東京、長野、近畿の人口

2023年6月
東京都、1409,0347人、5011人増、世帯数234145減。
長野県、200,8353人、537人減、世帯数906増。
大阪府、877,5200人、299人減、世帯数3956増。
京都府、254,1166人、707人減、世帯数743増。
兵庫県、537,8792人、1430人減、世帯数1470増。
滋賀県、140,6739人、91人増、世帯数383増。
奈良県、129,8198人、703人減。世帯数243増。増は、香芝5、川西4、三宅8、田原本1、高取1、明日香2、河合2、黒瀧1、野迫川1、下北山3の10。多すぎる。
和歌山県、89,4366人、803人減。世帯数6減。増は、岩出6、九度山4、有田川15、日高12、上富田34、すさみ4の6、多い。
和歌山市(34,9275)-奈良市(35,0242)=-967
世帯数増、おそろしい。ただし東京の減り方は異常。奈良と和歌山の差が少し開いた。

 

東京、長野、近畿の人口

2023年5月
東京都、1408,5336人、2,1772人増。世帯数2,8358増。
長野県、200,8890人、1243人増、世帯数3370増。
大阪府、877,5499人、4849人増、世帯数1,1615増。
京都府、254,1873人、4013人増、世帯数5417増。
兵庫県、538,0222人、1817人増、世帯数6479増。
滋賀県、140,6648人、1349人増、世帯数1791増。
奈良県、129,8901人、45人減、世帯数1526増。増えたのは、奈良301、天理293、平群23、三郷11、斑鳩21、田原本18、曽爾2、王寺22、天川4、野迫川1、十津川18、下北山4、上北山3、の13。
和歌山県、89,5169人、762人減、世帯数571増。増えたのは、新宮11、高野3、日高3、上富田1、北山1の5。
和歌山市(34,9541)-奈良市(35,0326)=-785
すさまじい増加、減ったのは奈良和歌山だけで、それも微減。世帯数は増え方も凄い。本気で人口抑制に取り組むべきだ。

2334、風土の万葉、藤原宮御井歌の東西南北の山

2334、風土の万葉
「藤原宮御井歌」の東西南北の山

1-52    藤原宮御井
八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水〔短歌略〕

八隅知し わご大王 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始め賜ひて
埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば
大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける
高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば つねにあらめ 御井のま清水

はじめに
 東西南北の門に対する四つの山の描写に工夫があって、実に見事な風景の造形が行われている。今はだいたい通説らしいものが出来て、作者の問題や文学史上の位相の問題を除けばほとんど問題にされないが、風景の表現の元になる地理的な事実については、問題を残している。江戸時代には畝傍山は南門に対すると見られ、吉野の山と重なるので少し問題になったが、今は西の門に対すると言うことで決着した①。しかし、今でも時々指摘されるように、西の中門から見ると、相当に南に偏っており、つまり南西の巨勢方向に見えるので、西の方位というところに不安がある。西の方位といっても、角度はかなり広く取れる場合もあるので、真西でなくともよいという説もあるが、本稿では別の見方もありうることを推測してみたい。香具山、耳成山は風景描写の理解がまだ浅いように思うが、地理的には問題ない。吉野の山は、最近の注釈でも、藤原宮から南方遠くに見えるとするものがほとんどで、金子評釈をはじめ、二三の反対説(絶対に吉野の山は見えないという説)があるが、問題にされることがない。これは物理的に見えないことは明らかなのだから、見えないという前提の上で歌をどう解釈するかというのが問題で、それについては本稿で中心的に論じた。なお、藤原宮の門と山を眺めた出発点である埴安の池の堤が未解決である。これはもはや確実に場所を特定することは不可能に近いが、それでも一考の価値はあるし、四山のあり方にも係わるので、具体的な位置を想定した。以上の地理上の問題を論じて、風土と藤原宮御井歌との関連に説き及びたい。

埴安の池の堤
 木下正史氏によると②、
  現地形と周辺における発掘成果などを併せ考え、現在の下八釣集落からその北方にかけての場所に池跡を推定している。このように推定してよければ、中ノ川は埴安池に流入していた可能性がでてくる。
ということだそうである。中ノ川というのはちょっとした溝程度の小流で、下八釣一帯も平坦な水田地帯だから、谷口を塞き止めるような大きな池はできない。大極殿跡のあるかつての鴨公小学校の周囲にある醍醐池や別所池程度の皿池であろう。江戸時代には下八釣の南東香具山山麓の出屋敷から北北東に延びる低い尾根を池の堤の一部と見たようだが、これは磐余の池関係のもので、埴安の池とは関係なさそうだ。皿池とすると堤はそう高くないだろう。しかし、藤原宮の大垣を間近に見ることで、宮の立派さは分かる③。
 橿原考古学研究所のHPに、藤原京条坊復元図がある。それで見ると、中ツ道と東の大垣の北半との中間を中ノ川が流れており、その建部門(東の中門)の東あたりが今の下八釣だから、建部門の北東の中の川の東西を占め、東の大垣にかなり接近したところに、埴安の池の西の堤があったのだろう。つまり岸俊男氏復元の条坊だと、東二坊大路と東三坊大路、二条大路と四条大路に囲まれた部分に池があり、その東二坊大路(東の大垣の前面)と二条大路の交わるあたりの堤ということになろう(堤は曲がり角の所が広いのが多い)。随分南北に細長いがこういう皿池もあるし、埴安の堤から北の大垣の門を見るにはやむを得ない。
 ところで、なぜ埴安の池の堤なのだろうか。藤原宮の北東の隅の外側あたりから、四方の門と四方の山を描写するのは何か理由があるのだろうか。宮の全体や建物の配置などを見るなら南の正面朱雀門から朱雀大路を少し南に行ったところに、日高山という一寸した丘があり、その上から見るのが最適だが、中央が削られて朱雀大路になったために、風致に欠けるのだろうし、御井から離れすぎるようだ。というのも、井戸はやはり内裏(天皇の生活場所だから、北の大垣に近いところにある)にあるだろうからである。御井を主題にするのなら、垣の外ではなく、内部のその井戸の側で詠んだようにすればよいようだが、門(大垣の印象もある)や三山の眺めを描写するためには、外から見た方がいいだろう。朱雀大路のような正面でなく、もっと高いところから宮の建物の配置を見るなら、香具山に昇ればよいが、山中から見たのでは、山全体が東の門に対しているということが見えにくくなるから、少し離れて見た方がよい。
 歌に藤原宮を造りはじめたとあるのは、死んだ天武ではなく、持統④が主語で、やはりこの天皇特有の事情があるのだろう。確実なことは言えないが、推測できることはある。
 埴安の池の堤を展望の場としたのには、高市皇子の存在が大きく影響していよう⑤。万葉にあるように、この皇子の宮は香具山の宮と呼ばれ、埴安の池の近くにあったようだ。199番の短歌の二首目201番に、
埴安の 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人はまとふ
とある。おそらく、埴安の池と香具山北麓の間を占めていたのだろう。またこの皇子は太政大臣として藤原宮、藤原京建設の責任者であったようだから、その皇子の宮の近くで、建設の状況を質し、御井のあたりや三山を見るのはふさわしいし、その場所の設営や接待にも便利である。
 最後に、この天皇は水辺が好きだったようで、飛鳥周辺だと、埴安の池が最も手近で、空も広々としていて、風景もいい。吉野行幸や伊勢行幸でも船遊びがあったようだから、埴安の池で船遊びぐらいはしたであろう。

   埴安の池の堤からの眺め
 大垣の塀は高くて大きいから、その外堀に添うあたりから見たのでは、畝傍山あたりは見えなかっただろうと思われる。埴安の池の堤はどれほどだろうか。あのあたりの皿池ならせいぜい2、3メートルぐらいだが、5メートルぐらいの高さのところもあったのだろうか。それだけあって、大垣から50メートル以上離れたら、畝傍山もかなり見えるだろうが、一辺900メートル以上だから、畝傍山に面する西の大垣、更には南の大垣などは、宮内の宮殿や官舎などにも遮られ、小さくとぎれとぎれに見えて、あまり大垣らしくなかっただろう。
 実際に埴安の堤に立って眺めた場合を空想すると、東西北の大垣の中門の正面にそれぞれの山があるとはとうてい思えない。耳成山は北の中門から見てかろうじて時計の針の55分あたりが山の中心だが、埴安の堤の北端が三条では、大垣の北東角に山の一部が遮られるかも知れない。やはり池の北端は二条であろう。香具山も、東の中門の正面ではなく、かなり南東に振っている。埴安の堤からだと東の大垣が全部見えるし、香具山も北東に尾根が延びかなり山体が大きく見える。東の中門から正面ではないが、右手斜めから正面に向かって見えるので、門に対して立っているとは言える。畝傍山は、西の中門からではあきらかに南西に振っているが、かなり距離があるために違和感が薄らいでいる。なお埴安の堤からは、宮内の建物や東の大垣などに遮られて、中腹以上しか見えないだろう。西の中門よりさらに1キロほど離れ、西の中門のあたりと畝傍山の見える方向が南西方向に少し重なるため、中門の正面でないことの違和感が薄らぐと思える。なんにしても、宮の北東、北西、南西、南東の角からそれぞれの方向に線を延ばして4等分すれば、それぞれの山は東西南北に収まるので、特に歌の表現を概念的で現実的ではないとみなすほどのことはない。注③で述べたように、中門ではなく三つの門のどの門に対してもいいとするならなおさらである。しかし、耳成山が北に離れすぎてしかも相当に低くて小さく、また香具山は扁平で、畝傍山は高くいかめしく、三山に囲まれたというにはバランスが悪いことは確かで、三山の中心という観念が実際の風景より先行して、ちょっと無理をしたとも言える。三山を詠み込んだ歌というのも、この御井歌と例の天智の作しかない。ちなみに二山を詠んだのはない。

