2334、風土の万葉、藤原宮御井歌の東西南北の山

2334、風土の万葉
「藤原宮御井歌」の東西南北の山

1-52    藤原宮御井
八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水〔短歌略〕

八隅知し わご大王 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始め賜ひて
埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば
大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける
高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば つねにあらめ 御井のま清水

はじめに
 東西南北の門に対する四つの山の描写に工夫があって、実に見事な風景の造形が行われている。今はだいたい通説らしいものが出来て、作者の問題や文学史上の位相の問題を除けばほとんど問題にされないが、風景の表現の元になる地理的な事実については、問題を残している。江戸時代には畝傍山は南門に対すると見られ、吉野の山と重なるので少し問題になったが、今は西の門に対すると言うことで決着した①。しかし、今でも時々指摘されるように、西の中門から見ると、相当に南に偏っており、つまり南西の巨勢方向に見えるので、西の方位というところに不安がある。西の方位といっても、角度はかなり広く取れる場合もあるので、真西でなくともよいという説もあるが、本稿では別の見方もありうることを推測してみたい。香具山、耳成山は風景描写の理解がまだ浅いように思うが、地理的には問題ない。吉野の山は、最近の注釈でも、藤原宮から南方遠くに見えるとするものがほとんどで、金子評釈をはじめ、二三の反対説(絶対に吉野の山は見えないという説)があるが、問題にされることがない。これは物理的に見えないことは明らかなのだから、見えないという前提の上で歌をどう解釈するかというのが問題で、それについては本稿で中心的に論じた。なお、藤原宮の門と山を眺めた出発点である埴安の池の堤が未解決である。これはもはや確実に場所を特定することは不可能に近いが、それでも一考の価値はあるし、四山のあり方にも係わるので、具体的な位置を想定した。以上の地理上の問題を論じて、風土と藤原宮御井歌との関連に説き及びたい。

埴安の池の堤
 木下正史氏によると②、
  現地形と周辺における発掘成果などを併せ考え、現在の下八釣集落からその北方にかけての場所に池跡を推定している。このように推定してよければ、中ノ川は埴安池に流入していた可能性がでてくる。
ということだそうである。中ノ川というのはちょっとした溝程度の小流で、下八釣一帯も平坦な水田地帯だから、谷口を塞き止めるような大きな池はできない。大極殿跡のあるかつての鴨公小学校の周囲にある醍醐池や別所池程度の皿池であろう。江戸時代には下八釣の南東香具山山麓の出屋敷から北北東に延びる低い尾根を池の堤の一部と見たようだが、これは磐余の池関係のもので、埴安の池とは関係なさそうだ。皿池とすると堤はそう高くないだろう。しかし、藤原宮の大垣を間近に見ることで、宮の立派さは分かる③。
 橿原考古学研究所のHPに、藤原京条坊復元図がある。それで見ると、中ツ道と東の大垣の北半との中間を中ノ川が流れており、その建部門(東の中門)の東あたりが今の下八釣だから、建部門の北東の中の川の東西を占め、東の大垣にかなり接近したところに、埴安の池の西の堤があったのだろう。つまり岸俊男氏復元の条坊だと、東二坊大路と東三坊大路、二条大路と四条大路に囲まれた部分に池があり、その東二坊大路(東の大垣の前面)と二条大路の交わるあたりの堤ということになろう(堤は曲がり角の所が広いのが多い)。随分南北に細長いがこういう皿池もあるし、埴安の堤から北の大垣の門を見るにはやむを得ない。
