東京、長野、近畿の人口

2021年12月
東京都、1399,8001人、4562人減。
長野県、201,7971人、1550人減、世帯数479減。
大阪府、880,1261人、3358人減、世帯数249増
京都府、255,8766人、1122人減、世帯数61減。
兵庫県、542,8675人、1862人減、世帯数は92減
滋賀県、140,9087人、155人減、世帯数は58減
奈良県、131,2683人、652人減。世帯数は77増。増えたのは、生駒、香芝55、葛城36、田原本2、王寺20、広陵65、河合9、上北山2、の8。
和歌山県、91,2041人、792人減。世帯数74減。増えたのは、岩出26、日高22、上富田18、の3。
和歌山市(35,4237)-奈良市(35,1348)=2889
人口世帯数ともに減少幅が縮小。なぜか奈良県と大阪が世帯数増加。東京再び1300万人台。奈良県は、田原本、北葛の線で増加が烈しい。

2314、そがひ15

2314、そがひ15
次に紹介するのは前回に予告した論文ではなく、藤田氏が引用されたもので、幸いにネットにあったものである。             
中村宗彦「「越中立山縁起」・「そがひに見ゆる」考」『天理大学学報』160 天理大学学術研究会、1989年
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/1730/GKH016014.pdf
二つの論考を結んだような中途半端なもので、時間をかけて書いたとは思えない。通説の方は無視して、「はるか彼方」説やそれに近いものを三説点検するし、12例について、山崎氏や池上氏に従い「はるか彼方」説が適当だとする。また小野氏以上に「そがひ」を、後方とか横とか解するのは間違いだと強く否定する。その点は全く私と同じで、少数派とはいいながら、同じ主張をする方がここにも居られるのは心強い。しかし、小野氏以上に厳しく批判されるものの、常識としてそんな意味には解釈できないというだけで、結局小野氏と同じ主観論になっている。そして、語義というのは、辞書的な意味よりも、まともに作品が解釈できるだけの意味の妥当性が大事であって、「そがひ」も初めは、後ろ向きとか背きあうとかいう意味だったのが、意味が変遷して、「はるか彼方に」という意味になったのだとするが、仕方がないとはいうものの、通説に従う人達を説得するだけの力がない。
なお具体例として検討された、立山の「そがひ」については、伏木の国府からみてはるか彼方の立山だとされるが、此が成り立たないのはすでに見た。「朝日射し」の詳しい地理的な点検もなく、魚津説も引用しながら、国府から短時間で往復するのは説得力に欠けるとしてあっさり切り捨てられたのは残念である。自信ありげに論述されているものの、あまり参考にならないものであった。

次のようなのがネットにあった。

そがひ追考、垣見修司、高岡市万葉歴史館紀要、22号、2012年3月
万葉集に見える「そがひ」の語はその用字「背」や「背向」を、背後やそむくという意味を表すとみて、後方、斜め後ろに理解する説が行われてきた。たしかに、巻四・五〇九などの例に限って言えば、背後・後方説はいかにもふさわしい。しかし、じつのところ、背後・後方説では、何らかの条件を加味して考えなければ処理できない用例のほうが多い。そのため、斜め後ろといった見方も生じた。しかし、訓詁を探れば「背」は、離れていることをも意味する。漢字「背」はそうした意味によって「そがひ」の語に宛てられたのである。したがって「そがひ」は遠く離れたところ、はるか彼方の意を表すとみるべきである。

巻四・五〇九は丹比笠麻呂の粟島を詠んだ長歌。これはどう見ても背後とか後方の意味にはならないのだが、どう説明しているのだろうか。それはとにかく、「そがひ」の語義を、「背」の訓詁から探ろうとしたのは、吉井説以来のもので、興味があり、また結論も私が説明してきたものと同じだが、要はそれで各用例の地理的な説明が出来るかと言うことだ。是非読んでみたいものだが、こういう紀要類はまず読めないのであきらめるしかない。

2313、そがひ14

2313、そがひ14
4003    敬和立山賦一首并二絶
朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり來にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 萬代に 言ひ繼ぎゆかむ 川し絶えずは 
これは「そがひ」の中でも一番難解だ。今までは、「~ゆ そがひに見ゆる」「~に(にして) そがひに見ゆる」で、~のところに、固有名詞、あるいは「ここ」と場所を指示する名詞があったが、この歌にはそれがない。だから、どこから見て「そがひ」に見えるのかが分からない。池主というひとは、「そがひ」を歌う時の型を知らなかったのか。それから、伏木からだとすると、立山頂上は東南東はるか60キロの先にある。私は冨山市から遠望したが(立山、剣、薬師、黒部川などあのあたりは何度ものぼった)、この池主の歌の川の様子は、反歌によると片貝川のようなので私は行ったことがない。魚津市だから、毛勝三山などの剣岳の北方の連山の西側の谷で、池主の描写は実景をあらわしていると思われる。とすると、家持も池主も片貝川のほとりで立山連峰を見て詠んだという設定にしているようだが、なぜそんな離れたところに行くのかわからない。どうせならもっと迫力のある早月川(剣岳に直接つながる早月尾根の先端までいける楽に行ける)とか、立山の主峰につながる常願寺川の上流にでも行った方がいいだろうに。それに片貝川から見たとして、朝日が当たるとどんな景色になるのだろうか。やはり何年も冨山に過ごしてあちこち行った人には叶わない。