吉野の山
 さて、南門からは吉野の山は確実に見えない。いろいろ説は出ているが、なぜ見えない山を詠むのか、再考の余地はあるようだ。
  大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
  畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
  耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
  名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける
三山では、香具山と耳成山が「立てり」で、畝傍山は「います」となっている。畝傍山だけに敬語がある。「立てり」となっていないのは、香具山、耳成山が、麓から頂上まで、山全体が見えるのに対して、畝傍山は、大垣や宮殿に邪魔されたり、かなり離れているとかしたりして、麓の部分が覆われて、「立っている」という言い方がふさわしくなかったのだろう。それにしても、この「に」はどういう意味だろうか。普通空間的時間的なある場所や時点を指示するのだが、まさか「大御門」という門に山があるわけでもないだろう。おそらく対象を指定するという意味だろう。大御門を対象として立っている、というだけの表現内容だから、金子評釈の言うように、名山を配したと言うことだろうが、それと共に風光の良さを表現するということがあろう。平野部に山が聳えるということでは讃岐平野が最たるものだが、三山に囲まれるという点では大和平野はもちろん、近畿一帯ではまずない。
 ところで、三山の内、畝傍山だけに敬語が使われているのが不審である。歌全体として、道教思想だとか、当時は香具山が大和の中心の山だったとか言われているが、それなら「天の香具山」と言われそうなものだ。そうではなくて畝傍山に敬語があるのだから、そういう思想上の観点はあてはまらない。ここは、初代天皇の神武の橿原の宮を想起しているように思える。それが眼前の藤原宮にまで連綿と続くということだから、香具山、耳成山よりは格が一つ上ということで、そういう歴史認識によって、畝傍山を目出度い山だと讃美し敬語を使い、素朴な皇統讃美の意図もあるのだろう。道教思想などとは無縁と思われる。
 話がかなりそれたが、吉野の山は見えないということについて、最近の注釈類でも、はっきり、吉野の山を見えるとしているのもある。宮跡ではなくとも、八木駅から見えるというのもある⑥。みな間違いで、そういうところからは全然見えない。おそらく、高取山の南東の尾根が細かく枝分かれし、芋峠側の尾根が奥まって高く(高取山の頂上584メートルより高い606メートルの峰がある)、やや色が薄く見えるのを、吉野の山と勘違いしたものであろう。当時の環境の良さからすれば、それが高取山の一部で、吉野の山でないことは肉眼で明瞭に分かったであろう。
 かつて、非常に空気の澄んだ日、奈良から橿原までの24号線を自転車で走りながら、吉野の山を見続けたことがある。今から何十年も前なら、国道沿いに水田のあるところが結構あって、吉野方面もよく見えた。奈良から郡山辺りまでは、高取山や多武峰の向こうに、大峰の山々がはっきりと見え、芋峠の向こうの弥山などの1900メートル前後の山が見事である。これが天理あたりになると、山上が岳方面が多武峰に隠れて見えなくなる。田原本になっても、弥山方面がまだまだ見えている。橿原市にはいると、さすがに芋峠の向こうにわずかに見えるだけだ。これが米川にかかる三山橋で全く見えなくなる(今ではあのあたりビルだらけだから、これは夢のような話で、再実験も出来ない)。奈良からずっと見続けてきたのだから、高取山の東尾根と吉野の山を混同することはない。つまり、八木駅とか藤原宮から吉野の山が見えないのは確実な事実なのだ。このようなことは証拠にならないと言えばそれまでだが、万葉人は、高取山の一部を吉野の山と誤解することはなかったという可能性が高いとは言えよう。それに、はるか空の彼方という表現にも合わない。見えないから空の彼方なのだ⑥。ところで、証拠にならないと言ったが、実は、壬申の乱の前に天武一行が大津から飛鳥へ強行した時に、国道24号の東、中ツ道を南下したのだ。24号(下つ道の東を併行)よりは、吉野の山の見えなくなるのが早いが、それでも田原本あたりまでは同じようなものだろう。味間、蔵堂(くらんど)(村屋神社のあるところ)、法貴寺などは行ったが、ただ多武峰あたりの山を見ただけで、吉野方面は注視しなかった。天武一行が何時間もずっと大峰の高山を見続けたことは確かだろう。正し晴れていればのはなしだが、書紀に天候は当然ながら書かれていない。しかし、額田王三輪山の歌にもあるように、天智、天武といった人々は、明日香と近江の間を何度か往復しただろうから、奈良から明日香までの間吉野の山を何度も見たことは間違いないだろう。持統天皇も見ていたわけで、御井歌で、南の方空の彼方には吉野の山があるのだ、という感慨を持ったとしてもおかしくはない。それはまた、御井歌の作者、またその聞き手にも共有された実感であろう。ただし直接には、天武、持統の吉野行幸の体験が元になっていよう。一山越えれば吉野なのだし、峠あたりからは、広大な吉野大峰の山々が見える。
 吉野行幸でそういうものを見てきた人には、藤原宮あたりから、明日香の山々の稜線を見たら、鮮やかにその向こうに吉野大峰の山々が想起されたであろう。
 それに、明日香というところは、なぜか吉野の空気が漂っているのだ。実際に芋峠あたりから南東の風が吹き込んでくるのだろうが、植物相や山の形などが、吉野とほとんど同じなのだ(特に吉野山以北)。奈良の植物学界では、音羽の連山や多武峰などの植物は吉野の出店と言われている。藤原宮から南方に吉野の山を想起するのは、歴史的な由緒のある(神武天皇とか)名山というだけでなく、身近に感じられる山だからということもあろう。
おわりに
 埴安の堤から見たというのは、ただそこから見たことにしたというだけでなく、そこからの四方の名山の見え方(あるいは見えないこと)を具体的に描写したことを示しており、そこに居合わせた人たちは、臨場感や風土感にあふれた作品として受けとったであろう。
 既に述べたこともあるが、どう描写しているかまとめておきたい。
 まず埴安の池の堤からのそれぞれの山の頂上への方位と直線距離。
  香具山、ほぼ南東に625メートル
    畝傍山、ほぼ西南西に2875メートル
耳成山、ほぼ北西に2000メートル
吉野山、ほぼ東南東に19.2キロメートル(吉野山の858メートルの最高点まで)
 ここでもう一度、その部分の原文を引用しておこう。
香具山は頂上まででもわずか600メートル強で、一本一本の木の枝まで見える。表現通り春の樹木や、あるいは桜の花などが、茂りあって春山そのものである。耳成山は2キロの距離で、さすがに此だけ離れると木々の形までは見えないし、小さい山で表土も薄いから大木もなく南から見ると日光が当たりすぎて緑色も薄くせいぜい灌木の山程度で、菅山というのは当たっている。ただ小さいながらに形は円錐形で整っているから神さびたイメージもある。畝傍山は、三山の中で一番遠く3キロ弱だが、高さは一番だから、耳成山よりも立派にみえ、山の東北東面の一番傾斜の強い面を見るので、やや黒みを帯び、山らしい威厳を見せる。これはもう木々の形など見えるわけがないので、植物のことは言わない。
 吉野の山は、見えないのだから幾ら遠くても関係ないが、今の吉野山の最高点までで約19キロ、奈良よりは近いが、三山に比べれば勿論遠い。表現で見ても、遠くにあるではなくて、遠くありける→遠かりける、と見なせるから⑦、遠いことだ、ということになる。芋峠の彼方の空の下で遠いことだと言うことになり、見えないことを言外に含めている。しかし、見えなくても、はっきりあることを意識しているのは、既述のように、吉野行幸などで芋峠の方向の彼方に吉野の山(の中心部)を見た経験が眼前に想起しているからであろう。更には、その距離が本当に遠い事も思い浮かべていよう。
 御井歌は、山に絞って、実際の風景(三山)と想起した風景(吉野の山)を美しく描いて、眼前の御井(おそらく大垣の陰で見えないだろうが、これも想起して)のすばらしさを讃頌した歌と言うことになろう。宗教的政治的な意味合いは少ないであろう。