 ところで、なぜ埴安の池の堤なのだろうか。藤原宮の北東の隅の外側あたりから、四方の門と四方の山を描写するのは何か理由があるのだろうか。宮の全体や建物の配置などを見るなら南の正面朱雀門から朱雀大路を少し南に行ったところに、日高山という一寸した丘があり、その上から見るのが最適だが、中央が削られて朱雀大路になったために、風致に欠けるのだろうし、御井から離れすぎるようだ。というのも、井戸はやはり内裏(天皇の生活場所だから、北の大垣に近いところにある)にあるだろうからである。御井を主題にするのなら、垣の外ではなく、内部のその井戸の側で詠んだようにすればよいようだが、門(大垣の印象もある)や三山の眺めを描写するためには、外から見た方がいいだろう。朱雀大路のような正面でなく、もっと高いところから宮の建物の配置を見るなら、香具山に昇ればよいが、山中から見たのでは、山全体が東の門に対しているということが見えにくくなるから、少し離れて見た方がよい。
 歌に藤原宮を造りはじめたとあるのは、死んだ天武ではなく、持統④が主語で、やはりこの天皇特有の事情があるのだろう。確実なことは言えないが、推測できることはある。
 埴安の池の堤を展望の場としたのには、高市皇子の存在が大きく影響していよう⑤。万葉にあるように、この皇子の宮は香具山の宮と呼ばれ、埴安の池の近くにあったようだ。199番の短歌の二首目201番に、
埴安の 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人はまとふ
とある。おそらく、埴安の池と香具山北麓の間を占めていたのだろう。またこの皇子は太政大臣として藤原宮、藤原京建設の責任者であったようだから、その皇子の宮の近くで、建設の状況を質し、御井のあたりや三山を見るのはふさわしいし、その場所の設営や接待にも便利である。
 最後に、この天皇は水辺が好きだったようで、飛鳥周辺だと、埴安の池が最も手近で、空も広々としていて、風景もいい。吉野行幸や伊勢行幸でも船遊びがあったようだから、埴安の池で船遊びぐらいはしたであろう。

   埴安の池の堤からの眺め
 大垣の塀は高くて大きいから、その外堀に添うあたりから見たのでは、畝傍山あたりは見えなかっただろうと思われる。埴安の池の堤はどれほどだろうか。あのあたりの皿池ならせいぜい2、3メートルぐらいだが、5メートルぐらいの高さのところもあったのだろうか。それだけあって、大垣から50メートル以上離れたら、畝傍山もかなり見えるだろうが、一辺900メートル以上だから、畝傍山に面する西の大垣、更には南の大垣などは、宮内の宮殿や官舎などにも遮られ、小さくとぎれとぎれに見えて、あまり大垣らしくなかっただろう。
 実際に埴安の堤に立って眺めた場合を空想すると、東西北の大垣の中門の正面にそれぞれの山があるとはとうてい思えない。耳成山は北の中門から見てかろうじて時計の針の55分あたりが山の中心だが、埴安の堤の北端が三条では、大垣の北東角に山の一部が遮られるかも知れない。やはり池の北端は二条であろう。香具山も、東の中門の正面ではなく、かなり南東に振っている。埴安の堤からだと東の大垣が全部見えるし、香具山も北東に尾根が延びかなり山体が大きく見える。東の中門から正面ではないが、右手斜めから正面に向かって見えるので、門に対して立っているとは言える。畝傍山は、西の中門からではあきらかに南西に振っているが、かなり距離があるために違和感が薄らいでいる。なお埴安の堤からは、宮内の建物や東の大垣などに遮られて、中腹以上しか見えないだろう。西の中門よりさらに1キロほど離れ、西の中門のあたりと畝傍山の見える方向が南西方向に少し重なるため、中門の正面でないことの違和感が薄らぐと思える。なんにしても、宮の北東、北西、南西、南東の角からそれぞれの方向に線を延ばして4等分すれば、それぞれの山は東西南北に収まるので、特に歌の表現を概念的で現実的ではないとみなすほどのことはない。注③で述べたように、中門ではなく三つの門のどの門に対してもいいとするならなおさらである。しかし、耳成山が北に離れすぎてしかも相当に低くて小さく、また香具山は扁平で、畝傍山は高くいかめしく、三山に囲まれたというにはバランスが悪いことは確かで、三山の中心という観念が実際の風景より先行して、ちょっと無理をしたとも言える。三山を詠み込んだ歌というのも、この御井歌と例の天智の作しかない。ちなみに二山を詠んだのはない。

吉野の山
