2258

2258、
準不足音句考、木下正俊、「萬葉」第26号、1958年1月
山口佳紀氏が言及されていた(2250参照)ので読んでみた。もう63年も以前のものというだけでもないだろうが、何とも素朴な論文で、それに木下氏という人もナイーブな人だからほほえましくなる。関東とは違う関西の特徴だろうか。とにかく、山口氏の簡単な紹介で尽きている。準不足音句は第二句と第四句に圧倒的に多い。つまり7音句に多いわけだが、これについては山口氏が解決を与えていたように思う。残る一、三、五句には少ないが、一、三句については(つまり5音句)、準不足音句にしないような改訓はほとんどできそうにない。それで第七句(7音句)の81例の改訓を試みてみた。というので、81首の短歌を全部引用してすべての改訓の可能性を試してみると、半数以上の45句は確実に改訓できるとしたものだ。
関西風という意味で、最近出た(昨年の4月)坂本信幸氏の「万葉歌解」を連想させる。ただし、この本はちょっとひどい誤植が散見する。954頁の大著なら仕方がないか(しかし、2万7千円もする、塙書房の本なのだが)なら仕方がないか。それにしても、渡辺護氏が渡辺譲氏になっていたのには驚いた。ほかには、吉野→古野、熊凝→熊擬、弓弭→弓餌など。読み切ってないからまだまだ出て来るかも知れない。

 

2257

2257、
品田悦一、人麻呂歌集旋頭歌における叙述の位相、「萬葉」149号、1994年2月
○旋頭歌は短歌の唱謡の形の意識的利用を通して編み出された「二次的な歌謡の様式」で、文献上の存在態様から見て、人麻呂によって創出された公算が高い。(神野志隆光柿本人麻呂研究』1992年)
という説を基底にしてその叙述の位相を詳しく考察したようだ。
口誦的・集団的な造形、つまり歌謡的な実体、を否定する形が現在の研究水準だが、かといって、相変わらず、掛け合いとか問答とかいった固定観念による享受から脱していない。それで人麻呂の旋頭歌を考察したということだ。そして1278番の解釈につい斬新な解釈を展開していく。さすが品田氏だ。
複数の視点が統一されないまま放置されている旋頭歌が人麻呂には多く、それは口誦的な構想力の結果であるという。そしてそういうものが集団的・口誦的な叙述の実体であるのに、歌謡的な旋頭歌は、掛け合い、呼びかけ、問答といった型式をもつというような、あまりに透明なイメージで捉えていたというのである。
つまり、人麻呂の旋頭歌こそが、本来の口誦的・集団的な叙述そのものだというわけだが、それが、実体としての歌謡ではなく、二次的な歌謡の形式とか、更に言えば人麻呂の創造による文学形式などには、どうつながるのか、次回のお楽しみというわけだ。
こう問題の先送りが続くと、読む意欲が減退する。すでに紹介した、
万葉集東歌の原表記、品田悦一、日本文学研究大成 万葉集Ⅱ 曽倉岑編 国書刊行会 309㌻ 2003.1.31
はこれの9年後のものだが、旋頭歌が東歌に変わっただけで、歌謡から定型和歌への道(万葉集への定着)が明瞭になったとはいえないだろう。まだまだ試掘作業(トレンチ)は続くのだろうか。学者というのもつらいもの。

 

2256

2256、
東歌の枕詞に関する一考察、品田悦一、【稲岡耕二先生還暦記念】日本上代文学論集、352頁、上代文学研究会編、1990年4月12日
これは先に見た、1、1986年7月、と、2、2003年1月、の間にあって、1の4年後のもので、1よりもはるかに長く、また内容も大きく拡張されているが、「枕詞に関する一考察」といった控え目な題のために誤解を招く。内容が多岐に亘り、また枕詞に関する細かい統計的な処理もあって、かなり理解しにくいものであり、紹介も楽ではない。ということで引用してみよう。
○大久保氏の東歌研究は「万葉集東歌の性格」(以下「性格」と略記)にその到達点を示しています。そこでは「東歌のもつ性格を統一的・全体的に把捉するための方法」を確立すべく「東歌を民謡と規定することと、民謡的性格を指摘することとは方法的に厳に区別して考察される必要があ」ることが確認されるとともに、津田左右吉武田祐吉両氏以来の非「民謡」説を正面から受け止めることによって、「東歌を民謡と規定する」従来の実体的把握が厳しく斥けられたのでした。その一方で、「万葉集の短歌全体の中においた場合に、東歌が際立った特色をもっている」事実については、これを「民謡性」として理解すべきことが改めて主張され、さらに「東歌の根幹となる性格を民謡性と規定しようとする場合に、それと対立する性格として浮かびあがってくる問題点」が一〇項目にわたって吟味されたのです。
この大久保氏の著書は私も出版された頃に読んだが、昔のことで大方忘れた。ただし、品田氏は徹底した調査と哲学的な思考とが組み合わされ、大久保氏よりも理解しにくいとはいえる。それはともかく。民謡と民謡性の区別を主張した大久保氏の説は私の言っている前提と同じで共感できるが、品田氏はそれを更に精細に追及し、大久保氏の言う民謡性にはまだ実体的な把握の残滓があって、不十分だという(枕詞の調査で証明)のだから精密だ。