●全解
朝日がさして向き合って見える、
●全歌講義
朝日が射して、後方に見える、(大系に、「国府から見ると、東方の立山の後ろから朝日が登ることになる」という。→これだけでは意味不明だ。説明になっていない。だいたいなんで国府から見たと言えるのか、不明だ。)
●新編全集
朝日が差し 後ろに見える霊山 池主は伏木から東北東に日の出を見つつ、その方角から西南方向まで約百三十五度にわたって望まれる立山連峰の山並みを広く見渡して言った、と解しておく→この説明で、なぜ「後ろに見える」という訳になるのか、不明。)
●古典全集
朝日がさし 後ろに見える
新大系
朝日がさして背後に見える、  ここでの用い方は未詳。→未詳なのに、なぜこんな訳が出来るのか未詳。なお、4005の反歌で、「四〇〇五は片貝川近くの現地で作られたのではなく、国府での作だから、留守中の自分たちも、の意」とする。→家持が片貝川の現地で詠んだのに対して、池主等が留守番で国庁にいて詠んだとするのだろうか。
●和歌文学大系
朝日が差し、後ろに見える、→補注で窪田評釈の説に注目しているが、朝日が射す時立山の後ろが見えると言うのは分かりにくい。「後ろが見える」と「後ろに見える」では意味が違うではないか(上の注釈類も同じ)。それに伏木から見ていてそこまで言えるものか。
●釈注
朝日がさして背をくっきり見せて聳える、難解。「そがひに」は朝日がさすことで点出される状況であるはず。…。東方の逆光の中にくっきりと浮き立つ山の姿を、背を見せているととらえた…。→伊藤でも難解なのだ。それにしては、臨場感があるようだが、おおかた想像だろう。立山富山平野側を背というのもおかしい。ただの陰だろう。それに日の出の瞬間に逆光の中に浮かぶシルエットがみえるかどうかも疑問だ。出るまでの短い時間にシルエットが見え(東の空が明るくなる)、出る瞬間は眩しくて大方見えない。出たらあっというまにのぼっていき、シルエットなどできない。日の当たるところと陰との混じる斜面が見えるだけだろう。
「朝日さす」は東の山にちらっと頭を出した朝日が瞬間的にあたりに刺すようにして輝く兢い光景をいう。これが全貌を出して輝くようになると「朝日照る」…という。→用例を確認していないから確言は出来ないが、「朝日照る」は、全貌を出して輝くようになったときというより、東に面した斜面などで朝の日当たりが特に良いところ(万葉の佐田の岡など)でいうことだろう。いくら朝日がのぼっても、山の北面などでは、陰の部分が多く、朝日照るとはいいにくい。射すは空間を直線的に貫く光線、照るは地面などの広い平面が明るくなる状態の光線のこと、といった違いが有ろう。
●全訳注原文付
朝日をうけて背を見せる立山→要するにシルエットということ。
●古典集成
朝日がさして、背を見せるかのように黒々と聳える、→同上
●沢瀉注釈
朝日が背面に射して見える、→同上。ただし、原文のままでは意味が通じない(上の注釈類がそうなっている)というので、「背向に朝日さし」と逆の語順にして読むべきだとしたのは、非常にすっきりするが、そんな言い方が出来るものか疑問だ。
●窪田評釈
朝日がさして、背後に見えている、→語釈では「朝日がさしてうしろ向きに見える。」これと訳とが一致しない。訳の「背後に」というのは「うしろ向き」というのだろうか。こんな「に」の使い方は正格ではない。
●橋本全注
朝日がさし、前後に重なって見える、→吉井説の「そがひ」に従い、前後に見える(並ぶ、立山から大日岳など)の意とする。日の出時のシルエット状態ではなく、朝日が一面に射しているのでなければ、「朝日射し」の讃歌性が出ないというが、それなら伊藤の言うように、「朝日射し」ではなく「朝日照る」でなければならないだろう。また吉井説は「そがひ」の全用例のうちの二三の例に敵するように見えるだけである(それが間違いであることはすでに見てきた)。さらに、伏木の池主の家から見て(なぜそこからなのか根拠を示さない)、はたして朝日が昇りきった状態で、立山の主峰あたりから、大日岳にかけての山の重なりが、60キロも離れていて見えるものかどうか疑わしい。私は神通川から見たが、私の住む奈良盆地南部から金剛山の連峰を見るような感じで、主峰と前山との重なりなどが立体的に見えることはない。シルエットも駄目だが、60キロも離れたところに朝日が一面に射しても駄目だろう。もっと立山に近いところで、山肌などの陰影が朝日によって際立つようなところを捜すべきだろう。それにしても、吉井説ではとうてい解けそうもない。
古典大系
朝日が射して、斜め後の方向に見える立山、→どういう光景なのかさっぱり分からない。
●佐佐木評釈
朝日がさして、横に見えてをる、→家持のも池主のも実地を見て詠んだものでないので作為の跡が歴然としているという。どちらも伏木で作ったというのであろう。
●全註釈
朝日がさして横の方に見える、池主の舘あたりから、正面は南で、立山は横に見えたのであろう。→いつも正面を見ていなければならないのか。立山を主題にするのになんでわざわざ横にあると言わなければならないのか。
●私注
朝日がさし、遙かに見えるところの アサヒサシ 朝の日がさして、ミユルにつづくのであらう。→そがひはここでは普通の語意とは違うというが、全注の言うようにその根拠は示さない。しかし以前からも言うように、この訳が正しいと思う。
●佐佐木總釋
朝日のさす彼方に見える立山よ。そがひは…斜横の意す解するがおだやかである。→語釈からは訳の意味が不明。同じ著者の評釈とは訳文が違う。
●全釈
旭ガ射ス東ノ方ニアツテ國府カラ斜ノ方ニ見エル
●折口口訳
越中の國府から、後に見える所の
●井上新考
略解、古義を否定し、「背面《ソガヒ》ニ朝日ノサシテ見ユルといふべきを前後にいへるなり。」という。これは注釈と同じだが、注釈は井上新考には触れていない。
●古義
「あさひさし」は枕詞(折口のはこれによったものか)。「國府の方より、背向に見ゆるを云なるべし」、井上新考は、国府の後ろは二上山だと言って否定していた。
●略解
朝日サシは常見やる所より朝日のさすに向ひて見ゆる方なり。ソガヒニ見ユルは、府より背向に見ゆるなり。→朝日サシの説明は不審。
●万葉考
背向なり山の背は後なり→意味不明。
●仙覚註釈●代匠記
説明なし。
●拾穂抄
立山の形を云也童蒙抄云そかひはすちかひに也但用ユ2俊成ノ説ヲ1 