①江戸時代の注釈書がなぜ、畝傍山は南門に対するとしたのか、理由は不明である。おそらく藤原の宮をもっと西よりと見たところから、南の方向にあると考えたのだろう。香具山を日の経(東西)としたから、やむを得ず畝傍山を日の緯(南北)としたのだろうという古義の説は意味不明である。山田講義が『高橋氏文』(『本朝月令』所引)の、東を日竪、西を日横とするのを引いてから、畝傍山は西門に対応するという説に定着したようだ。
②『藤原京・よみがえる日本最初の都城中公新書、2003.1.25
 同氏は又、平安時代の「典薬寮」には、薬園などのほかに、御井《みい》なども付属したという。そして藤原宮跡では、薬物関係木簡が多量に出土したことがあり、場所は内裏東外郭の東を北流する東大溝が、北面大垣をくぐり抜け宮外へ四メートルほど出た地点で、これらの木簡は、東大溝の上流で一括投棄されたものらしい、という。つまり内裏の北東側と東の大垣とのあいだということで、そこに御井があったとすれば、埴安の池からは目と鼻の先である。
③『日本史リブレット藤原京の形成』、寺崎保広山川出版社、2002.3.25、24頁。
 大垣の高さは約5.5メートルに復元される。門は12ケ所あり、皆同規模。桁ヌキ長、約25メートル。
皆同規模ということは、歌の中の大御門というのも、特に中門というわけではなく、三つの門すべてかも知れない。言い換えれば三つの門に代表される北の大垣全体で、耳成山に対していると言えよう。他の東西南も同じ。
④『萬葉集年表第二版』、土屋文明岩波書店、1980.3。52番53番歌、持統八年(694)。「藤原宮造営成りての作なるべし。」とあるから持統天皇が主語であることは間違いない。
⑤『日本古代宮都構造の研究』、小澤毅、2003.5、青木書店。
 「第2表 藤原京の造営過程(『日本書紀』『続日本紀』による)」、に細かく整理されているが、持統が何度も宮地に行くのは当然として、高市皇子について
持統四年 (六九〇) 十月二十九日 高市皇子、藤原の宮地を観《みそなは》す。公卿百寮従《おほみとも》なり。
とあるのは、同年七月に太政大臣に任じられてからのもので、この規模のものはほかになく、持統の藤原行きより早い。その後十年七月没まで、その任にあったから、藤原宮・京造営に高市皇子が重要な役目を持っていたことは明らかだろう。
⑥『續萬葉紀行』、土屋文明、養徳社、1946.9。7頁に、
 關急八木驛の高架乘車場から、再び吉野の方を望んだが、高取の連峰の背後にわづかに霞んで居る遠山を認めた。吉野から大峰にかけての山の一部であらうが、之は御井の歌に歌はれた吉野の山ではあるまい。御井の歌の吉野山、やはり高取から細峠に至る連峰をさすのであらう。
とある。この遠山というのは、吉野の山ではなく、本文中に述べたように、606メートルの峰の前後のことであり、また高取、細峠間の連峰は御井の歌の吉野山ではない。
ついでに言うと、北島葭江『萬葉集大和地誌』、關急版、1941.8、の82頁に、
 …、遙か北方の耳成山の麓からなら僅かにいまの吉野山の頂點がちよつぴりと覗いて見えるが、藤原の宮阯からは何れの點からしても全く見ることを得ないのである。
とあるが、土屋文明と同じ過ちである。そして、歌では、三山は見えるといってるのだから、吉野の山も見えるはずだとして、結果的に、土屋と同じ過ちをしている(出版年からすると北島の方が早いが)。
⑦遠くありける、というのは、鶴久氏「所謂形容詞のカリ活用及び打消の助動詞ザリについて」(「萬葉」42号1962年1月)がカリ活用の未融合形として出しておられるように、形容詞「遠し」の意味で使われるから、「遠いことだ」とか「遠いことであることだ」と訳すべきなのに、「遠くにある(遠くに見える)」というように訳す注釈書が殆どである。これは「ある」を存在するという意味の動詞に取っている。だから場所を示す格助詞「に」を補っている。しかし明らかにカリ活用であり、助詞「に」はないのだから、そういう意味に取るのは誤りであろう。三山が見えるのだから、吉野の山も見えるはずだという先入観があるとしか思えない。しかし、「雲居にぞ遠くありける」といふうに、「雲居」のところで「に」が使われている。だからか、阿蘇全歌講義、「はるかに遠い雲のかなたにある。」新大系、「遠く雲のかなたにあるのだ。」のように、「雲居」と「遠く」の語順を逆にして、「遠く雲居に」という意味で訳している。これだと「遠い」という実感的(実際に歩いた感覚)な意味が薄くなる。「遠い雲居(空の彼方)に」では、隔離感が強まる。語順通りに見えても、私注、「雲の居る遙か遠くにあつた」、注釈、「雲の彼方遠くにあることだ」などでは「に」が「雲居」ではなく「遠く」の方に置き換えられている。また、和歌大系、「雲の彼方に遠くつらなっている。」というふうに「に」の位置も語順通りにしても、「つらなる」という「遠い」という語から出てこない意味を補わなければならない。それに「遠くつらなる」も意味曖昧だ。連なり方が遠いというのはどういうことか。雲の彼方まで山脈が続いていくことなのか。要するにこれも、見えるという前提で訳そうとしているからだろう。それでは、見えないけれど、遠いことだ、といった意味で素直に訳せるかというと、なかなかそうはいかない。「雲居に」の格助詞「に」が邪魔をするのだ。「雲居(空の彼方)に遠いことだ。」では場所を示す「に」に対して、「遠い」では舌足らずである。だからこれも「空の彼方に(あって)遠いことだ。」というように補わなければならないが、「遠くあり」をカリ活用の形容詞とせず「に」を補って訳すよりましであろう。
             〔2023年4月24日(月)午後7時15分成稿〕


●佐佐木隆、藤原御井の歌、セミナー万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30 。常にと清水の訓詁、対句の末尾が終止形ということによる人麻呂作説の否定。国語学的な問題ばかりで、南門から吉野の山が見えるといった通説通りの明瞭な間違いもあり、埴安には全く言及しないなど、地理的な観点が皆無だ。ただしその点を問題にする論考はめったにないのだが。
中西進万葉論集 第三巻(万葉と海彼 万葉歌人論)、1995.7.15 講談社
藤原宮御井歌、初出「短歌」1986.12 原題「藤原宮の御井歌のなりたち」
持統の吉野行幸は…終南山に表し、よって闕を為すということがあった…。吉野は終南山に見立てるには格好の位置にあった。それゆえにこそ万葉は三山に加えて吉野を歌うのであろう。…南の遠い彼方ということを換言すれば、それは「終南」に他ならない。
吉野の山を終南山に比するのなら、大峰の山上が岳まで登るか、それを望拝するかしなければならないが、持統の行った宮瀧は川が中心であって、周囲の山も、低く、また大峰などどこからも見えない。「御井歌」の「吉野の山」は、ただの吉野地方の山山であって、特定の山を指すのではない。それに中西は、埴安の堤から吉野は見えないという事について何も言わない。
●香西克彦 日本建築学会計画系論文集 第480号 195-204 1996年2月
大和三山の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造
同、第511号,217-222.1998年9月
吉野の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造 Ⅱ
同、第515号,275-282,1999年1月
御井の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造 Ⅲ
3編にわたる膨大な論文で色々考えられた力作だが、最初の方法の論(ベルク氏と私のとほぼ同じだが、ベルク氏の主著が既に出ているのに言及はない)と、御井歌に詠まれる吉野の山は完全に見えないことを強調し、それを前提に論を進められるのとが興味深かったが、どちらの結論も首肯できない。要約できないほど長いのでいろいろ他の論点もあるが、残念ながらすべて認めがたい。建築学の立場からはいろいろ面白い結論もあるようだが、御井歌の論としては熟していない。要するに、吉野の山が見えないことを指摘する万葉学者が少ししかいない状況で、結論はともかく、はっきり見えないと断定して論を進めたのが取り柄である。
藤原京・よみがえる日本最初の都城中公新書、305㌻、880円、2003.1.25
瓦葺きの大陸様式の建物は、中枢施設である大極殿、朝堂院、朝集殿《ちようしゆうでん》と宮城門、大垣に限って採用されており、官衙《かんが》建物にはまったく及んでい
四周は掘立柱塀による大垣で囲まれている。その規模は東西大垣間が約九二七メートル、南北大垣間が九〇六・八メートルとほぼ方形で
●橿考研のHPに詳細な藤原宮・京の図面あり。
木下の言う位置に埴安の池があり、そこから展望したのだとすれば、その堤と西門とを結んだ線の延長上に畝傍山がある。今まで、西の中門から見ると、正面ではなく、相当南西方向に偏って見えるのが疑問視されたが、埴安の堤がこれなら、さしたる違和感はない。
やはり頭の中で宮殿、門などの配置を描いているのではなく、実景を見ながらいろいろと表現を構想したのだろう。埴安の池が展望の場になったのは、近くに高市皇子の宮があったのも影響していよう。
●日本史リブレット藤原京の形成、寺崎保広山川出版社、2002.3.25、800円
24頁、大垣の高さは約5.5メートルに復元される。門は12ケ所あり、皆同規模。桁ヌキ長、約25メートル。  巨大な門だ。朱雀門みたい。藤原宮の朱雀門も他のと同じで特別視されなかったらしい。ということは、歌の中の大御門というのも、特に中門というわけではなく、3つの門すべてかも知れない。
●格助詞「に」岩波古語辞典、(5)動作、感情の対象。…我妹子に立ち別れゆかむ…万665
立ち、(丈の高いものが)確かに座を占める。そびえ立つ。万52、香具山は…に…立てり
これだと、私の言うように、麓から山全部が見えている方がいい。
●埴安から芋峠まで8.5キロ。これは巻向山までと同じ距離で、三輪山などはもっと手前になり、雲の彼方という感じではないから、芋峠も同じ距離感である。