 さて、南門からは吉野の山は確実に見えない。いろいろ説は出ているが、なぜ見えない山を詠むのか、再考の余地はあるようだ。
  大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
  畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
  耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
  名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける
三山では、香具山と耳成山が「立てり」で、畝傍山は「います」となっている。畝傍山だけに敬語がある。「立てり」となっていないのは、香具山、耳成山が、麓から頂上まで、山全体が見えるのに対して、畝傍山は、大垣や宮殿に邪魔されたり、かなり離れているとかしたりして、麓の部分が覆われて、「立っている」という言い方がふさわしくなかったのだろう。それにしても、この「に」はどういう意味だろうか。普通空間的時間的なある場所や時点を指示するのだが、まさか「大御門」という門に山があるわけでもないだろう。おそらく対象を指定するという意味だろう。大御門を対象として立っている、というだけの表現内容だから、金子評釈の言うように、名山を配したと言うことだろうが、それと共に風光の良さを表現するということがあろう。平野部に山が聳えるということでは讃岐平野が最たるものだが、三山に囲まれるという点では大和平野はもちろん、近畿一帯ではまずない。
 ところで、三山の内、畝傍山だけに敬語が使われているのが不審である。歌全体として、道教思想だとか、当時は香具山が大和の中心の山だったとか言われているが、それなら「天の香具山」と言われそうなものだ。そうではなくて畝傍山に敬語があるのだから、そういう思想上の観点はあてはまらない。ここは、初代天皇の神武の橿原の宮を想起しているように思える。それが眼前の藤原宮にまで連綿と続くということだから、香具山、耳成山よりは格が一つ上ということで、そういう歴史認識によって、畝傍山を目出度い山だと讃美し敬語を使い、素朴な皇統讃美の意図もあるのだろう。道教思想などとは無縁と思われる。
 話がかなりそれたが、吉野の山は見えないということについて、最近の注釈類でも、はっきり、吉野の山を見えるとしているのもある。宮跡ではなくとも、八木駅から見えるというのもある⑥。みな間違いで、そういうところからは全然見えない。おそらく、高取山の南東の尾根が細かく枝分かれし、芋峠側の尾根が奥まって高く(高取山の頂上584メートルより高い606メートルの峰がある)、やや色が薄く見えるのを、吉野の山と勘違いしたものであろう。当時の環境の良さからすれば、それが高取山の一部で、吉野の山でないことは肉眼で明瞭に分かったであろう。
 かつて、非常に空気の澄んだ日、奈良から橿原までの24号線を自転車で走りながら、吉野の山を見続けたことがある。今から何十年も前なら、国道沿いに水田のあるところが結構あって、吉野方面もよく見えた。奈良から郡山辺りまでは、高取山や多武峰の向こうに、大峰の山々がはっきりと見え、芋峠の向こうの弥山などの1900メートル前後の山が見事である。これが天理あたりになると、山上が岳方面が多武峰に隠れて見えなくなる。田原本になっても、弥山方面がまだまだ見えている。橿原市にはいると、さすがに芋峠の向こうにわずかに見えるだけだ。これが米川にかかる三山橋で全く見えなくなる(今ではあのあたりビルだらけだから、これは夢のような話で、再実験も出来ない)。奈良からずっと見続けてきたのだから、高取山の東尾根と吉野の山を混同することはない。つまり、八木駅とか藤原宮から吉野の山が見えないのは確実な事実なのだ。このようなことは証拠にならないと言えばそれまでだが、万葉人は、高取山の一部を吉野の山と誤解することはなかったという可能性が高いとは言えよう。それに、はるか空の彼方という表現にも合わない。見えないから空の彼方なのだ⑥。ところで、証拠にならないと言ったが、実は、壬申の乱の前に天武一行が大津から飛鳥へ強行した時に、国道24号の東、中ツ道を南下したのだ。