こう見てきてつくづく思うのは、「そがひ」の意味も意味だが、「立山賦」とあり、ある注の言うように、それは立山讃歌でもあるわけだが、いくら国府で想像して作ったとしても(一応そう見て)、なぜ脇役程の重みを持って、立山本体とは関係のない片貝川を描くのかと言うことだ。立山なら当然、常願寺川の激流であり、称名滝であり、広大な弥陀ヶ原であり、室堂の雪景色や、高山植物雷鳥であるはずだ。今と違って、万葉のころ立山に登山するなどは考えられないから、そんなものは想像も出来ないとしても、なぜ常願寺川ではなくて、剣岳のさらに北方の毛勝三山から出る片貝川なのか。冨山の住民なら当然持つ疑問だろう。そしてそれにこたえた論文があった。奥野健治ばりに、富山県立図書館の司書という方だが、もう60年以上も前の論文で、出た当座は、ちょっと反響があったたようだが(犬養氏の「万葉の旅」で紹介されている、片貝川常願寺川説は、この論文で言及されたものだろう)、今は見向きもされない。

立山片貝川、廣瀬誠、「萬葉」第20号、1956年7月

地理考証らしく短くてあっけないものだが、万葉の当時、冨山の平野部からは見栄えのしない立山本峰(前山に隠されて頂上部分がちょっと見えるだけという、私は立山剣岳などによくのぼったが、平野部からはそんなに見ていない)より、海近い片貝川の川岸から見て、険しくそびえ立つ、毛勝三山こそが、立山として尊崇されたというものだ。そこもまた、立山の一部だという。それはそうだろう。万葉で葛城山と言えば、金剛山から二上山までの山地である。それは、立山開山の元祖である芦くらの佐伯氏が本来片貝川下流の布施(魚津と黒部の境、片貝川の河口付近で合流する布施川というのがある)というところを本拠にしていたことも傍証になると言う。つまり、常願寺川が無視されたのではなく、当時は毛勝三山が立山であったから、当然そこから流れ出る片貝川が神の帯ばせる神聖な川として詠まれたと言うことだ。これは見事な結論だと思うが、もし伏木の国府から見て詠んだのだとしたら(細部は記憶や想像だとしても)、毛勝三山はあまりに北の端に(左端)寄りすぎるという難点がある。立山連峰のほぼ全体が見え、その中央に大きな立山があるのに、なぜ、その左端の、立山本峰より600メートルも低い(剣岳からでもそれぐらい低い)毛勝三山を歌の主役として詠まねばならないのかと思う。やはりこれは、片貝川の現地に立って、毛勝三山を見ながら詠んだとするしかないだろう(廣瀬氏論文中でそう言う説があるのを紹介されている)。今でも、冨山から地鉄に乗って、上市駅や立山駅に向かうとおおかた田園だが、海岸に沿って宇奈月方面へ行けば、滑川、魚津、黒部、入善、など市街地が多い。家持達も、この線(古代の北陸の幹線道路でもあった)に沿って移動することが多かったのだろう。それなら片貝川から見る立山連峰が印象に残るはずだ。
 そうなると、「朝日射し」の解釈が違ってくる。伏木から見る日の出と、魚津の片貝川下流から見る日の出とでは明らかに違う。それについては、ネット上の以下の論文が明解に答えていた。それによれば私が言うことはほとんどないようだが、細部に於いて違うところもあり、なによりも「そがひ」の解釈が大きく違う。その論文の「そがひ」の解釈は認めがたい。