註釋、特になし●特になし
管見、特になし●特になし
拾穂抄、特になし●特になし
代匠記初、南に當りて吉野山は遠く立て都をしづむるなり、唐にもよき都は皆四面に靈山あるなり、張衡西京賦曰     畝傍山は南にある●特になし
僻案抄、御門の面(南歟?)にむかへて、程遠くたてるをかくよめり。 畝傍山は南門に対する。●青垣山は御門の東にあたるなるべし。
考、遠く見放らるゝは吉野山なり 畝傍山は南門に対する。●東御門に當るをいへり、
略解、遠く見遣らるるなり。 畝傍山は南門に対する。●香山は東の御門に向へり。
楢の杣、今をもて見れば鷹取山の南の一片は吉野郡に屬すべければ其嶺などを云べし、河の南なる今云吉野山は見ゆべからず。●特になし
燈、雲のゐる所をあふぐばかりの、遠さなるをいふ也。 畝傍山は南門に対する。●爾もじは、此御門のためにあつらへ置たるが如きをいふなり。
攷證、雲ゐといひて、やがて、天との|こゝ《(マヽ)》もし、天は遠きものなれば、●特になし
古義、遠く雲居に見放らるゝは吉野山なり、 畝傍を日の緯(たて)(南北)というのは矛盾しているが、香具山を日の経(たて)といった以上、同じ言い方は出来ないから、やむを得ず「日の緯」といったので、こだわるべきではないという。●香山は、東の御門に向へる故に、かく云り
檜嬬手、雲居遙かに見えたる其景色 ●東《ノ》御門に當るを云へり。

安藤新考、吉野畝火共に南御門に方るを畝火は近き故に御門爾と云(ヒ)吉野は遠き故に從《ヨリ》と云り、これは古義、近藤、木村などとほぼ同じだが、畝傍、吉野どちらも南門とは難問だ。●特になし ▲美豆は若く美《ウルハ》しきを云
註疏、遠く見放《ミサケ》らるゝよしにいひて●香山は東の御門に向へり。畝火山を西の御門に向ひたり ▲美豆は贊辭にて瑞枝瑞垣などのミヅに同じ
美夫君志、吉野は遠く空に見放《ミサク》るをいふ、●大御門爾とは香山は東(ノ)御門に當ればなり、▲若くうるはしきをいふ、此は草木の繁茂して榮ゆるをいふ也
伊藤新釈、特になし。●四門の前それ/”\と宜しき程に名山が立つてる ▲
井上新考、トホクアリケルは今ならばトホクミエケルなどいふべし。畝傍山は西南門からみたもので、それなら、日の横ともいえるといっているのは、東西ではなく南北の意味で言っているらしいが、それだと吉野と撞着する。古義の疑問をうけたものだが、曖昧。 ●特になし ▲みづみづしきをたゝへて云へるなり。
折口口訳、遠く地平線の空に見えてゐる。●東の御門に  ▲瑞々した山と思はれる様に、神々しい山として
次田新講、ずつと遠くの空に見えてゐる。●東の御門に面して…、畝火の茂り榮えてゐる山は、西の御門に對つて…。又耳成の青いすが/\しい山は、北面の御門に丁度よく神々しい姿で立ち、  耳成山だけ「に」の意味が違うのは不審。
講義、南の方近くには名山なければ、稍遠けれど、名高き芳野山を呼び來れるところに歌主の手腕あらはれたり。●特になし  ▲うるはしく若木の茂れる山といふ義なり。 
全釈、空ノアチラニ遠ク見エル。●東ノ方ノ御門ニ  ▲瑞々シイ美シイ〔三字傍線〕山ハ
  空ノアチラニ遠ク見エル。
武田總釈、全註釈と全く同じ。●東方の御門に
精考、特になし。●特になし ▲「みづ」は若木などの茂りあうて、みづ/\しく、うるはしき意、
金子評釈、ずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。但實際からいふと、南の大御門から吉野山は絶對に見えない。それは南面に高市郡を劃する、三山などよりずつと高い音羽多武の連山が壁立してゐるからである。  苟も山といへば吉野を除外することの出來ないのが、その時代人の心理であつた。かう考へると、他の三山も地理的關係の外に、そのもつ三山傳説が重要なる役目を以て、こゝに登場したことゝ首肯される。●東の御門に當つて ▲瑞々しい畝傍山は ずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。
柿本人麻呂(茂吉)、●東の方の御門に對つて  ▲若く瑞々《みづみづ》した畝火山 雲際遠く聳え見えて居る。
窪田評釈、空遠く立っていることである。●東の御門にあたって、▲うるわしく若々しい山は   空遠く立っていることである。
全註釈、天の一方に遠くあつた。御井は…埴安の池の一角で…。●東方の御門に ▲瑞々しい山は 天の一方に遠くあつた。
佐佐木評釈、遙か空の彼方に遠く見える。北島葭江龍門山説を紹介するが、おほらかに吉野の山といったのだろうとする。●東の御門のところに (畝傍山の場合は遠すぎる) ▲  瑞々しい畝傍山 遙か空の彼方に遠く見える。 語注、雲の立ち聯なる遠方にある。
私注、遙か遠くにあつた。耳我嶺のように龍在、高取一帯の連山…、今の吉野山は殆ど見えない。●東の大きな御門に ▲美しい山は 雲の居る遥か遠くにあつた。
古典大系、はるか彼方、空遠くにある。●東の御門の方に これは誤訳。▲生々した山は はるか彼方、空遠くにある。
注釈、雲の彼方 遠くあることだ。多武の峯と南の高取山との間に僅に見える吉野郡の山を漠然とさしたものである。●東の方の御門に ▲みづみづしい山は 雲の彼方遠くにあることだ。
古典全集、空の果てに遠くあることだ ●東面の大御門に ▲みずみずしい山は 空の果てに遠くあることだ
集成、はるか向う、雲の彼方に連なっている。●東面の御門に ▲瑞々しい山は はるか向う、雲の彼方に連なっている
全訳注原文付、遠く雲のかなたにある。●東の御門に向かって ▲瑞々しい山は 遠く雲のかなたにある
伊藤全注、はるか向こう雲の彼方に連なっている。●東面の大御門に ▲瑞々しい山は はるか向こう雲の彼方に連なっている。
新編全集、空の果て 遠くにある●東面の 大御門に ▲神秘の山は 空の果て 遠くにある
釈注、雲の彼方に連なっている。●東面の大御門に ▲瑞々しい山は   はるか向こう、雲の彼方に連なっている。  語注、藤原の宮から最も遠くにある
和歌大系、雲の彼方に遠くつらなっている。●東側の御門に ▲瑞々しい山は 雲の彼方に遠くつらなっている。
新大系、遠く雲のかなたにあるのだ。●東の御門に ▲瑞々しい山は 遠く雲のかなたにあるのだ。
多田全解、…遠く連なっている。●東の大御門に、▲瑞々しい山は 雲居の彼方に遠く連なっている。
阿蘇全歌講義、…はるかに遠い雲のかなたにある。表現(歌の技巧)と作者を論じているだけで、埴安は通説に従うだけで、どこから眺めたのか触れないし、吉野の山の見え方も触れないように、地理は問題にせず。●東の御門に向かって 「に」の説明はない。▲生命力に満ちた山は  遠い雲のかなたにある。…永遠であろう。

都倉義孝、藤原宮御井歌(万葉集を学ぶ)、1977.12.15、作者と文学史上の宮廷讃歌との議論のみ。
山田講義、『高橋氏文』(『本朝月令』所引)にも東を日竪、西を日横にあてている。ただし、成務紀(五年九月)には、東西を日縦、南北を日横としている。