 1 中央文化の東国への波及
 2 中央における東歌伝承過程での磨滅
 3 中央人の作歌そのものの混入

ということで、この大久保氏の出した(東歌の民謡性を否定すると思えるもの三箇条、大久保氏以前からある通説でもある)について詳しく批判し、基本的に大久保氏のいうのは、東歌の民謡性(言うまでもなく民謡そのものではない)を認めるということだと、規定する。

〇「民謡」性に関する判断が排他性をもち得るには、これと裏返しに、「民謡」以外の<うた>の領域もしかるべく確定されている必要がありましょう。この点に関する氏の議論はどのようなものだったのでしょうか。そこには、「民謡」ならざる歌とは貴族の抒情詩であり、それは個人の体験を一回的にうたうものであるとする認識が、自明なことがらとして前提されていたように見受けられます。が、これは正当な論法だったのでしょうか。
 端的には、近時注目されつつあるように、貴族階級の<うた>の世界にも「官人の集団歌謡的な歌」とか「座興的抒情」とか呼ばれる独自の領域が存在したはずなのに、大久保氏の見取り図においては、それが予め射程外に置かれていた仕儀なのです。こうした<うた>の領域を考慮に入れるならば、ⅰⅱⅲが「民謡」性の指標たり得ないことは明らかだと言うべきでしょう。

これだけでは分かりにくいと思うが、大久保氏の「民謡性」という認識の脆弱さを指摘しているのは分かる。

〇「民謡」性に関する主観的固執を度外視して読み換えるとき、氏説の基本線は、東歌を在地の創作歌と規定する土橋氏の所説に対し、ほとんど紙一重と言ってよい位置にまで接近してくるのです。

〇原東歌には、私たちが現東歌に見ることの出来るような枕詞はほとんど含まれていなかったと考えざるを得ないのであり、またこの場合、原東歌と現東歌との落差を、大久保氏の考えていた以上にはるかに拡張して理解すべき仕儀となる点に、改めて注意しておかなければなりません。東歌の枕詞はあくまでも定型短歌としての次元において東歌の表現に参与しているのであって、現東歌の前身として「民謡」的歌謡の層を認める仮説に立つとしても、波及の論理をそのような歌謡の層の次元で一貫させることには無理があるのです。
 大久保氏の流儀に加担し難いことが確認された以上、問題は土橋説の枠組みにそくして再検討されて然るべきでしょう。原東歌自体が在地の定型短歌として成立したと仮定すれば、右に述べたような、枕詞をめぐる現東歌との落差という難点についても、少なくとも定型性に関してはこれを解消し得る仕儀です。

〇それらC類の枕詞において、被枕の部分にはいわゆる「東国方言」的要素が散見するにもかかわらず、枕の部分にはそうした要素が皆無である点も、これらが在地の詞章や歌謡に育てられたものでないことを証言していると言えましょう。

〇当面の論脈においては波及原理が大前提をなしているのでした。東歌の成立は、さしあたり、東国人による短歌定型の摂取と、その枠内における独自性の追求として理解されている仕儀です。ここで銘記しておくべきなのは、くだんの独自性があくまでも中央貴族の歌々に対する相対的独自性にほかならないこと、言い換えれば、「東ぶり」と呼ばれるものが都雅に対する鄙俗、ないし洗練に対する粗野以上のものを意味せず、したがってまた、中央文化との相関を抜きにして語り得るような、真に自立的・個性的な地方自身の文化を表現してもいないという点でしょう。在地性は過大に評価されてはならないのです。