万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察、藤田富士夫、敬和学園大学人文社会科学研究所年報No10、2012年12月
https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2012/12/nenpo10-10.pdf

この論文によると、家持、池主の立山の賦が詠まれた夏至の頃は、伏木から見て東北東の海上から日が昇るという。そして伏木から見る立山の主峰のあたりがシルエットになることはないという(冬至の頃は立山主峰の背後からのぼるという)。これで、通説の大方は認めがたいものになる。そして著者が言うには、著者が歌を作った場所とする、魚津の片貝川下流からの日の出は、新潟県境に近い、烏帽子山(483メートル)からだとする。これはもう目の前が海である。しかも、そこは朝日町という、なにか池主の歌を思わせる地名である。魚津からだと、ほぼ真東に当たる、北アルプス白馬岳の北方の朝日岳(2418メートル、町名はこれから取ったようだ)もなにかいわくが有りそうだ。その山から見ると海からのぼる朝日が美しいのか、魚津方面から見たら、彼岸の頃はそこから朝日が昇るのか。よく分からないが後者の方だろう。朝日を見るためにわざわざ険しい山に登ることはないだろう(山間の集落から見て最初に朝日が昇る山だからと、ウイキにある、だとすれば、富山県側の山麓命名したと言えよう)。
藤田氏が言われるように、朝日が昇ると、毛勝山の南東面の残雪にあたり輝くという。まさにこれが朝日射しであって、日の出頃の山の背面の暗い部分などは、朝日がさすとは言えない。こんなことは語義からして分かり切ったことだった。今でも「日がさす」といえば、雲が切れて太陽光線が地上に届くことだ。そして、その早朝の光景を、家持も池主も体験したのだろう。おそらく、夏至の前にそのあたりまで仕事で行ったのだろう。ただしその仕事先で、歌を作ったのではないだろう。都から吉野や難波、紀伊などへ行幸して長歌を作った、人麻呂や赤人のようなゆとりはないはずだ。国府へ戻ってから、記憶の新鮮なうちに、家持が人麻呂の吉野讃歌などを参照して立山賦をつくり、ついですぐに池主がそれに和したわけだ。だから、国府(伏木)からの立山遠望などは全く無関係となる。やはり記憶で作るとなると、すこし臨場感に欠けるようで、家持は勿論池主もやや形式的になっている。それにしても、片貝川の急流や、岩山の描写などは、そうとうに実感があるし、「朝日射し」などは、毛勝山の頂上の夏の残雪にあたる印象的な光景をよくとらえている。朝日岳という山の名がいつからあるのか知らないが、魚津、黒部あたりの人にとっては、朝日岳から昇る朝日の光線が毛勝山にあたる美景がよく知られていたのだろう。
結局、
朝日がさして遠くに(輝いて)見える
という解釈が正解となる。これで一応終わるが、一つどうしても見ておきたい論文があり、すぐには入手できないので、しばらくしたら、それの内容を付け加える。

参考、藤田氏のもう一つの論文。

file:///C:/Documents%20and%20Settings/susumu/My%20Documents/Downloads/2011_2_keiwa-c1_008.pdf

 

2312、そがひ13

2312、そがひ13
4207    廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首并短歌
ここにして そがひに見ゆる 我が背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 我が宿の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 來鳴かなく そこは恨みず しかれども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ 告げなくも憂し 
「そがひに寝る」以外では唯一の固有名詞(地名)を持たない歌で、立山の後にしたかったが、都合により先に見る。これは「筑波嶺にそがひに見ゆる」と同じ型で、「に」が「にして」に置き換わっただけとされるものである。ということは「ここに対して(ここから)向こうの彼方に見える廣縄の住む谷に」で問題はなさそうに見えるが、「そがひ」を後の方とする説からはいろいろと説かれている。地名がないから、地図や実地踏査などによる地理的な考察は出来ないように思うのだが、高岡市伏木での発掘調査などで、家持や廣縄の居た建物が推定できるようになってきてややこしくなった。

新編全集
    ここからは 後ろに見える 君の館の 屋敷の谷に… 
この歌は、国庁内の中央北端、現在の勝興寺の本堂付近…の国守公館で詠まれたと思われる。…掾の公館は家持の公館から見てソガヒというべき方角にあり、その「垣内」には谷があるということから、勝興寺の西北の伏木一ノ宮字大塚の台地南面の傾斜地にあったろうといわれる。大塚の台地は勝興寺のある伏木古国府から指呼の間にあるが、その間には現在も小さい谷が介在し、二上山東麓の赤坂丘陵のほうに向って延びており、以前はもっと深く長かったという。

地図を見ると、勝興寺というのはかなり大きな寺で、その北西一帯が伏木一宮である。西北西に道路を隔てて、伏木中学校があり、さらにその西北西に、高岡市万葉歴史館があって、二上山の東麓に接している。北西方向に向かうと、県立伏木高校がありそこまでが一宮で、その西南西の大塚に、気多神社(一宮)があり、かなり大きい。この神社はちょっとした山の上にある。廣縄の住宅はその山の南麓にあったようだが、等高線の曲がり具合を見るとちょっとした谷と言える。勝興寺から気多神社までは1.2キロあるが、麓までなら900メートルほどか。今までの「そがひ」の例で6キロぐらいあったのに比べると、遠いとは言えないが、山や島ではないただの住宅だから、すぐ近くとも言えない。屋敷の森などは充分見えるだろう。問題は、それを「そがひ」(後ろの意味として)と言えるかどうかだ。彼方の意味なら別に問題はないだろう。