東京、長野、近畿の人口

2023年3月
東京都、1402,8040人、2990人減。世帯数866増。
長野県、201,2465人、1773人減、世帯数326減。
大阪府、877,1429人、3545人減、世帯数838増。
京都府、254,1551人、2862人減、世帯数1113減。
兵庫県、538,7103人、4564人減、世帯数655減。
滋賀県、140,6783人、832人減、世帯数171減。
奈良県、130,1085人、1224人減、世帯数333減。増えたのは、三郷11、安堵4、田原本3、河合8、大淀13の5。
和歌山県、89,8240人、1103人減、世帯数225減。増えたのは、有田6の1。
和歌山市(35,0221)-奈良市(35,0463)=-242
東京、大阪は再び世帯数が増加。和歌山は珍しく有田が増加で、全県減少という快挙はお預け。奈良県は来月は129万台か。和歌山全県減少か。

東京、長野、近畿の人口

2023年2月
東京都、1403,1030人、3831人減、世帯数757減。
長野県、201,4238人、2229人減、世帯数359減。
大阪府、877,4974人、6221人減、世帯数1514減。
京都府、254,4413人、2538人減、世帯数924減。
兵庫県、539,7046人、3372人減、世帯数653減。
滋賀県、140,7615人、884人減、世帯数260減。
奈良県、130,2309人、1349人減。世帯数306減。増は、香芝38、天川1、川上1の3。
和歌山県、89,9343人、1278人減。世帯数323減。増は、日高5、上富田9の2つ。
和歌山市(35,0628)-奈良市(35,0770)=-142
すべて減、おそらく初めて。しかも大阪府など相当な規模だ。滋賀ですら世帯数がかなり減っている。今までならありえないこと。和歌山県の人口がついに90万を切った。あとは全県減少だ。しかし、日高、上富田あたりはしぶとい。奈良県も近いうちに全県減少となるか。ここも香芝あたりがしぶといが。

 

 

2333、風土の万葉

2333、風土の万葉
名張の山を今日か越ゆらむ」の名張の山

     はじめに
 風土論の観点から見た、万葉集の歌の「名張の山」とは何か、いうことだが、和辻の風土論を大きく展開させたオギュスタン・ベルク氏の風土論の法法の一部①に教えられたものである。自然と文化との関連と言うのがベルク氏の一つ方法だが、その文化を万葉の和歌に置き換え、自然を地理的な条件に置き換えて考察した。

 対象とする歌。
1-43  當麻眞人麻呂妻作歌
吾勢枯波 何所行良武 己津物 隱乃山乎 今日香越等六
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ   (4-511に類歌がある)

 この名張の山についての地理考証は既に述べた(サイト「man-youbunkoの日記」で「名張」を検索してほしい)。そこで言ったように名張に越えるような山はない②のに、歌では、はっきりと、山を今日越える云々と詠んでいる。山がないのに山を越えるというのはどういうことか。
 43番歌以外に名張を詠んだ歌を見ておく。

1-60    長皇子御歌
暮相而 朝面無美 隱爾加 氣長妹之 廬利爲里計武
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ

8-1536    縁達師歌一首
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ

長皇子のは知り合いの女性が行幸からいつまでも帰らなかったのは、長く名張で滞留していたのだろうというので、大和の近くという安心感で帰還を急ぐ必要がなかったのだろうが、「なばり」という地名も関係あるかとちょっとふざけたのだから、寂しい名張の「山」は必要ない。ただの地名の「名張」でよいということである。縁達帥の場合そこに住んでいるか、しばしば往来しているかで、そうなると、大和から見たら山でも、住民の目からしたら野なのだから、正直に地形をそのまま詠んでいるわけである。萩や黄葉(たぶん雑木)などは名張らしい植生で、大和の野とも似ている。

大和の居住民から見た名張の山
 43番歌で名張の山というのは、そこに住んでいない人(大和平野南部の飛鳥あたりの人)から見ての山と言うことが出来る。大和平野の住民からすれば、名張地方は、事実としては、山とは言えないのに(名張山とか名張丘陵といった固有名詞はなく、水田になった小盆地と散在する丘陵や小山の集団である)、山と呼べる地方であり、大和平野を出て、伊勢の平野や海に出るのに越えなければならない山と見なせたのである。
 次ぎに名張の表記が、万葉集では、「隠」で一貫しているのを見ると③、これは大和平野の住民としての万葉歌人の認識だとわかる(特に天武朝)。初瀬や宇陀の山々の向こうの隠れた土地ということであり、名張の住民に取っては、別に隠れた土地ではなく、書紀にある「名墾」という表記からすると、「な+はり」という語構成で、開墾した土地ということだろう。だから大和中心的な思考によって、大和の万葉歌人は、名張を山林原野の多い「隠れた土地」と認識していたと思われるのである。淋しい山間地という印象もある。山城にしても、飛鳥・奈良時代は山背と表記されたのだが、言うまでもなく、奈良山の向こう側(後ろ側)という大和中心的な認識がある。
 だいたい、大和平野に住んでいた万葉歌人が、名張へ行ったことがある人も、そうでない人も(多分非常に少ない)、「名張の「山」」と認識し、「隠(なばり)」という大和中心的な表記をしていたと言うことは、自分たちの住む土地を誇る気持が裏にあったということであろう。そこには都があったわけだが、また広大な平地や農地があった④。その広大な平地を彼等は自覚していたと思われる。

名張の山と対照的な大和平野
 奈良盆地、東西約16キロ、南北約30キロ、面積約300平方キロ(平凡社奈良県の地名』)。
京都盆地は、奈良盆地とほぼ同じだが、これは巨椋池で中断されるので、巨椋池以北だけで見るなら奈良盆地より狭い。今の大阪平野は、面積的には奈良盆地の5倍強あって広大だが、古代は、河内湖があり、淀川、猪名川武庫川河口も今より内陸に陥入していて、一連の平坦な陸地としては、奈良盆地ほどの広さがない。大和人には珍しい海面の広さの方が印象的であった(草香山越えの歌など)。播州平野は約400平方キロ、奈良盆地より少し大きいが、川による三角州などで大きくなったもので、また丘陵部も目立つ。近江盆地は670平方キロ、奈良盆地の倍以上あるが、琵琶湖や丘陵によって分断されており、連続した平地としての大きさはあまり感じられない。
ということで、近畿以西の古代にあっては、奈良盆地が一番大きな平地であったと思われる(少なくとも当時の都の人たちはそう思っていただろう)。神武天皇が青山が周囲を囲む国の最中といって都したという説話もうなづかれるのである。
万葉集でも、2番歌、舒明天皇の国見歌で、「国原は煙立ち立つ」と歌われているが、この国原というのも、奈良盆地の広大さをいうものであろう。具体的には、「三宅の原」(13-3295)、長屋の原(1-78題詞)、浄見原、真神の原(2-199、他)、藤原、藤井が原(2-50)、竹田の原(4-760)、百済の原(2-199)がある(異名同所らしいものも1つとした)。
 これらを今の地名で見ると、橿原市東竹田町から、田原本の西竹田町にかけての寺川一帯、さらにその下流三宅町から川西町にかけて、またその西方の、曾我川や葛城川中流百済、そして、初瀬川から布留川にかけての田園地帯がある。これは今の奈良盆地中南部一帯である。出ていないのは、曾我川、葛城川の上流一帯、佐保川流域の盆地北部である。景観としては、河川の堤防の樹木や、神社林、水鳥の舞う池沼などはあるものの、だいたいは水田の広がる広々とした平野であり、国原であったであろう④。
大和以外では、大阪の「味経の原」、「依網の原」、京都の「筒木の原」、「阿後尼の原」、「三香の原」、「布當の原」、三重の「五十師の原」、兵庫の「大海の原」、「印南国原」、滋賀の「勝野の原」、岐阜の「和射見が原」、福岡の「湯の原」、「故布の原」、埼玉の「於保屋が原」がある。大和の8が突出していて、次ぎに多いのは京都の4で、あとは1つか2つ。詠まれた歌の多少にも拠るが、家持関係の北陸、人麻呂のいた石見や瀬戸内海航路に沿う中国四国(播磨を除く)、行幸のあった南海は皆無で、東海は1つ、東山道は2つ、多量にある東歌にわずか1つ、大宰府のあった九州でも2つで少ない。やはり平野の少なさという風土的なものがあろう。当時の畿内は特に平野部(水田地帯)が多かったのである。
 話がそれた。大和以外にも少ないながらちらほら、~原、はあるが、だいたいは、大和から旅してきた官人たちの、観光気分で褒め称えたような歌であった。大和の場合は、土着あるいはそこに長く居住している人の感覚で、~原、といったものだろう。つまり、奈良盆地はいいところで、平坦で東西南北の目印の山も明瞭だから、歩いて何キロも簡単に移動できるし、舟便もあって交通の楽な原だと認識していただろう。「名張の山を今日か越ゆらむ」と歌った、当麻の麻呂の妻も、そういう広大な平原地帯(おおかたは水田)の風景や、そこでの生活に慣れ親しみ、毎日山に登ったり下りたりするような、森や林や谷川を越えていくような、近くにいくらでも山があり、山の地形やそこの動植物に親しむような、そういう生活についての知識は少なかったと思われる。もちろん彼等にしても、吉野や宇陀あたりの山間地帯から平野部に出てくる人々からその生活圏の話を聞いたり、他人の経験談を聞いたり、自らそういう所へ行くことがあったりするだろうが、そういうものが身に付いた経験にならないことは言うまでもない。当麻の麻呂の妻にしても、名張のように大和のすぐ近くの土地の場合、人から聞くことも多いだろうし、自分で行った経験があったかも知れないが、よほど地理に興味でも持たないかぎり、その土地(風土)を正確に理解し表現することは困難であろう。