〇波及原理を前提として出発する限りにおいては土橋氏の枠組みを最終的に廃棄し得ないものの、定型短歌としての東歌の特色を東国の文化的伝統に根ざすとすることは出来ないし、またそれを東国人の主体性・創造性の所産として評価することも、少なくとも枕詞に関しては極めて困難だと言わなければなりません。

〇東歌の成立を準備したこの時代の交通が、地方社会の活力ではなく、中央の側の要求を主たる動因として展開した事情が示唆されていないでしょうか。「東ぶり」自体、中央の要求に従って創出されたとの見方がここに成り立ち得るのです。
 東歌の集団性とは、この観点においては、「民謡」性とも在地性とも懸け離れた、貴族文学の一側面としての集団性であったことになりましょう。ただしこのように述べるためには、東歌を取り巻いていた集団の構成員に関説する必要がありましょうし、またこの場合、特に在地首長層の位置づけを明確にしておかなければなりません。
 これまで私たちは、波及原理を作業仮説とした場合に措定される東歌形成主体につき、論脈の要請からこれを「在地の住民」「東国人」とあえて暖味にしてきたのでした。が、これを在地首長層ないし豪族層と限定するとともに、彼らによる中央文化の摂取と消化とを想定するならば、東歌を地方社会の文化的達成とする見解にも一定の根拠が加えられる仕儀です。東歌の生い立った環境については、中央と地方との交通の結節点が考えられて然るべく、具体的には各国の国府や郡家・駅家がそれに当たるものと推定されますし、そこで催された酒宴などの座に、赴任官人らにまじつて郡司等の在地の有力者が参与したと考えることも十分に可能でしょう。

〇ここで強調しておきたいのは、彼ら首長層の参与の仕方が、基本的には中央貴族の文化への同化を意味していたこと、彼らは郡司等として国家機構の末端に連なる資格においてそこに参与したのであり、そうした政治的諸関係を抜きにして単なる文化的進取性を発揮したわけではなかったということです。

〇定型短歌の交通は汎列島的な拡がりをもったと考えられますが、それはあくまでも律令的交通制度に付随して生じた事態にほかならなかったし、したがって、古代国家を領導した貴族階級の文学の、新たな多彩的展開の一環以上のものをも意味しなかったのです。

これほど大量の引用になってちょっと情けない気もするが、私の力としては、これで精一杯だ。枕詞の理解に関する具体的な論証の部分などおおかた引用できていないし、できそうもない。最後の方の文学史的な位置などというのは、さすがに「万葉集の発明」を書かれただけあって壮大なものだが、なかなかこれだけで(枕詞の分析だけで)、実際の東歌が十分に理解できるかというと、なかなかそうはいかないだろう。現に、新大系万葉集の東歌の注を見ても、民謡だと断定しているのがいくらもある。
私は、万葉集に、歌謡(民謡を含む)そのものなどないと思うが、品田氏の論を読むと、力強い。定型和歌(一部不整形を含む)と歌謡はしょせん別のものだと思うのだ。久米常民氏の論はやはり認めがたい。なお品田氏の東歌論は未見のものがまだ複数残っている。すぐに読めるかどうかは分からない。

 