24号(下つ道の東を併行)よりは、吉野の山の見えなくなるのが早いが、それでも田原本あたりまでは同じようなものだろう。味間、蔵堂(くらんど)(村屋神社のあるところ)、法貴寺などは行ったが、ただ多武峰あたりの山を見ただけで、吉野方面は注視しなかった。天武一行が何時間もずっと大峰の高山を見続けたことは確かだろう。正し晴れていればのはなしだが、書紀に天候は当然ながら書かれていない。しかし、額田王三輪山の歌にもあるように、天智、天武といった人々は、明日香と近江の間を何度か往復しただろうから、奈良から明日香までの間吉野の山を何度も見たことは間違いないだろう。持統天皇も見ていたわけで、御井歌で、南の方空の彼方には吉野の山があるのだ、という感慨を持ったとしてもおかしくはない。それはまた、御井歌の作者、またその聞き手にも共有された実感であろう。ただし直接には、天武、持統の吉野行幸の体験が元になっていよう。一山越えれば吉野なのだし、峠あたりからは、広大な吉野大峰の山々が見える。
 吉野行幸でそういうものを見てきた人には、藤原宮あたりから、明日香の山々の稜線を見たら、鮮やかにその向こうに吉野大峰の山々が想起されたであろう。
 それに、明日香というところは、なぜか吉野の空気が漂っているのだ。実際に芋峠あたりから南東の風が吹き込んでくるのだろうが、植物相や山の形などが、吉野とほとんど同じなのだ(特に吉野山以北)。奈良の植物学界では、音羽の連山や多武峰などの植物は吉野の出店と言われている。藤原宮から南方に吉野の山を想起するのは、歴史的な由緒のある(神武天皇とか)名山というだけでなく、身近に感じられる山だからということもあろう。
おわりに
 埴安の堤から見たというのは、ただそこから見たことにしたというだけでなく、そこからの四方の名山の見え方(あるいは見えないこと)を具体的に描写したことを示しており、そこに居合わせた人たちは、臨場感や風土感にあふれた作品として受けとったであろう。
 既に述べたこともあるが、どう描写しているかまとめておきたい。
 まず埴安の池の堤からのそれぞれの山の頂上への方位と直線距離。
  香具山、ほぼ南東に625メートル
    畝傍山、ほぼ西南西に2875メートル
耳成山、ほぼ北西に2000メートル
吉野山、ほぼ東南東に19.2キロメートル(吉野山の858メートルの最高点まで)
 ここでもう一度、その部分の原文を引用しておこう。
香具山は頂上まででもわずか600メートル強で、一本一本の木の枝まで見える。表現通り春の樹木や、あるいは桜の花などが、茂りあって春山そのものである。耳成山は2キロの距離で、さすがに此だけ離れると木々の形までは見えないし、小さい山で表土も薄いから大木もなく南から見ると日光が当たりすぎて緑色も薄くせいぜい灌木の山程度で、菅山というのは当たっている。ただ小さいながらに形は円錐形で整っているから神さびたイメージもある。畝傍山は、三山の中で一番遠く3キロ弱だが、高さは一番だから、耳成山よりも立派にみえ、山の東北東面の一番傾斜の強い面を見るので、やや黒みを帯び、山らしい威厳を見せる。これはもう木々の形など見えるわけがないので、植物のことは言わない。
 吉野の山は、見えないのだから幾ら遠くても関係ないが、今の吉野山の最高点までで約19キロ、奈良よりは近いが、三山に比べれば勿論遠い。表現で見ても、遠くにあるではなくて、遠くありける→遠かりける、と見なせるから⑦、遠いことだ、ということになる。芋峠の彼方の空の下で遠いことだと言うことになり、見えないことを言外に含めている。しかし、見えなくても、はっきりあることを意識しているのは、既述のように、吉野行幸などで芋峠の方向の彼方に吉野の山(の中心部)を見た経験が眼前に想起しているからであろう。更には、その距離が本当に遠い事も思い浮かべていよう。
 御井歌は、山に絞って、実際の風景(三山)と想起した風景(吉野の山)を美しく描いて、眼前の御井(おそらく大垣の陰で見えないだろうが、これも想起して)のすばらしさを讃頌した歌と言うことになろう。宗教的政治的な意味合いは少ないであろう。