ところで、彼等の山についての認識はどのようなものであったのだろうか⑤。犬養孝前掲書の「万葉全地名の解説」によって、大和の山を分類する(山地の比定で私見と違うものがあるが)。普通名詞的なものは省く(三諸の山など)。異説のあるのも含む。
1ある地の山地又は丘陵の総称
 イ、今なら~谷という地形、泊瀬山、巨勢山、平群の山
 ロ、大きな山地や一塊の丘陵、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山竜田山
2ある地にある山(山頂や稜線を持つ山らしい山)
 猪養の山、忍坂の山、倉橋山、多武の山、跡見山、三輪山、巻向山、弓月が嶽、痛足の山、引手の山、南淵山、細川山、矢釣山、伊加土山、香具山、耳梨山畝傍山、葛木山、亦打山、三船の山、象山、御金の嶽、水分山、高城の山、青根が峯、耳が嶺(耳我の嶺)、宇治間山、去来見の山、朝妻山、二上山春日山、羽易の山、御笠山、高円山生駒山
後者にしても今言うような、三角点や頂上があり、登山道もあるような山らしい山はそう多くない。
忍坂山、倉橋山、跡見山、三輪山、巻向山、香具山、耳成山畝傍山葛城山二上山、三船山、春日山、御笠山、高円山生駒山は、山らしい山と言えるが、三輪山、巻向山、畝傍山(10分もあれば登れるが)、葛城山二上山生駒山以外は、登山の対象という感じがしない。非常な低山で、山と言えば言えないこともない程度であったり、大きな山の尾根のちょっとした高みで、独立した山体らしいものを持たない山だったり、地元の人にだけ識別できる程度であったり、である。これで再分類すると、
イ、山らしい山、忍坂山、倉橋山、多武の山、跡見山、三輪山、巻向山、香具山、耳成山畝傍山葛城山二上山、三船山、春日山、御笠山、高円山生駒山
ロ、山らしくない山、伊加土山、亦打山、三船の山、象山、御金の嶽、水分山、高城の山、青根が峯
ハ、地元の人にだけ識別できる山、猪養の山、弓月が嶽、痛足の山、引手の山、南淵山、細川山、矢釣山、朝妻山
ニ、所在が不明瞭な山、耳我の嶺(耳が嶺)、宇治間山、去来見の山、羽易の山
名張の山の場合は(大和ではないがそれに準じる)、2のグループに入らないから、1の方だが、1を見る前にもう少し考えると、作者当麻麻呂の妻の場合、2ロの伊加土山ぐらいは知っていただろうが、亦打山は紀伊行幸にで同行しない限り知らないだろうし、それ以下の吉野方面のも、吉野行幸山岳仏教にでも関係しない限り、知ることはないだろう。2ハについても、あまり人の行くようなところではないので、そこを生活圏にしていないかぎり知ることはないだろう。
結局、当麻麻呂の妻が、大和平野(たぶん中南部)の住民として、普通に思い浮かべる山と言えば、葛城山二上山生駒山春日山三輪山、倉橋山、多武の山(多武峰)、大和三山といったところで、大和平野中南部の住民なら日常的に見慣れた山である。北部の住民の場合は、生駒山春日山高円山、矢田丘陵を除いて、離れすぎており、900㍍から1100㍍の高度のある金剛山葛城山多武峰以外は、ほとんどどれがどれとも分からないだろう。
1の方では
イ、今なら~谷という地形、泊瀬山、巨勢山、平群の山
が目を引く。犬養氏の解説では、初瀬川、巨勢川(曾我川)、平群川の両岸の山々を指すとあるが、これは今なら、平群谷とかいうべきだ。平群の場合など、右岸は生駒山地、左岸は矢田丘陵で、今なら、両方合わせて、平群の山、と一語で言うことはできない。つまり万葉においては、今、~谷、というところを、~山、と呼ぶことがあったということである。平野部から切り離されて、人家もほとんどなく、森林などの優先する自然の豊かな所、そういうところを、~山、と言ったということだろう。地形ではなく、景観に重点を置いた地名と言える。当麻麻呂の妻は、これら万葉に詠まれた~谷のような地形を全く見たことがなかったとしても、長谷、巨勢、平群といった大きな地名で、~山というところは、住民がほとんどなく自然の豊かな寂しい所で、谷間のような地形だとぐらいは分かったはずである。その程度の情報は大和平野に暮らす住民の基礎的な知識であろう。
ただし、名張の山は、谷間のような地形ではない。宇陀川、青蓮寺川(上流は曽爾川)、名張川の合流するあたりで、山は非常に低いから、谷という印象はない。川の沿岸に低い丘陵はあるが(伊賀神戸から伊賀鉄道に乗れば見える上野までのあいだの右側の山林などがそれだ、自動車で行っても同じような地形だ)、全体として丘陵地帯でもない(上野一帯は水田が多い)。遠くを見れば、布引や、奧宇陀の山地、大和高原などが沢山見えるが、名張一帯はそうではない。
だから、ロの、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山竜田山などとは、ちょっと違う。これらのうちの、石村、振、佐紀、佐保、黒髪、竜田などは、狭い範囲の丘陵性の山で、名張一帯とは地形が違う。ということで、吉野の山、奈良山が、大きな地名を冠していることからも、似ているが、吉野は余りにも大きい。奈良山は、川が無く自然も豊かとは言いにくい。吉野の規模を小さくし(それも、大淀、下市から東吉野にかけての北部一帯)、奈良山の規模を大きくしたら、名張のようになるだろう。結局、この1のロの二つが、名張の山の特徴に一番近いと言う結果になる。ということは、名張の山を分類したら1のロになる。これは1のイの属性も持っている。頂上らしい頂上もない、ただ森林が多くて一面の平地ではない、寂しいところ、そういうところを古代は「山」とも言ったということだろう。
今の感覚から言うと、「名張の山」という山など存在しない。せいぜい名張の町の郊外の里山と呼ぶべき地域だ。当麻麻呂の妻は、名張へ行ったことがあるかないか、それは分からない。夫が持統の伊勢行幸に同行しているのだから、その途中にある名張というのがだいたいどういう所かということは、行ったことがなかったとしても、情報として聞いていたであろう。それに、前にも言ったが、名張は、大和の隣、更には宇陀郡の続きで、大きな障壁もなく、簡単に往復できるから、だいたいどういう土地かと言うことは、作者を含めた大和平野の大人達には共通理解があったであろう。だから、作者が「名張の山」と詠めば、読む方も聞く方も、あの山間の寂しい山林原野の広がるところだと思うであろう。
だから、「名張の山を越える」というのは、大和と伊賀の境の山(明瞭な頂上とある程度の比高があって名張山などと呼ばれるもの、あるいは連山や山地)を越えて大和とは違う風土の東国伊賀に入ることではない。伊賀の山林原野を横断して、大和とは異質の風土の国伊勢に入ることなのだ。名張はまだ、大和(特に宇陀の高原)と大して変わりのない土地なのである⑥。その大和らしさの残る最後の土地を出て人気のない寂しい土地を、夫は今ごろ伊勢に向かって越えているだろうかというのである。伊勢に入ってしまえば、石上麻呂の歌ったように、国は遠く、間を隔てる山も高くて、心の通い合いも薄れるのである。

名張を詠んだ他の歌。

1-43の歌では、往路か帰路かということが少し問題になった⑦。上述してきた所から見れば、往路と見るしかない。帰路の場合、青山峠を越え伊賀郡の阿保を越え名張郡に入った所で、半分大和に入ったようなもので(実際室生の山々が見え出す)、今ごろどこを通っているだろうか、今日あたり名張の山を越えているだろうか、という感慨は起こらないだろう。すでに宇陀郡近くまで来ているものを、そこを越えたら大和だなどと焦点のずれたことは言わないだろう。山深く険しい峠越えなら、一志郡から青山峠を越える時点で経験している。大和から見れば名張は寂しい山間の土地だが、伊勢から来れば、険しく人煙稀な青山峠を越えて大和も近く、一安心するようなおだやかな土地なのだ。だから60番歌は帰路とみるべきだ。