2255

2255、
久米氏などによると巻14東歌などは最も歌謡(民謡)である可能性の高いものだが、これも都の歌人の手の入ったものとする説は久米氏などよりかなり以前から武田祐吉などの説があり、その後も民謡などといったものではないということがいろいろと証明されてきている。そのなかで最新のものといえば品田氏のものだろうから以下の二つを読んだ。2は1の17年後のものであり、1の内容を大方含んでいるから、2だけ読んでもよい。
1、萬葉集巻十四の原資料について、品田悦一、「萬葉」124号(1986年7月)
2、万葉集東歌の原表記、品田悦一、日本文学研究大成 万葉集Ⅱ 曽倉岑編 国書刊行会 309㌻ 2003.1.31
1は、書式や東歌・防人歌の方言のあり方などから、そもそも最初の採録時点で東歌は民謡の実態を失っていること(方言が正確に記録されていないし、だいいち技術的に不可能)。一字一音式ばかりでなく、正訓字を含んだのもあること。それが集成された時点でも、なお雑多なものであったこと。万葉集に収録される時点で一字一音式への書き換えがあったが、なお雑多なテキストの集まりであることの痕跡があること。などが論じられているが、こまかい文字の使い分けの統計的な処理など、そう言う作業をし、理解するだけの素養がない私には、十分な理解はできない。このまとめも不十分なものだろう。
2も、ほぼ同じような内容だが、17年後ということや、分量の多さ、などから、議論が拡大されている。これもまとめにくいから、結論的な部分を引用しておこう。
○かつて「民謡」と呼び慣らわされていたが、研究史の進展はかかる実体的把握の修正ないし否定を一般化させ、その結果、少なくとも万葉集に現に見る東歌自身を「民謡」と見なすことの不当性は、すでに共通の了解のもとにあるとしてよい。
○われわれは東歌を在地の歌謡が中央人の聞き書きによって採録されたものと見なすことから出発する。この作業仮説は本稿の一貫して依拠するところであるが、それは語彙レヴェルの議論ゆえの限界にほかならない。
○東歌もまた万葉集に定着した時点では「純然たる貴族文学の文献」にほかならない。複雑な過程を経て定着し、文字上の貴族的スタイルに捉えられた歌々においては、東国訛りにしたところで「趣味的なもの」であった可能性は否めず、現地における言語的事実の素朴な反映とは見なし難い。
○遠藤論文の主張した「飜転」の問題、すなわち中央人である採録者が「何か不審の言葉があった際にそれを京言葉に飜転する可能性のある事…
○東歌においては常に語義が語形に優先させられていると見ることも出来る。この相違は、東歌の語彙がいったん正訓字で表記されて、「方言」的要素を濾過された結果ではないか、と仮定してみると、うまく説明できるように思われる。
○筆録されることを通して幾重にも在地性を剥奪され、そのようにされることによって初めて東歌は「貴族たちの文化財」たり得たのである。
こうしてみてくると、万葉集の中でも一番歌謡性が高いと思われていた東歌にしても、歌謡としての属性を大方失っているもので、他の巻の和歌と同じような鑑賞や理解をするべきだと言うことになる。土屋文明などは、巻11、12当たりの歌をなんでもかんでも民謡だと言って、低い評価を与えているが、民謡らしさを意図した和歌作品だと見ていいのではないか。だから、初期万葉や、巻13の長歌群にしても、歌謡であることを強調する必要はないだろう。

 

2254

2254、
声と文字 上代文学へのアプローチ、稲岡耕二編、塙書房、1999.11.28
から、次の二篇を読んだ。
民族の声
     ――<口誦文学>の一面――    品田 悦一
<声>と<文字>のあいだ
    ――オングのテキストの批判的読解(1)を通じて―― 西澤一光
品田氏のは、半分近く「万葉集の発明」2001年に収録されている。残り半分ほどが、口誦文学という用語がいつ誰によって、どういう意味で使われたかという事を主な論題として、柳田国男折口信夫久松潜一、高木市之助、金田一京助、風巻景次郎などの論考を引き合いに出して論じられる。文字以前の未開の幼稚なものという見方が、外国の研究成果の影響か、アイヌユーカラなどのように、音楽や舞踊などを伴う文学的な価値のあるもの(金田一)という論も出て、口誦にも文学的な価値が認められるようになったという。柳田などを引用するように、多くは民俗的であり、また民族的(国粋的)でもあった。しかしこれだけでは、万葉集の中の歌謡的なものの性格を知るには至らない。

(久松からの引用)これに反して万葉集の如きは集団的な民謡もあるけれども、多くは個人的に作られたものである。……前者(記紀風土記等の神話、伝説、説話)を流れて居るものは民族的〔集団的〕国家的精神であり、後者を流れて居るものは個人的精神であると思ふ。(「大和時代文学概説」初出新潮社『日本文学講座』1・一九二六-七年。以上、引用は前掲書に拠り、初出との異同を〔 〕内に示した)
 高木は、「民謡」の属性として社会性・歌謡性・素朴性を挙げた上で、歌謡性とは「聴く文学」としての特殊性を意味すると説く(前掲書六三ページ)。武田もまた、消極的にではあるが「声の文学」の語を用いる(『上代日本文学史』二五ページ)。