①江戸時代の注釈書がなぜ、畝傍山は南門に対するとしたのか、理由は不明である。おそらく藤原の宮をもっと西よりと見たところから、南の方向にあると考えたのだろう。香具山を日の経(東西)としたから、やむを得ず畝傍山を日の緯(南北)としたのだろうという古義の説は意味不明である。山田講義が『高橋氏文』(『本朝月令』所引)の、東を日竪、西を日横とするのを引いてから、畝傍山は西門に対応するという説に定着したようだ。
②『藤原京・よみがえる日本最初の都城中公新書、2003.1.25
 同氏は又、平安時代の「典薬寮」には、薬園などのほかに、御井《みい》なども付属したという。そして藤原宮跡では、薬物関係木簡が多量に出土したことがあり、場所は内裏東外郭の東を北流する東大溝が、北面大垣をくぐり抜け宮外へ四メートルほど出た地点で、これらの木簡は、東大溝の上流で一括投棄されたものらしい、という。つまり内裏の北東側と東の大垣とのあいだということで、そこに御井があったとすれば、埴安の池からは目と鼻の先である。
③『日本史リブレット藤原京の形成』、寺崎保広山川出版社、2002.3.25、24頁。
 大垣の高さは約5.5メートルに復元される。門は12ケ所あり、皆同規模。桁ヌキ長、約25メートル。
皆同規模ということは、歌の中の大御門というのも、特に中門というわけではなく、三つの門すべてかも知れない。言い換えれば三つの門に代表される北の大垣全体で、耳成山に対していると言えよう。他の東西南も同じ。
④『萬葉集年表第二版』、土屋文明岩波書店、1980.3。52番53番歌、持統八年(694)。「藤原宮造営成りての作なるべし。」とあるから持統天皇が主語であることは間違いない。
⑤『日本古代宮都構造の研究』、小澤毅、2003.5、青木書店。
 「第2表 藤原京の造営過程(『日本書紀』『続日本紀』による)」、に細かく整理されているが、持統が何度も宮地に行くのは当然として、高市皇子について
持統四年 (六九〇) 十月二十九日 高市皇子、藤原の宮地を観《みそなは》す。公卿百寮従《おほみとも》なり。
とあるのは、同年七月に太政大臣に任じられてからのもので、この規模のものはほかになく、持統の藤原行きより早い。その後十年七月没まで、その任にあったから、藤原宮・京造営に高市皇子が重要な役目を持っていたことは明らかだろう。
⑥『續萬葉紀行』、土屋文明、養徳社、1946.9。7頁に、
 關急八木驛の高架乘車場から、再び吉野の方を望んだが、高取の連峰の背後にわづかに霞んで居る遠山を認めた。吉野から大峰にかけての山の一部であらうが、之は御井の歌に歌はれた吉野の山ではあるまい。御井の歌の吉野山、やはり高取から細峠に至る連峰をさすのであらう。
とある。この遠山というのは、吉野の山ではなく、本文中に述べたように、606メートルの峰の前後のことであり、また高取、細峠間の連峰は御井の歌の吉野山ではない。
ついでに言うと、北島葭江『萬葉集大和地誌』、關急版、1941.8、の82頁に、
 …、遙か北方の耳成山の麓からなら僅かにいまの吉野山の頂點がちよつぴりと覗いて見えるが、藤原の宮阯からは何れの點からしても全く見ることを得ないのである。
とあるが、土屋文明と同じ過ちである。そして、歌では、三山は見えるといってるのだから、吉野の山も見えるはずだとして、結果的に、土屋と同じ過ちをしている(出版年からすると北島の方が早いが)。
⑦遠くありける、というのは、鶴久氏「所謂形容詞のカリ活用及び打消の助動詞ザリについて」(「萬葉」42号1962年1月)がカリ活用の未融合形として出しておられるように、形容詞「遠し」の意味で使われるから、「遠いことだ」とか「遠いことであることだ」と訳すべきなのに、「遠くにある(遠くに見える)」というように訳す注釈書が殆どである。これは「ある」を存在するという意味の動詞に取っている。だから場所を示す格助詞「に」を補っている。しかし明らかにカリ活用であり、助詞「に」はないのだから、そういう意味に取るのは誤りであろう。三山が見えるのだから、吉野の山も見えるはずだという先入観があるとしか思えない。しかし、「雲居にぞ遠くありける」といふうに、「雲居」のところで「に」が使われている。だからか、阿蘇全歌講義、「はるかに遠い雲のかなたにある。」新大系、「遠く雲のかなたにあるのだ。」のように、「雲居」と「遠く」の語順を逆にして、「遠く雲居に」という意味で訳している。