①「風土の日本」ちくま学芸文庫、1992.9.7。「風土学序説」筑摩書房、2002.1.15。「日本の風景・西洋の景観」、講談社現代新書、1990.6.15。

名張市には、黒田川(宇陀川)沿いの狭小な水田地帯と名張市街地の周辺、美旗新田あたりの小さな盆地以外には水田地帯はない。残りは大体丘陵性の山野だが、名張市街地で標高200㍍ほどあり、周囲の丘陵は標高250㍍前後(一部に300㍍を越すのもあるが)で、比高はわずかである。宣長の菅笠日記にもあるが、青山峠を越え、登山口の伊勢路に出て、長田川沿いに開けた阿保から、かつての上野市との境の峠を越え、すぐにまた名張市に入って、美旗の狭い水田を越し、蔵持まで、まるで雑木林のような低い丘陵で、人家がなく、淋しい感じがする。この初瀬街道沿いの蔵持から阿保の手前まで、だいたい当時の名張郡だから、「名張の山」と言えよう。名張で一泊した翌日(歌の今日)越えるというのだからそこが適当である。距離的には、伊勢国境の青山峠まではまだまだだから、そこまで「名張の山」としてもよいが、阿保は伊勢からの初瀬街道と、長田川(伊賀川)沿いに上野に通ずる道との分岐点であり、伊賀神戸に近く、伊賀郡の中心部であり、上野の圏内(伊賀神戸から長田川にほぼ併行して伊賀鉄道が走る)だから、もう「名張の山」とは言いにくい。こういう地理は京に止まった作者達も知っていたのであろう。

③『日本書紀』大化二年(646)春正月…宣改新之詔曰、…。其二曰、初修京師、置畿内國司…。凡畿内、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、【兄、此云制。】西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿内國。
同、天武天皇元年(672)六月廿四日。及夜半到隱郡、焚隱騨家。
同、天武天皇元年(672)九月十一日。宿名張
同、朱鳥元年(676)六月廿二日。名張厨司災之。
以下『六国史』では、「名張」が四回出て、「名墾」「隠」は出ない。書紀では壬申の乱での挙兵のときは「隠」で、飛鳥への帰還の時は「名張」になり、以下名張に固定したようだ。わずか3か月で表記が変わったのは何故か。乱のときに寄与する所があって、好字二字に替えたのか、それは分からない。大化の時の「名墾」が古くからの表記だとすれば、乱挙兵時に新しく「隠」の表記で認識され、万葉集はそれだけを受けついだが、壬申の乱勝利後の天武は「名張」の表記に替えたということかも知れない。なお古事記では地名「なばり(名張、名墾、隠)」は出てこない。和名抄は、郡名郷名ともに名張

④古島敏雄『土地に刻まれた歴史』岩波新書、1967年10月20日、の附録、秋山日出雄氏編「大和国条理復元図」を見ると、大和平野の全域、隅々にまで条里制が施行されている。ただし、古島氏も言われるように、いつこのような条里制が施行されたのか明瞭ではないようだ。だいたい律令制の確立した頃ということだから、飛鳥時代の終わりから奈良時代にかけてできたらしい。その全部が水田に成ったわけではなく、盆地中央部などは、湿地状のところもあったらしい。竹田の原の一部と思われる橿原市中町には、寺川の旧河道らしい池が今も残っている。初瀬川なども洪水で河道の変わることがあったらしい。

⑤参考として、岩波古語辞典、「山」、《「野」「里」に対して、人の住まない所》①地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。②物事の絶頂。峠。③陵墓。④山をまね似て作ったもの。築山。⑤特に、比叡山また延暦寺の称。⑥山に籠もって行なう仏道修行の生活。⑦鉱山。⑧山形に飾った造り物。⑨「山鉾」の略称。⑩天然痘の症状で、表皮が豆大に隆起したもの。
たくさんの意味があるが、「名張の山」に当てはまるような意味はどこにもない。せいぜい「人の住まない所」が当てはまる程度だが、それだけでは山の意味として充分ではない(墓地、廃屋、川原、海岸なども人は住まない)。それに、平群の山、巨勢山、初瀬の山などは人も住んでいるし、里もある。山林が多く住民が少なく山がちの淋しい土地で、そこの住民以外のものが呼ぶ称といった定義でも下したいところだ。広辞苑(第6版)もほぼ同じ。比喩的な項目が15に増えている。日本国語大辞典もほぼ同じだが、一つ特異なものがある(新明解、大辞泉にも似た説明があり、特に「時代別国語大辞典上代篇」は詳しい、)。「2、特に植林地、伐採地としての山林。種々の産物を得たり、狩猟したりするための山林。例として、万779「板葺の黒木の屋根…」」。これは魅力的な説だが、奈良山などはその条件に当てはまらないようであり、名張の山の場合、地元の人ならそういう意味で呼べそうだが(薪炭の採取とか)、遠く離れた大和平野の、それも利害関係がなく、自分の所有する山でもない人間が、そういう意味で呼ぶかどうか疑問だ。

⑥伊賀大和の国境に「名張の山」と呼ばれるような山があり、そこを越えて異境の風土である東国の伊賀に入るとする説がちらほらある。
沢瀉注釈、名張市の西、大和境の山をさした…。
新潮集成、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
全注(伊藤博担当)、名張が大和の東限で、この地の山を越えると異郷伊賀の国だったからである。
新編全集、名張の山、名張市西方の山をいうか(附録)。
釈注、「名張」は畿内の東限で、この地の山を越えると異郷の伊賀の国になる。
稲岡和歌大系、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
以上6つの注釈書にあるこのうち、集成、全注、釈注は、伊藤博氏のもので、説にぶれはないが、名張の山を越えると異境の伊賀の国になるなどというのは、全く地理を知らない説である。稲岡説もほぼ同じ。沢瀉説、新編全集説、は不明瞭であるが、名張市の西に見える山(犬養孝「万葉の旅」に載る写真もそういう山だろうが、これは黒田の西南に連なる断層崖の山地、つまり元の室生村笠間と名張市の平地部との境の山で、最高点は茶臼山である)といっても、それを越える道程ではないから、結局、伊藤、稲岡、沢瀉、新編全集の説はすべて成り立たない。持統伊勢行幸ルートで、大和伊賀の国境となるのは、元室生村の宇陀川が狭い谷間を出るあたりであって、山裾のちょっとした上り下りはあっても、国境の山のようなものはない。だから国境の山を越すこともない。これについては、門井直哉氏の「古代日本における畿内の変容過程-四至畿内から四国畿内へ-」(歴史地理学54-5、2012.12、ただしネット上のテキストによる)にある、図7「初瀬街道沿いの標高変化」が参考になる。西峠からしばらく榛原の高原上の土地で、鳥見山、額井岳の山麓だが、戒場山(かいばさん)の麓の篠畑が、もと榛原町と室生村の境でちょっとした坂になっている。そこから室生川と宇陀川の合流点の大野(室生ダムの堰堤から少し行ったところ)に向かって急降下し、そこから再び少し登ったあとは奈良三重県境の三重県名張)側の最初の町安部田の鹿高(かたか)神社に向かって緩やかに下っていく。つまり県境に越えるような山はないが、強いて言えば、室生の山とでも言うしかないだろう。なお、もし、大和伊賀の境に名張山と呼べるような山があったら、既述の畿内国の四至のところで、畿内の東限は名張の横河(夏見の西の名張川とするのが通説)とせず、名張山としたであろう。北は合坂山、南は背の山というように山が境界となっている。明石の櫛淵は、はっきりしない。門井氏は垂水区の海岸沿いに櫛のような入江があって、そこが櫛淵だとされる。私も、垂水区の塩屋で一夏過ごしたことがあるが、確かに山は海岸に迫っている。櫛淵が境界といっても、実際はその山が境界だ。入江があればさらに陸路は険しくなろう。そういう中でなぜ名張は山ではなくて川なのか。要するに事実として山が無く、名張川が、実質的に大和と伊賀(畿外)との境界だったからであろう。名張川までは大和との親近性が強いと門井氏も言っている。だから名張で一泊した翌日(歌の「今日」)、その名張から阿保までの丘陵地(名張の山)を夫は越えているだろうというのである。

⑦燈、總釈、菊池精考、金子評釈、窪田評釈、武田全註釈、佐佐木評釈など、燈以外は、時期的に集中して帰路(復路)説で、特に、金子評釈「必ず復路と見るべきである。」武田全註釈「勿論帰途の作」と強調している。それ以前に、往路説、山田講義「往路に詠んだ。」があり、以後に沢瀉注釈の往路説がある。沢瀉以降は、往路復路を問題にしていない。山田、沢瀉がなぜ往路としたのか理由は不明、復路説も燈以外は根拠を示さない。燈は「〇今日香越等六 この今日といふ事、麁にみまじき也。かくいふ故は、今日だにいまだなばりの山をも越ずは、夫が歸期いと待遠ならむ。とその程をまちくらさむ事、いかにくるしからむとの心をもたせてよめるなれば也。されば、此一首の眼なりとしるべし。」と言う。長い旅行も、あとは今日の名張の山越えさえすれば、日暮れ頃には帰ってくるだろうという心のはずみが歌から感じ取れるとでもいうのだろう。しかし、名張の郡家あたりで一泊したら、すでに名張の山を越えているわけで、そこからの今日の帰路にはそんな山はないのだから、これは無理である。山田説はなぜ往路としたのかよくわからない。沢瀉説は、大和伊賀の境(名張の西方)にありもしない名張の山を比定しているのだから、その点からして無理である。たとえあったとしても、出た日に越えてしまうものを、今日こそは越えるだろうというのも腑に落ちない。昨日出たが、今日あたりは、いよいよあの名張の山を越えるのだろうと思いやったわけだ。