新大系
作者大伴家持の住む国守公館は南面して建っており、久米広縄の掾の公館はその斜め背後の西北の谷筋にあったと推測される。
多田全解
国守館は二上山の東麓にあったが、広縄の居館はその背後の谷間にあったらしい。
阿蘇全歌講義
掾の舘が、ほととぎすが二上山に向かう通り道にあたり、初声が聞かれやすい位置にあることを論じた黒川総三氏の論がある…(「丹生の山と池主の公館」万葉八十五号)。…
和歌文学大系
広縄の邸は、家持の館の背後にあった。
万葉集釈注
大塚を、伏木東一宮とする。それなら勝興寺のすぐ真北である。せいぜい100メートルも離れてない。住宅地で埋め尽くされていて、谷かどうかよくわからないが、等高線が曲がっているのであるといえばある。それにしても、こういう位置関係は、裏というのであって後ろの方とは言わないと思うのだが、どうなんだろう。
青木全注
黒川論文を引用して、大塚を伏木一ノ宮字大塚とする。これなら気多神社のあたりとなるが、伊藤博が間違っているのだろうか。
全訳注原文付
掾の居館は山よりの台地にあったという。その構えを、谷を垣内とすると見た。
古典文学全集
そがひ-背後。ただし、必ずしも真後ろと限らない。地理は新編全集と同じ(黒川説)。
全註釈(武田祐吉
ソガヒは後方。家持の館に對して、廣繩の館は、多分北の方面にあつたのだろう。家持の館は、南面していると思われるから、後方に見えるというのであろう。
地理説明なし。
古典集成、沢瀉注釈、佐佐木評釈、窪田評釈、井上新考

略解、万葉考、剳記、代匠記、拾穂抄、管見
何もなし

古義
守(ノ)館より、背ける方にあるからいへり

古典大系、森本総釈
背向-斜め後ろの方。地理説明なし。

全釈
此處カラハ斜横ニ見エル。地理説明なし。

口訳、
茲からみれば反對に、向うに見える。地理説明なし。

私注
訳、此所で向ふ側に見える。地理説明なし。

黒川総三氏の説、「丹生の山と大伴池主の公館」『萬葉』第八五号1974年9月
沢瀉注釈あたりまでは、伏木あたりの地理説明などは一切なかったが、古典全集あたりからは、ほぼすべて黒川説に従っているようだ。随分古い論文だが、あらためて読んでみると簡単なものだ。そして、始めに、伏木中学とその背後の丘陵が写った写真を載せて、大塚の台地、赤坂山の一部と説明している。そして地図も載せている(残念ながら不鮮明の嫌いがある)。これだと、要するに私が最初に検討したもので、高岡市万葉歴史館の南西の山麓である。最初見た時もそこにかなりの谷が有ることに気付いたが、大塚と言えば気多神社のあたりだろうと思ってしまった。注釈書でも、ただ大塚と言わないで、伏木中学の西方から二上山山頂にかけてとでも説明しておけば、私も迷うことはなかった。やはりこういうところは地理に関心のない人の説明の欠点だろう。
ところでそうなると、どう考えても勝興寺北端にあったという家持の公館の背後とか、後の方とか、北方とか言うことはできない。ほとんど真西、つまり家持の公館から、南を向いた場合、真横となる。つまり普通に言う「そがひ」の意味にはあわない。このあたりも、注釈書類の説は不十分だ(伊藤博などは、そもそも誤読しているのだから、地理の素養ゼロと言っていいだろう)。なにも背後などと無理なことを考える必要はない。公館から、二上山の方を向いて、彼方の山麓にある廣縄の公館を見たとすればよい。だいたい「ここからは 後ろに見える 君の館の…」という訳文に無理がある。「からは」と訳したら、家持の公館から後に見えるという意味にはなりにくいのだ。だから、いつまでもすっきりしない感じが残る。「~から後ろ」ではなく、「~の後ろ」ならまだしも違和感はない(葦穂山のところの折口説参照)。だから、土屋私注の「此所で向ふ側に見える。」という訳が一番正確である。やはり「そがひ」は後の方ではなく、彼方とか向こうの方なのである。