これらから、久松の穏健な説、高木の定義の的確な事が判るのが取り柄。

西澤氏のは、題にオングとあるように、欧米の研究を主な論点としたもので、特にデリダなどの現象学的、テキスト論的、記号論的な議論が多く、私などのようなものには難解だ。中で、稲岡耕二氏の「後期稲岡説」オングの学説の影響による、人麻呂歌集の文字化の論議は、興味深い(私も稲岡氏のその議論はたくさん読んだから)。

 この点(人麻呂歌集の文字化)につき、まず予備的な指摘をしておきたい。前記放送大学教材では、「声の文化」についての一般的な概観が1章および13章において与えられており、その中で注意されるのは次の二点である。
 1 巻一、巻二に収録されているような初期万葉歌は、「もともと音楽や演劇的な身ぶり等も伴って口頭で歌い伝えられていた作品」であったとされている点。
 2 稲岡学説におけるオングの引用は、声の文化における「共有的な一体化」について述べた部分に、とくに絞られるという点。
 つまり、「声」の<うた>とは、音楽や演劇的身振りと分かちがたい状態にある言葉であり、その分直接的に聴衆をとらえる力をもった言葉であった。それは、それ自身の生命を宿した具体的な言葉であつて、歌い手も聴衆も一体となるような中でこそ力強い息吹を得るものだった。一座の人々の身体が<うた>に乗り移られて共振しあうということさえあり得たであろう。
 人麻呂歌集の書き手は、明らかに、このような一体化した陶酔状態を知っていた(この間題には終節で戻ろう)。そこでは、<うた>における情動的なものは、すべて共感の世界に根を張っているのだつた。『人麻呂の表現世界』の分析が示すように、人麻呂歌集の書き手は、明らかに<うた>がうたわれる具体的場面を思い描きながら書いているのであって、そこには歌い手も聴衆も含まれていた。

このあたりが一番参考になった。とはいうものの、共感の世界とか共有的な一体化といったことは、神野志氏などの論説もあって、もはや常識に近いかも知れない。それよりも、1の初期万葉は口頭で歌い伝えられたというのが気になる。それだと坂本氏のいうように、天武の25番歌も、「もともと音楽や演劇的な身ぶり等も伴って口頭で歌い伝えられていた作品」、あるいは、もともとではなく、25番歌そのものが、集団で朗誦されたとでも言う事になるのだろうか。とにかく、初期万葉の歌謡性ということについてはまだまだ未解明の部分が多い。

2253

2253、
次に読んだもの。
柿本人麻呂詩学、西條勉著、翰林書房, 261頁、2009.5

一 天武朝の人麻呂歌集歌
  1 はじめに………………8
  2 木簡の示す事実…………………9
  3 極初期宣命体の歌……………17
  4 おわりに…………………27
二 人麻呂歌集旋頭歌の略体的傾向
  1 はじめに…………………32
  2 表記と用字…………………33
  3 形式とモチーフ…………39
  4 書き手の志向………………46
  5 おわりに…………………51
三 人麻呂歌集七夕歌の配列と生態
  1 はじめに…………………60
  2 前半部の配列………………61
  3 後半部の配列…………68
  4 拾遺部の生態………………71
(3)  5 書くことによる創造………………77
  6 おわりに……………84
四 人麻呂歌集略体歌の固有訓字
  1 はじめに……………90
  2 固有訓字の前提…………96
  3 文字表現の効果…………101
  4 韻律としての像…………105
  5 おわりに…………110
五 人麻呂歌集略体歌の「在」表記
  1 はじめに…………114
  2 稲岡・渡瀬説批判…………117
  3 アスペクトの像化…………122
  4 書くことの内部…………130
  5 おわりに…………137
(4)六 人麻呂作歌の異文系と本文系
  1 はじめに………………140
  2 本文系・異文系の対照…………143
  3 異文系から本文系へ…………150
  4 歌稿と歌集……………160
  5 おわりに……………168
七 石見相聞歌群の生態と生成
  1 はじめに………………172
  2 「或本歌」の評価…………176
  3 現地性/遠隔性…………183
  4 声の歌/文字の歌………190
  5 時制と話者…………………196
  6 おわりに…………………203
八 人麻呂の声調と文体
  1 はじめに…………………208
  2 技術としての声調…………………210
  3 文体のリズム…………………216
  4 おわりに…………………224
九 枕詞からみた人麻呂の詩法
  1 はじめに…………………228
  2 人麻呂歌の枕詞……………229
  3 定型のシンタックス………233
  4 リズムと像…………………237
  5 おわりに………………242
(補)あとがきにかえて…………………245

