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更にそれて、
万葉集字余りの研究、山口佳紀、塙書房、362頁、2008.05.01
を読む。西郷、品田、西條、工藤、山口の順に新しい。工藤以前に比べて、非常に実証的で分かりやすいが、それだけに、理論的に進歩したという点が不十分だ。いかにも国語学的な研究だ。書名は字余りだが、わずかながら字足らずにも観察は及んでおり、5757の定型でよむことの万葉集の実態がよくわかる。宣長毛利正守氏の、研究で、句中に母音を含むときの字余り現象が詳細に研究されたが、それをさらに拡充させたと言えよう。ただし氏も言われるように、万葉集長歌短歌旋頭歌だけで、記紀歌謡や古今集以降には及ばない。特に破調の多い、不定形の記紀歌謡の長歌様のものに一言も言及されなかったのは、心残りだ。
この書では、今まで字余り字足らずとして読まれてきたものを定型(充足音句)に読むために訓詁を行ったものが多い。その結果今までなじんできた読み方が変えられたものが多く、いくら自信たっぷりに断定されてもにわかには信じがたい感じもする。
偶数句(7音句)は、原則2つの部分に分けて唱詠し、その後半に母音が来るものは、全体として不足音句ではなく、充足音句になるというのは、なるほどと思わせる。つまり句中の母音として6音相当になるのではなく、句頭に母音が来るのと同じ働きをするというのである。
句中母音を含まない字余りや、含んだ上での字足らずと純正の字足らずなどは破調というか例外として処理されるだけで、リズムの問題としては考察されない。記紀歌謡のような乱取り調からどうして、万葉のような定型になっていくのかが分からない。ただし、ごくまれだが、「長歌の結句は、5音句に比して、音数的な制約が厳しかったものと見える。」(207頁)といった指摘もある。つまり長歌の最後は、きちんと充足音句で閉じるという、リズム上の形式があるというわけだ。
それから、「本書のまとめとして」を読むと、本文中にはなかった、歌のリズムについての理論的な説明が出ている。
和歌については音楽的な「歌唱」と、音楽から離れた「律読」とがあるという。記紀歌謡で一句の音数が一定しないのは「歌唱」されたものが多いからだろう。万葉で定型化が著しいのは「律読」されたからだろう。これは一般に「ウタフ歌からヨム歌へ」と言われるものである。ただし万葉でも音楽的に「歌唱」されることはあったであろう。といっても、たとば、「わざみの」などは、4音分に発音されたのか、最後の「の」を延音して「わざみのお」として5音分に発音されたの、不明である。
と、このように言われると、それはその通りだと思うのだが、そこを知りたいわけである。そういう字足らず句というのはどういうリズムをもつのだろうか。そこを推測ではあっても、西郷信綱のように、歩くときのような肉体的なリズムであり、立体的にイメージが浮かんでくるといったすぐれた読み方をされる方がすっきりとするわけだ。そう言うのは批評であって、学問ではないのだろうか。といっても、なみの努力では西郷氏のような理解は出来ないのだ。
余談、犬養孝氏の「歌唱」はすべての万葉短歌を同じリズムで歌うのだから単調極まりない。といって歌によってメロディーを替えるのは、作曲家でもないかぎり無理だろう。また、よくきくと、57577のはずの歌が、延音が多いから、おおかた、8音の繰り返しに聞こえる。
いわーばしるー- たるみの-うえの さわらびの-- もえいずるはるに- なりに-けるかも  
本当に万葉の歌なんだろうか。