これだと「遠い」という実感的(実際に歩いた感覚)な意味が薄くなる。「遠い雲居(空の彼方)に」では、隔離感が強まる。語順通りに見えても、私注、「雲の居る遙か遠くにあつた」、注釈、「雲の彼方遠くにあることだ」などでは「に」が「雲居」ではなく「遠く」の方に置き換えられている。また、和歌大系、「雲の彼方に遠くつらなっている。」というふうに「に」の位置も語順通りにしても、「つらなる」という「遠い」という語から出てこない意味を補わなければならない。それに「遠くつらなる」も意味曖昧だ。連なり方が遠いというのはどういうことか。雲の彼方まで山脈が続いていくことなのか。要するにこれも、見えるという前提で訳そうとしているからだろう。それでは、見えないけれど、遠いことだ、といった意味で素直に訳せるかというと、なかなかそうはいかない。「雲居に」の格助詞「に」が邪魔をするのだ。「雲居(空の彼方)に遠いことだ。」では場所を示す「に」に対して、「遠い」では舌足らずである。だからこれも「空の彼方に(あって)遠いことだ。」というように補わなければならないが、「遠くあり」をカリ活用の形容詞とせず「に」を補って訳すよりましであろう。
             〔2023年4月24日(月)午後7時15分成稿〕


●佐佐木隆、藤原御井の歌、セミナー万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30 。常にと清水の訓詁、対句の末尾が終止形ということによる人麻呂作説の否定。国語学的な問題ばかりで、南門から吉野の山が見えるといった通説通りの明瞭な間違いもあり、埴安には全く言及しないなど、地理的な観点が皆無だ。ただしその点を問題にする論考はめったにないのだが。
中西進万葉論集 第三巻(万葉と海彼 万葉歌人論)、1995.7.15 講談社
藤原宮御井歌、初出「短歌」1986.12 原題「藤原宮の御井歌のなりたち」
持統の吉野行幸は…終南山に表し、よって闕を為すということがあった…。吉野は終南山に見立てるには格好の位置にあった。それゆえにこそ万葉は三山に加えて吉野を歌うのであろう。…南の遠い彼方ということを換言すれば、それは「終南」に他ならない。
吉野の山を終南山に比するのなら、大峰の山上が岳まで登るか、それを望拝するかしなければならないが、持統の行った宮瀧は川が中心であって、周囲の山も、低く、また大峰などどこからも見えない。「御井歌」の「吉野の山」は、ただの吉野地方の山山であって、特定の山を指すのではない。それに中西は、埴安の堤から吉野は見えないという事について何も言わない。
●香西克彦 日本建築学会計画系論文集 第480号 195-204 1996年2月
大和三山の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造
同、第511号,217-222.1998年9月
吉野の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造 Ⅱ
同、第515号,275-282,1999年1月
御井の風景「藤原宮御井歌」にみる風景の構造 Ⅲ
3編にわたる膨大な論文で色々考えられた力作だが、最初の方法の論(ベルク氏と私のとほぼ同じだが、ベルク氏の主著が既に出ているのに言及はない)と、御井歌に詠まれる吉野の山は完全に見えないことを強調し、それを前提に論を進められるのとが興味深かったが、どちらの結論も首肯できない。要約できないほど長いのでいろいろ他の論点もあるが、残念ながらすべて認めがたい。建築学の立場からはいろいろ面白い結論もあるようだが、御井歌の論としては熟していない。要するに、吉野の山が見えないことを指摘する万葉学者が少ししかいない状況で、結論はともかく、はっきり見えないと断定して論を進めたのが取り柄である。
藤原京・よみがえる日本最初の都城中公新書、305㌻、880円、2003.1.25
瓦葺きの大陸様式の建物は、中枢施設である大極殿、朝堂院、朝集殿《ちようしゆうでん》と宮城門、大垣に限って採用されており、官衙《かんが》建物にはまったく及んでい