2311、そがひ12

2311、そがひ12
17-4011 思放逸鷹夢見感悦作歌一首并短歌
…三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと…(十七・四〇一一)
順序からすると立山がさきだが、都合により、こっちを先にする。これなどは「~を そがひに 見つつ」の型なので、春日野、粟島(2)、おほの浦、と同じで、したがって「そがひ」の意味も、「彼方の」でいいはずである。あとは、地理の問題だが、残念ながら「三島野」の位置がはっきりしない。国府は、現在の高岡市伏木古国府の勝興寺の附近がその跡とされているから、その近くで(普通は日帰りの距離内)、二上山も近くにあるといった条件がある程度だ。
新編全集の地名解説(スペースの関係で出典を示していないが、通説と考えてよい)では、
三島野 越中国府のあった富山県高岡市伏木の南約八km、射水郡大門町南部、二口・堀内の辺か。
とある。地図で見ると、あいの風とやま鉄道(もとの北陸本線)の越中大門駅の南方、庄川の東、北陸新幹線の北が二口、南が堀内である。今は宅地化が烈しいが、そのあたり以外はまだ水田も多い。一面に山も丘もない低地で、今は射水市となっているが、高岡市富山市に挟まれており海も近い。そのあたりどこにも、三島とか野とかいった地名はないが、堀内の西南西1.2キロほどのところに、島という地名があるのが、三島と関連したものなのだろうか。庄川が近いので、それの氾濫原のやや小高いところだったのだろう。伏木古国府から8キロ、小矢部川庄川を越える苦労があるが、2時間もあれば着くだろう。二上山は伏木古国府の西南西4キロだから、三島野からは北方にあり、二上山などは小さい丘陵程度に見えるだろう。

北陸萬葉集古蹟研究、鴻巣盛廣、宇都宮書店、250頁、1934.12.31
に「三島野」の項があり、
…。これによると、三島野は當時狩獵の好適地として、家持が屡々遊んだところで、そこは二上山に面すれば、後方又は斜横にあたることが明らかにされる。…。これによると、三島野は當時國守館のあつた、伏木の丘上から、遙かに見渡される地點であつたのである。和名抄には「射水郡三島郷美之萬」とあるが、今はそれらしい名を、町村名として止めてゐないやうである。併し三州志には、「二口村領に古の三島野と口碑する所あり」とあり。楢葉越の枝折には「今二口村・堀内村領に三島野とよぶ所あり。此ほとりに島村といふも今存せり」とある。萬葉越路の栞は、三州郷莊考に、「射水郡今東條郷、二口村・堀川村・本江村此三ケ村の領田の字に三島といへるあり、必ず此所なるべし」とあるのを引いて、これに「定説として然るべし」と賛意を表してゐる。大日本地名辭書は三島郷について記して、「今大門町、二口村、大島村、小杉町等なるべし。櫛田郷の北とす。三島野とは、その昔放生津潟の南(北とあるは誤記であらう)岸なる藪澤にして、放鷹によろしかりし地なるを思ふべし。」とある。…。
これによって、通説の出所がほぼわかる。ただし、山口博氏の、保育社の本では、不明としてまったく説明をしていない。厳密にはそう言うしかないだろう。郷土誌の類などあてにならないからだ。ところで、鴻巣もいうように、家持の歌の反歌で、三島野で鷹狩りをしたことが分かる。もし通説通りのところが三島野だとすると、そこを彼方にみて二上山へ飛んでいったという説明は出来なくなる。三島野を後にして、とか、後ろに見て、とかいった説明しかできないが、ここだけ「そがひ」の意味が違うのだろうか。解せないことだ。
考えられることとしては、三島野のいつもの猟場へ行く前に、鷹を逃がしたということだ。伏木の国府から出発してすぐに手違いがあって逃がしてしまい、はるか前方の三島野を見ながら右へ逸れて二上山を越えていったというのではないだろうか。天気が悪かったとしても、いつもの三島野で、失敗して逃がすということはないのではないか。家持に告げないで出たというので、出発時に集中出来なかったのだろう。ただの臆測に過ぎないが、「そがひ」を「彼方」の意味で解するなら、こうなるということだ。この場面設定は三島野を春日野に、二上山山辺に置き換えれば、理願挽歌とほぼ同じなので、その点からは都合がよい。

2310、そがひ11

2310、そがひ11
20-4472    八日讃岐守安宿王等集於出雲掾安宿奈杼麻呂之家宴歌二首
大君の命畏み於保の浦をそがひに見つつ都へ上る
              右掾安宿奈杼麻呂
出雲国府は現在の松江駅の南東約6キロ、意宇川左岸の平坦地にあり、北北東んお大橋川が中海に注ぐところまでは約3キロである。北東方向、意宇川が中海に注ぐところまででも約3キロだが、古代はもっと手前で注いでいたようだ。東出雲町の不自然な短冊形の農地を見れば埋め立て地であることが明らか。国府は平坦地にあるが、中海はよく見えただろう。ところで、窪田評釈は、この作は国府出立時に詠まれたものとするが、そうすると、大伴坂上郎女の理願挽歌に似た道程になる。国府を出て、安来、米子、鳥取への道をたどるとすると、初めは北東方向、意宇川河口方向に向かう。それは、理願の葬列が春日野方向に向かったのと同じであり、前方向こうの方に中海を見ていくのである。そうやって都へ上る道の門出となる。国府勤務中、何度も眺めた中海の佳景をよく記憶に留めようとして凝視したのであろう。それからも、安来までは、左手に中海を見ながら行くのであり、中海を後にして行くのは、その後である。作者は、安来から出立したのではない。国府から出たのだから、中海を後にして行くわけがない。まさか、国府から中海を後ろにして、南西方向、奥出雲から三次方面に行くのではあるまい。そういう地理的な条件からして、通説は誤解していると言わざるを得ない。まだ「そがひ」の用例はいくつかあるが、いままでのところ、後の方といった解釈は当てはまらない。前方の彼方である。