この目次を見るだけで、頁数の割りに中身の濃いものだと判る。今の場合、七以下の、いわゆる声の歌と文字の歌の議論が役立つ。歌謡そのものや歌謡から脱化したものがあるとか、歌謡の歌詞だとかいう、久米常民氏流の議論からは相当に前進している。人麻呂に限った議論とは言いながら、万葉と歌謡との関係を見るにも有効だ。目次にも出ているが、茂吉の声調論を引用しながら、それを文体のリズムと捉えるところが斬新だ。つまり人麻呂は、本来歌びと的な素養を豊かに持っていたが、その歌謡の特徴を文字の歌(目で読む歌)に持ち込み、独特の歌謡的な長歌短歌を作ったというのである。万葉に載っているのは、歌謡や歌謡の歌詞とかではなく、歌謡性を持たせた(人麻呂の詩法)、目で読む歌だというのである。それが、異文系から本文系、現地性/遠隔性、時制と話者、枕詞の持つリズムと像、という方法で具体的に人麻呂作品に即して解明されている。

 ♪にきたづの~荒磯のうえに――」。
  ♪か青く生ふる~玉藻沖つ藻――」。

 無理を承知のうえで声で誦詠されるときの状態をイメージしてみると、このようになるであろうか(ただし、♪は音声であることだけを示す)。これらの歌は音楽的に歌われたわけではなく、あくまでもことば自体のリズムにおいて誦詠される。

ここに引用したように、人麻呂の歌は音楽的に歌われるのではなく、言葉自体のリズムで、57調とか、繰り返し的な対句とか、枕詞とかいった歌謡的な表現が、濃厚な記紀歌謡的な、歌曲的な表現を濾過して、目で読む歌になり、また誦詠されるのである。

ついでに読んだ。
万葉歌解、坂本信幸塙書房、954頁、2020.4.10
附論
  三 歌謡と万葉歌(初出2016年12月)………………………九三四
これは、西條氏や稲岡耕二氏などの声の歌から文字の歌への議論が出きったあとに書かれたもののようだが、正直言って、久米常民氏の水準からほとんど出ていない。いろいろ具体的な証拠を出しているが、要するに概論的啓蒙的な内容に終止している。和歌と歌謡とはどう違うのかという重要な問題を提起しながら、万葉には、歌謡的な属性を伺わせる証拠は各所にあるが、また、歌謡とは断定できない、つまり反証もあちこちにあるという。附論だから本格的な研究ではないといわれればそれまでだが、序論的なものとしては良くできている。万葉を材料にして歌謡を論じるなら、この論文の中身ぐらいは認識しておけといったふうに。

これらの歌(続紀にある歌垣の歌)は明らかに歌謡といえるが、例えば天武天皇の御製歌として巻一に載せられた、
  み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を(1・二五)
が、天皇の吉野宮行幸の際に、行幸従駕の人びとによってある曲節をもって朗誦された可能性を否定することはできない。松田好夫氏が「問答歌成立の一過程」(『万葉研究新見と実証』昭和43年、桜楓社。初出昭和25年2月)において巻一二五とその或本歌である巻一・二六、異伝歌である巻十三・三二六〇、巻十三・三二九三の四首がいずれも「十三句であり、同一構造の上に、類似の語句、類似の表現を持つてゐる」ことから、「同じ曲節によつて歌はれた民謡であつて、相互は民謡としての伝誦的関連によつて結ばれてゐる」と論じたのは、二五歌を「民謡」とする点に問題があるものの首肯される論であり、集団の朗誦が推定される。

ここに、「ある曲節をもって朗誦された可能性を否定することはできない。」とあるが、西條氏が歌ではなくて誦詠といわれ、また、山口佳紀氏が律読といわれたのとは違う。曲節とか集団の朗誦とかいえば、まさに歌謡ではないか。万葉集に歌謡そのものがあるとはどういうことなのか。天武の二五番歌は歌謡そのものなのか。疑わしいことである

東京、長野の人口

東京都12月1日の人口動態
総人口 1396,2725人、1026人減少。
長野県12月1日の人口動態
総人口 203,2567人、1245人減少。世帯数173減少。
東京の減少続くが、その幅は大きく減少。長野は珍しく世帯数も減少。