四周は掘立柱塀による大垣で囲まれている。その規模は東西大垣間が約九二七メートル、南北大垣間が九〇六・八メートルとほぼ方形で
●橿考研のHPに詳細な藤原宮・京の図面あり。
木下の言う位置に埴安の池があり、そこから展望したのだとすれば、その堤と西門とを結んだ線の延長上に畝傍山がある。今まで、西の中門から見ると、正面ではなく、相当南西方向に偏って見えるのが疑問視されたが、埴安の堤がこれなら、さしたる違和感はない。
やはり頭の中で宮殿、門などの配置を描いているのではなく、実景を見ながらいろいろと表現を構想したのだろう。埴安の池が展望の場になったのは、近くに高市皇子の宮があったのも影響していよう。
●日本史リブレット藤原京の形成、寺崎保広山川出版社、2002.3.25、800円
24頁、大垣の高さは約5.5メートルに復元される。門は12ケ所あり、皆同規模。桁ヌキ長、約25メートル。  巨大な門だ。朱雀門みたい。藤原宮の朱雀門も他のと同じで特別視されなかったらしい。ということは、歌の中の大御門というのも、特に中門というわけではなく、3つの門すべてかも知れない。
●格助詞「に」岩波古語辞典、(5)動作、感情の対象。…我妹子に立ち別れゆかむ…万665
立ち、(丈の高いものが)確かに座を占める。そびえ立つ。万52、香具山は…に…立てり
これだと、私の言うように、麓から山全部が見えている方がいい。
●埴安から芋峠まで8.5キロ。これは巻向山までと同じ距離で、三輪山などはもっと手前になり、雲の彼方という感じではないから、芋峠も同じ距離感である。

註釋、特になし●特になし
管見、特になし●特になし
拾穂抄、特になし●特になし
代匠記初、南に當りて吉野山は遠く立て都をしづむるなり、唐にもよき都は皆四面に靈山あるなり、張衡西京賦曰     畝傍山は南にある●特になし
僻案抄、御門の面(南歟?)にむかへて、程遠くたてるをかくよめり。 畝傍山は南門に対する。●青垣山は御門の東にあたるなるべし。
考、遠く見放らるゝは吉野山なり 畝傍山は南門に対する。●東御門に當るをいへり、
略解、遠く見遣らるるなり。 畝傍山は南門に対する。●香山は東の御門に向へり。
楢の杣、今をもて見れば鷹取山の南の一片は吉野郡に屬すべければ其嶺などを云べし、河の南なる今云吉野山は見ゆべからず。●特になし
燈、雲のゐる所をあふぐばかりの、遠さなるをいふ也。 畝傍山は南門に対する。●爾もじは、此御門のためにあつらへ置たるが如きをいふなり。
攷證、雲ゐといひて、やがて、天との|こゝ《(マヽ)》もし、天は遠きものなれば、●特になし
古義、遠く雲居に見放らるゝは吉野山なり、 畝傍を日の緯(たて)(南北)というのは矛盾しているが、香具山を日の経(たて)といった以上、同じ言い方は出来ないから、やむを得ず「日の緯」といったので、こだわるべきではないという。●香山は、東の御門に向へる故に、かく云り
檜嬬手、雲居遙かに見えたる其景色 ●東《ノ》御門に當るを云へり。

安藤新考、吉野畝火共に南御門に方るを畝火は近き故に御門爾と云(ヒ)吉野は遠き故に從《ヨリ》と云り、これは古義、近藤、木村などとほぼ同じだが、畝傍、吉野どちらも南門とは難問だ。●特になし ▲美豆は若く美《ウルハ》しきを云
註疏、遠く見放《ミサケ》らるゝよしにいひて●香山は東の御門に向へり。畝火山を西の御門に向ひたり ▲美豆は贊辭にて瑞枝瑞垣などのミヅに同じ
美夫君志、吉野は遠く空に見放《ミサク》るをいふ、●大御門爾とは香山は東(ノ)御門に當ればなり、▲若くうるはしきをいふ、此は草木の繁茂して榮ゆるをいふ也
伊藤新釈、特になし。●四門の前それ/”\と宜しき程に名山が立つてる ▲
井上新考、トホクアリケルは今ならばトホクミエケルなどいふべし。畝傍山は西南門からみたもので、それなら、日の横ともいえるといっているのは、東西ではなく南北の意味で言っているらしいが、それだと吉野と撞着する。古義の疑問をうけたものだが、曖昧。 ●特になし ▲みづみづしきをたゝへて云へるなり。
折口口訳、遠く地平線の空に見えてゐる。●東の御門に  ▲瑞々した山と思はれる様に、神々しい山として
次田新講、ずつと遠くの空に見えてゐる。●東の御門に面して…、畝火の茂り榮えてゐる山は、西の御門に對つて…。又耳成の青いすが/\しい山は、北面の御門に丁度よく神々しい姿で立ち、  耳成山だけ「に」の意味が違うのは不審。