3391筑波禰爾 曾我比爾美由流 安之保夜麻 安志可流登我毛 左禰見延奈久爾
筑波嶺にそがひに見ゆる葦穗山悪しかるとがもさね見えなくに
次は東歌のこれを点検する。これについては、万葉158号(1996年7月)、椎名嘉郎、東歌「安之保夜麻」考、が詳しい実地踏査をしているので読んだ。まず、「~に そがひに~」という型はほかにはなく、この「に」が問題だとする。たしかにその通りで、「~ゆ そがひに」357、917、「~を そがひに」358、460、509、4011、4472、「~の そがひに」1412、3577、「~に そがひに」3391、「朝日さし そがひに」4003、「此間にして そがひに」4207、となっている。「~を」というのが4例で多い。「~ゆ」が2例。これらは、「見ゆる」「見つつ」とからめて、視点の違いと言うことで解されてきた。1412、3577は、いずれも枕詞が上接し、「見」を伴わず、比喩的な意味合いをもっている。4003は、「見ゆる」の型だから「~ゆ」があるはずなのに、それがない。視点は国庁のようなのでそれが略されたと見られる。こうしてみると、今問題にしている3391は、「見ゆる」の型だから「筑波嶺ゆそがひに見ゆる」とあるべきだとも思われる。これに似たのは、4207の「此間にして そがひに」だが、これはその項で考えよう。
ということで、筑波嶺を視点とする「~ゆ」の意味と同じだとして、筑波嶺の山頂から「そがひ(後方)」に見える足尾山という説を検討し、筑波嶺の頂上から足尾山を見た景観からして、それは無理だとする。それで、この「に」は、目的格の格助詞だとして、筑波嶺に対して、後方に位置する足尾山、ということだとする。そして、そういう見え方をする、景観を踏査して、筑波嶺の北西方向の田園から撮った写真を載せる。そしてその地方で詠まれた歌だとする。
「に」に着目したのは、卓見だ。今までは、「見ゆる」「見つつ」の違いが論じられてきた。しかし、だからといって、写真のような景観を、「筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山」といえるかどうか疑問だ。筑波嶺は写真の右端にあり、大きいけれども霞んでいる。葦穂山は正面に近いが、半分前山に隠れている。筑波嶺から葦穂山へは6キロあるので、相当離れた感じがする。こういうのは、ただ、山が横に並んでいる、横に連なっているという印象で、どちらかがどちらかの後方という感じではない。葦穂山は加波山とともに一つの山塊をなしており、わざわざ筑波嶺の後方という眺めではない。やはり、こういうように山並みを横から見たら前後とはならない。縦に並んでいるのを見て始めて、前方後方となる。後立山連峰というのは、立山側からみてそう言う。金剛山葛城山二上山は飛鳥からはただ横に並んでいるだけだが、斑鳩方面から見ると、縦に並ぶので、山が重なり、二上山が前、その後ろに葛城山、さらにその後ろに金剛山、という景観になる。「に」というところから、「~に対して」という解釈をしたのはいいが、それを、筑波嶺と葦穂山の前後関係と見るのは承服できない。

「に」の訳。
から後ろに見える、新編全集(語注で「ニは、~に於いて、の意。「ここにしてそが    ひに見ゆる」(四二〇七)のニシテに同じ。」とする)、古典全集(このニはユと同じ  意味用法。筑波山の西南方向から眺めた。西南から見たのでは「ゆ」の意味にならな  い。無茶なことを言うものだ。)
からうしろの方に見える、佐佐木評釈(説明なし)。
から背後に見える、多田全解(説明なし)、全訳注(同)。
から振り向けば見える、新潮集成(説明なし)。
から、向うに見える、折口総釈(に〔傍点〕は、筑波嶺に對して・筑波嶺から見て、など  譯すべきだ。○そがひ 後側《うしろ》或は後向き。遠くから見て、或物を距てゝそ  の後に見えるのだから、むかうと譯してよい。
からは向うに見える、折口口訳(説明なし)。

の背後に見える、阿蘇全歌講義(説明なし)。
の後ろがわに見える、和歌文学大系(説明なし)。
のうしろに見える、全注(説明なし、語注で「に対して」(注釈、私注)とする)、全註  釈(に對してその後方に)。の背面に見える、窪田評釈(「に」は、筑波根を主に立  てての言い方。「背向に見ゆる」は、背面に見えるで、「葦穂山」の位置をいってい  るものである。その山は筑波山の北方に連なる足尾山で、南を表とし、北を背として  いっているのである。)
の反対側に見える、新大系(「に」の説明なし)。

に対してうしろ側に見える、釋注(説明なし、語注で、「において」「から」の意、とし  ているのと、訳と一致しないのに、その矛盾の説明がない。それに、「において」と  「から」も同じではない。)
に対してうしろの方に見える、沢瀉注釈(説明なし、筑波山頂上から足尾山を見た写真が  あるのは貴重)。
に対して、後方に離れて見える、私注(説明なし)。