参考、本居宣長「菅笠日記」より。以下、本居宣長記念館のHPによる。
1日目、松坂-伊勢路
2日目、伊勢路-榛原
3日目、榛原-千股(予定では吉野山までだった)、4日目、千股-吉野、5日目、吉野山一帯、6日目、吉野-明日香、岡、7日目、明日香一帯、8日目、見瀬、今井、八木、大神神社、初瀬、榛原、9日目、榛原-伊勢本街道で、曽爾、御杖方面を経由し、石名原(もとの美杉村奥津の手前)、10日目、石名原、奥津、北畠神社、堀坂山などを経て松坂。
これの二日目で、伊勢路の次の阿保から七見峠を越えて名張手前の蔵持までの、「名張の山」を越えている。持統伊勢行幸では往路復路ともに名張で泊まったと思われるのだが、ここでは往路は、伊勢路で泊まり、翌日午前中に名張の町に達し、そのあと多武峰経由で千股(上市の少し手前)まで行き、復路は榛原から南東方向に向かい、名張を経過していない。その点は参考にならない。
二日目の「名張の山」のあたりの原文。
いせぢより此驛迄一里也。さてはねといふ所にて。又同じ川の板ばしを渡る。こゝにてははね川とぞいふなる。すこしゆきて。四五丁ばかり坂路をのぼる。この坂のたむけより。阿保の七村を見おろす故に。七見たうげといふよし。里人いへり。されどけふは雲霧ふかくて。よくも見わたされず。かくのみけふも空はれやらねど。雨はふらで。こゝちよし。なみ木の松原など過て。阿保より一里といふに。新田といふ所あり。此里の末に。かりそめなるいほりのまへなる庭に。池など有て。絲桜いとおもしろく咲たる所あり。
  糸桜くるしき旅もわすれけり立よりて見る花の木陰に。大かた此國は。花もまださかず。たゞこのいとざくら。あるはひがん桜などやうの。はやきかぎりぞ。所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて。けしきよし。此わたりより名張のこほり也。いにしへいせの国に。みかどのみゆきせさせ給ひし御供に。つかうまつりける人の北の方の。やまとのみやこにとゞまりて。男君の旅路を。心ぐるしう思ひやりて。なばりの山をけふかこゆらんとよめりしは。【万葉一に わがせこはいづくゆくらんおきつものなばりの山をけふかこゆらん】此山路の事なるべし。やうやう空はれて。布引の山も。こし方はるかにかへり見らる。
  此ごろの雨にあらひてめづらしくけふはほしたる布引の山。この山は。ふるさとのかたよりも。明くれ見わたさるゝ山なるを。こゝより見るも。たゞ同じさまにて。誠に布などを引はへたらんやうしたり。すこし坂をくだりて。山本なる里をとへば。倉持となんいふなる。こゝよりは。山をはなれて。たひらなる道を。半里ばかり行て。名張にいたる。阿保よりは三里とかや。町中に。此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。その門の前を過て。町屋のはづれに。川のながれあふ所に。板橋を二ッわたせり。なばり川やなせ川とぞいふ。いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし。ゆきゆきて山川あり。かたへの山にも川にも。なべていとめづらかなるいはほどもおほかり。名張より又しも雨ふり出て。此わたりを物する程は。ことに雨衣もとほるばかり。いみしくふる。かたかといふ所にて。
1-60    長皇子御歌
暮相而 朝面無美 隱爾加 氣長妹之 廬利爲里計武
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
4-511    幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首
吾背子者 何處將行 己津物 隱之山乎 今日歟超良武
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
8-1536    縁達師歌一首
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ

註釋、43、60番歌、特になし。
管見、43番歌、特になし。
拾穂抄、43、60、1536番歌、特になし。
代匠記初精、43、60、1536番歌、特になし。
童蒙抄、1536番歌、特になし。
僻案抄、43、60番歌、特になし。
万葉考、43、60、1536番歌、特になし。
略解、43、60、1536番歌、特になし。
楢の杣、60番歌、出立の次の日。40番歌、特になし。
攷證、43、60番歌、特になし。
古義、43、60、1536番歌、特になし。
檜嬬手、43、60番歌、特になし。
安藤新考、43、60番歌、特になし。
近藤註疏、43、60番歌、特になし。
木村美夫君志、43、60番歌、特になし。
伊藤新釈、43、60番歌、特になし。
井上新考、60番歌、帰路の歌。43、1536番歌、特になし。
折口口訳、43、60、1536番歌、特になし。
山田講義、43番歌、往路に詠んだ。60番歌、特になし。
鴻巣全釈、43、60、1536番歌、特になし。
總釈、43番歌、歸路…と推量してゐる…。60、1536番歌、特になし。
菊池精考、43番歌、燈に歸路と見てゐるのがよからう。60番歌、特になし。
金子評釈、43番歌、必ず復路と見るべきである。60、1536番歌、特になし。
窪田評釈、43番歌、帰途として釈している。60、1536番歌、特になし。
武田全註釈、43番歌、勿論帰途の作…。60、1536番歌、特になし。
佐佐木評釈、43、60、1536番歌、特になし。
私注、43、1536番歌、特になし。60番歌を帰路とする。
大系、43、60、1536番歌、特になし。
沢瀉注釈、43番歌、名張市の西、大和堺の山をさした…。往路…。60、往路福路どちらも言える。1536番歌、特になし。
古典全集、43、60、1536番歌、特になし。
新潮集成、43番歌、名張の山を大和伊賀国境の山とする。60、1536番歌特になし。
全訳注原文付、43、60、1536番歌、特になし。
全注、43番歌、名張が大和の東限で、この地の山を越えると異郷伊賀の国だったからである。60、1536番歌(井手担当)、特になし。
新編全集、名張の山、名張市西方の山をいうか(附録)。43、60、1536番歌、特になし。
釈注、43番歌、「名張」は畿内の東限で、この地の山を越えると異郷の伊賀の国になる。60、1536番歌、特になし。
稲岡和歌大系、43番歌、名張の山を大和伊賀国境の山とする。60、1536番歌特になし。
新大系、43、60、1536番歌、特になし。
阿蘇全歌講義、43、60、1536番歌、特になし。
全解、43、1536番歌、特になし。60番歌を帰路とする。
奥野健治、萬葉三國志考(1947.4.10)、なばりのやま、榛原から青山峠までの全体、更に限れば青山峠。 これについてはすでに言及した。それにしても、どの注釈書からも全く言及されないのは不思議だ。奥野と言えば大変有名なのに。
   飛鳥→鳥見山公園まで14.77キロ
  鳥見山公園→県境まで12.75
    県境→名張駅まで6.7
  名張駅→青山14.01
青山→峠6.8
飛鳥から榛原まで約15キロ、飛鳥から名張まで約34キロ、飛鳥から青山峠まで約55キロ。
阿蘇全歌講義、朱鳥六年三月三日 朱鳥六年は、持統六年(693年、藤原遷都は694年)。朱鳥は、日本書紀では、天武十五年に改元してこの一年だけをいうが、万葉集では、持統天皇の時代をいうのに使われている。三月三日は、現行暦の、三月二十八日に当たる(『日本暦日原典』による)。
太陽暦3月28日なら、日は長い。飛鳥最後の歳の693年だから、出発地は飛鳥で、名張までの距離は約35キロ。長いが、時速4キロとして、約8時間半、休憩を入れたら10時間はかかる。朝8時に出たとして、夕方6時に着く。まだ足元は充分に明るい。それに榛原、名張間にてごろな宿泊地はない。疲れても翌日は青山峠の登りもほとんどなく、あとは下り一方で、伊勢平野に出たあたりで(川合高岡あたり)泊まったのだろう。

 

 

 

東京、長野、近畿の人口

2023年1月
東京都、1403,4961人、7266人減。世帯数2964減。
長野県、201,6467人、1219人減、世帯数92増。
大阪府、878,1195人、4016人減、世帯数591減。
京都府、254,6951人、1881人減、世帯数545減。
兵庫県、539,7046人、3372人減、世帯数653減。
滋賀県、140,8499人、892人減、世帯数492減。
奈良県、130,3658人、906人減、世帯数155減。増えたのは、香芝43、葛城2、三郷4、川西1、広陵11、河合5、川上3の7。
和歌山県、90,0621人、1057人減、世帯数287減。増えたのは、岩出2、印南8、上富田27、すさみ1、北山2の5。
和歌山市(35,0985)-奈良市(35,1592)=-607
変動が激しいが、東京を初め世帯数も減っているのは今までなかった傾向だ。長野だけ世帯数贈というのは何故か。