講義、南の方近くには名山なければ、稍遠けれど、名高き芳野山を呼び來れるところに歌主の手腕あらはれたり。●特になし  ▲うるはしく若木の茂れる山といふ義なり。 
全釈、空ノアチラニ遠ク見エル。●東ノ方ノ御門ニ  ▲瑞々シイ美シイ〔三字傍線〕山ハ
  空ノアチラニ遠ク見エル。
武田總釈、全註釈と全く同じ。●東方の御門に
精考、特になし。●特になし ▲「みづ」は若木などの茂りあうて、みづ/\しく、うるはしき意、
金子評釈、ずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。但實際からいふと、南の大御門から吉野山は絶對に見えない。それは南面に高市郡を劃する、三山などよりずつと高い音羽多武の連山が壁立してゐるからである。  苟も山といへば吉野を除外することの出來ないのが、その時代人の心理であつた。かう考へると、他の三山も地理的關係の外に、そのもつ三山傳説が重要なる役目を以て、こゝに登場したことゝ首肯される。●東の御門に當つて ▲瑞々しい畝傍山は ずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。
柿本人麻呂(茂吉)、●東の方の御門に對つて  ▲若く瑞々《みづみづ》した畝火山 雲際遠く聳え見えて居る。
窪田評釈、空遠く立っていることである。●東の御門にあたって、▲うるわしく若々しい山は   空遠く立っていることである。
全註釈、天の一方に遠くあつた。御井は…埴安の池の一角で…。●東方の御門に ▲瑞々しい山は 天の一方に遠くあつた。
佐佐木評釈、遙か空の彼方に遠く見える。北島葭江龍門山説を紹介するが、おほらかに吉野の山といったのだろうとする。●東の御門のところに (畝傍山の場合は遠すぎる) ▲  瑞々しい畝傍山 遙か空の彼方に遠く見える。 語注、雲の立ち聯なる遠方にある。
私注、遙か遠くにあつた。耳我嶺のように龍在、高取一帯の連山…、今の吉野山は殆ど見えない。●東の大きな御門に ▲美しい山は 雲の居る遥か遠くにあつた。
古典大系、はるか彼方、空遠くにある。●東の御門の方に これは誤訳。▲生々した山は はるか彼方、空遠くにある。
注釈、雲の彼方 遠くあることだ。多武の峯と南の高取山との間に僅に見える吉野郡の山を漠然とさしたものである。●東の方の御門に ▲みづみづしい山は 雲の彼方遠くにあることだ。
古典全集、空の果てに遠くあることだ ●東面の大御門に ▲みずみずしい山は 空の果てに遠くあることだ
集成、はるか向う、雲の彼方に連なっている。●東面の御門に ▲瑞々しい山は はるか向う、雲の彼方に連なっている
全訳注原文付、遠く雲のかなたにある。●東の御門に向かって ▲瑞々しい山は 遠く雲のかなたにある
伊藤全注、はるか向こう雲の彼方に連なっている。●東面の大御門に ▲瑞々しい山は はるか向こう雲の彼方に連なっている。
新編全集、空の果て 遠くにある●東面の 大御門に ▲神秘の山は 空の果て 遠くにある
釈注、雲の彼方に連なっている。●東面の大御門に ▲瑞々しい山は   はるか向こう、雲の彼方に連なっている。  語注、藤原の宮から最も遠くにある
和歌大系、雲の彼方に遠くつらなっている。●東側の御門に ▲瑞々しい山は 雲の彼方に遠くつらなっている。
新大系、遠く雲のかなたにあるのだ。●東の御門に ▲瑞々しい山は 遠く雲のかなたにあるのだ。
多田全解、…遠く連なっている。●東の大御門に、▲瑞々しい山は 雲居の彼方に遠く連なっている。
阿蘇全歌講義、…はるかに遠い雲のかなたにある。表現(歌の技巧)と作者を論じているだけで、埴安は通説に従うだけで、どこから眺めたのか触れないし、吉野の山の見え方も触れないように、地理は問題にせず。●東の御門に向かって 「に」の説明はない。▲生命力に満ちた山は  遠い雲のかなたにある。…永遠であろう。

都倉義孝、藤原宮御井歌(万葉集を学ぶ)、1977.12.15、作者と文学史上の宮廷讃歌との議論のみ。
山田講義、『高橋氏文』(『本朝月令』所引)にも東を日竪、西を日横にあてている。ただし、成務紀(五年九月)には、東西を日縦、南北を日横としている。