に背中合せに見える、松岡論究(説明なし)。

序詞と見なして訳なし、大系(説明なし)、全釈(語注で「の後方に見える」とするが、  「に」の説明なし)。新考(ツクバネニのニはユにかよふニなり。)古義(説明なし)。  略解(訳も説明もなし)。考(訳も説明もなし)。

譬喩と見なして訳なし、童蒙抄(ま向ひには見えず。脇樣に見ゆるなるべし。それに思ふ人と我が中との事を喩へて、そがひに見ゆるあしほの山の如く、そむきなして親しからぬは、)

いもせの山のやうにさしむかはすして、そむきてみゆれは、代匠記初(精も同内容)。拾  穂抄、仙覺註釋はほぼ同じ。

椎名氏の論文を読んだ時、「筑波嶺に対して」の「対して」という見方に卓見だと言ったが、注釈書を見ていくと、釈注、沢瀉注釈、私注、折口総釈の語注、全註釈の語注、もそうなっている。釋注は椎名説を受けたのだろうが、沢瀉注釈、私注、折口、全註釈は、遥かに古いから、椎名説の卓見でも何でもなかった。それを見ない(言及しない)椎名説の方がどうかしている。それ以外では「から」と訳すのが多い。「に」という助詞がなぜ「から」と訳せるのか、古典全集などは、この「に」は「ゆ」と同じと言うが、なぜそうなるのかわからない。新編も「に於いて(ニシテ)」と同じというが、これも説明がない。だいたい同じ意味だろうが、それは文脈理解というもので、助詞の正確な意味としては、全く同じとは言えないだろう。「の」と訳すのもある。結局、意味的には、「に対して」「から」「の」訳し分けには大した差が無く、「~ゆそがひに見ゆる」と同じ型の歌と見て、「筑波嶺から見える」としているのだろう。しかし、「ゆ」  ではなくて「に」にしたのには、窪田評釈の言うような意味合いがあるだろう。「「葦穂山」の位置をいっているものである。」とある位置である。窪田は「ゆ」との違いを言わないが(或いは同じとみなすか)、「ゆ」だと、位置といった客観的なものでなく、「見える」という状態に意味がある。つまり見えるものが主となる。「に」は見る方(場所)に主がある。見る方との位置関係を説明しているだけである。
訳し方はいろいろでも、だいたい、皆、筑波嶺の頂上から見たような意味に取っている。沢瀉注釈の写真なども、筑波嶺の頂上から北方をみたものである。しかし、なぜかはっきり頂上からと説明したものはない。だから、「に対して」というのは、頂上からみた位置関係ではなく、麓から見たものだとする説も出て来る。そこをついたのが、椎名論文の発見というわけだが、それが成り立たないことはすでに述べた。古典全集は、西南方向(西南の麓ということだろう)から見たというが、「筑波嶺の麓から」筑波嶺の向こう側をみるなどというのは荒唐無稽である。一歩譲っても、椎名論文のいうように、西南方向からは足尾山は見えないだろう。やはり、頂上からとするしかない。頂上からに「そがひ」に見るの解釈としては、折口総釈が一番すぐれている。ただし、頂上から見るのだから、筑波嶺の背後に見えると言うのは当たらない。「から、向うに見える」という訳は折口だけだが、これが正解と思われる。
それにしても「に」という格助詞はどういう意味なのか。時代別を見ると、いろんな意味が出て来て、どれにすればよいのか悩むし、「筑波嶺にそがひに見ゆる」に似たような用例も見当たらない。基本的に「文中にあって、体言…につき、場所・時間や対象をあらわす。」という意味だが、今の場合「対象」と言うことなのだろうか。つまり「筑波嶺に対してそがひに見える」。「から」「の」と訳しても、似たような意味になるのだろう。
地図
地図を見ても、これといった発見もない。筑波山頂からは北東への尾根続きだが、葦穂山の方が250メートル程低く、6キロ以上は離れているし、手前に同じような峰もあるので、目立つ山ではない。わざわざ筑波山頂に立って、遠く彼方に見える葦穂山と指定するような名山ではない。常陸国府のあった石岡市から見ると正面に足尾山、左に筑波山、右に加波山と並んでいて、三山では一番低いが、葦穂山が目立つ。国府あたりの人が、筑波山の山頂から、遥か彼方に葦穂山を見付けて、なつかしがって、わざわざ詠んだというところだろうか。現地を全く知らないので、実感が湧かないのは残念だ。

東京、長野、近畿の人口

2021年11月
東京都、1401,9665人、8924人減、世帯数5281減。
長野県、201,9521人、851人減、世帯数105増。
大阪府、880,9457人、2660人減、世帯数88増。
京都府、255,9888人、1470人減、世帯数446減。
兵庫県、543,4719人、2023人減、世帯数107減。
滋賀県、140,9242人、85人増、世帯数49増。
奈良県、131,3335人、512人減。世帯数69増。増えたのは、香芝40、葛城20、田原本15、王寺29、天川4、東吉野1の6。
和歌山県、91,3509人、690人減。世帯数103減。増えたのは、岩出15、日高27の2つ。
和歌山市(35,4635)-奈良市(35,1494)=3141
滋賀県だけが人口増加というのは変わっている。世帯数は長野、大阪、滋賀、奈良が増えた。全体に減り方が鈍り、世帯数の増加も目立つ。