民文学が渇望されていたのだろう(しかし鑑三もいうように、当時の薩長政治、金権政治のような社会のもとで、そんなものは出来るはずもなかった。)品田氏のいうようなことは、明治の同時代に内村鑑三が簡単ながらも見抜いていたわけだ。ただし鑑三はアメリカ中心だから、万葉などの国文学などでるはずもない。だからアララギへの言及もない
。鑑三のころは国民国家どころか、薩長土肥藩閥政治だったのだ。今は自民党独裁だが、それにしても、明治は遠くなりにけり、で、藩ごとの独立的な封建態勢の残滓が濃厚だった社会は想像しにくい。品田氏はそのことを土台にしているわけだが。