2150~2157

2150、
野嶋我さき(3606)、野嶋我埼(250一本)
釋注、 この人麻呂の羈旅歌八首には、一本歌の注記が四首にわたって見える。それを記すと次のとおり。
 l 処女を過ぎて 野島が崎に (二五〇の一本)
 2 藤江の浦に (二五二の一本)
 3 明石の門より (二五五の一本)
 4 武庫の海 (二五六の一本)〔それぞれ略出〕
 これは、期せずして、前半二首が往路、後半二首が帰路の歌となる。しかも、往路は東から西へ(野島から藤江へ)、帰路は西から東へ(明石から武庫へ)の順序が明確であり、八首の場合の後半四首のようにまぎれることがなく、すこぶる単純である。
 行路にあたって人麻呂が実際にうたったのは一本歌のこの四首で、八首構成は、都に帰ったあと、人びとに披露した時の脚色によって生まれたのではないかと察せられる。前半四首が野島歌群としてのまとまりを見せ、後半四首が配列・懸詞・連想などこまやかな配慮に裏づけられているのは、脚色ゆえのものであったと認められる。事実、八首構成によるさまざまな色づけは、のちに付加し修正した歌や句の中にのみ存在している。
250の本歌の方は「野嶋の崎に」(ほかの部分も小異がある)で、「が」ではない。伊藤は例によってユニークな説を出しているが、なぜ一本の方は「の」ではなく「が」なのか、一言も説明していない。人麻呂は推敲して8首構成にするとき、「が」を「に」にかえたのだろうか。同じ地名なのに奇妙な事である。歌に適した地名にかえることなど平気だったらしい(ときには作り出したりする)。
2151、2152、2153、2154
多田全解、何もなし。一本の訳「野島の崎」。
阿蘇全歌講義、三回出る「野島~」をすべて「野島が崎」とよむ。つまり「之」「我」の区別せず。一本は伝承による変化とする。伊藤説とは違う。
新大系、何もなし。
和歌大系、何もなし。
新全集、何もなし。
全注、何もなし。阿蘇と同じく一本は伝承の変化とする。根拠は阿蘇より詳しい。
全訳注、多田と同じ。
集成、何もなし。
全集、多田と同じ。
注釈、250の「之」は多く「が」と読まれてきたが、「~()崎」というとき、集中の例は「乃」「能」等であり、「が」はこの歌の一本と3606(250一本の歌)だけなので、「の」と読む。一本の「が」は伝誦によるもの。
大系、250の訳「野島が崎」。本文は「の」と読む。つまり多田と逆。
私注、三つとも「ヌジマガサキ」と読む。つまり古くからの読み。説明なし。
佐佐木評釈、何もなし。
窪田評釈、三つとも「ノジマガサキ」。
全註釈、三つとも「ノジマガサキ」。一本の「我」によって250の「之」を「が」と読む。一本は伝誦による変化。
茂吉評釈、250の方、ヌシマノサキと読みながら訳は「野島が崎」。
金子評釈、三つとも「ヌジマガサキ」と読む。つまり古くからの読み。説明なし。
吉澤総釈、三つとも「ヌジマガサキ」。3606と250ではそれぞれ底本が違うのだろう。
全釈、三つとも「ヌジマガサキ」と読む。説明なし。
講義、三つとも「ヌシマガサキ」と読む。説明なし。
口訳、250、251「ぬしまがさき」と読んでいるが、訳はみな「ぬしまのさき」。
新考、三つとも「ヌジマガサキ」と読む。説明なし。
近藤註疏、250ヌシマノサキ、一本ヌシマガサキ、251ヌシマガサキ
古義、250、251ともにヌシマノサキ。一本読みを示さず。おそらく「が」と読む。
檜嬬手、250ヌシマガサキ、一本ヌジマガサキ、251ヌジマノサキ
攷證、250.一本ヌシマガサキ、251ヌジマガサキ
楢の杣、250.251ヌジマガサキ
略解、250.251ヌジマガサキ
槻落葉、250.251ヌシマノサキ
万葉考、251の「之」を「カ」と読む。他は読みを示さず。
童蒙抄、三つとも「ヌジマガサキ」と読む。
代精・代初、250ノシマカサキ。精、ノシマノサキと點じたる本もあれど、注の一本にも野島我埼とあれば今の點を叶へりとす、251はノシマノサキと読んでいる。
拾穂抄、250.251ノシマノサキ
仙覚抄、250ノシマカサキ。3606を証とす。
2155、
阪口保「兵庫篇」は「野島が崎」と読んでいるが、三つすべてなのか、「野島」はどう読むのか、分からないし、まして「が」の意味など全く触れない。
以上、250は、仙覚抄、代匠記によって、250一本を根拠に、「が」と読むとされた。251のほうを契沖は「の」と読んでいる、どうしてだろう。「之」というのが万葉では「の」「が」のどちらにも読まれ決め手がないようだからである。表意文字の宿命だ。また同じ作者が小異のある歌で、同じ地名を二通りに読むことはないという常識も働いていよう。それで、この説が長く支持され、251のほうも「が」と読まれた(野島を、ヌシマ、ヌジマ、ノシマ、ノジマのどれで読むかはしばらく措く)。拾穂抄、槻落葉、古義、茂吉評釈、が「の」と読むのは例外。それが大きく変わったのは、沢瀉『注釈』からである。「~が崎」という地名は集中では一本の「野島が崎」以外にはないので、250の「之」は「の」と読むべきだというのである。そんななかで阿蘇だけが、昔にもどったように、三つとも全部「野島が崎」と読むのは異様である。それにしても、一本で「が」とあるから、本歌の方の「之」は「が」と読むべきだというのは窮屈な考えである。人麻呂は地名を歌に合うように自由自在に読む。作り替えたり、新しく作ったりするのは人麻呂の作品にはよくある(だいたいその頃は固定した地名というものが、国名などの大地名を除き(表記はいろいろだが)、あまりない)。
だから、一本で「が」と詠んだのを、本歌で「の」にしたところで何もおかしくない。阿蘇のように、三つとも「が」にする方がおかしい。そうなると、沢瀉のいうように、本歌の「の」が正しくて、一本の「が」は伝承の間に変えられたもので、人麻呂の表現ではないとするのがいいのかどうか疑わしい。集中の例に従って「の」と詠まれたものが、いくら伝承と言ったからとて、唯一の例外となる「野島が崎」というように変わるものだろうか。おかしな話である。一本の方も明らかに人麻呂の表現であって、人麻呂は集中で普通の言い方を取らず「が」を使いながら、あとで普通の言い方の「の」に変えたのだと見るべきだろう。
2156、
250 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ
一本云 處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼爾 伊保里爲吾等者
252 荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを
一本云 白栲乃 藤江能浦爾 伊射利爲流
255 天離る鄙の長道ゆ恋ひ來れば明石の門より大和島見ゆ [一本云 家のあたり見ゆ]
256 笥飯の海の庭よくあらし刈薦の亂れて出づ見ゆ海人の釣船
一本云 武庫乃海 船爾波有之 伊射里爲流 海部乃釣船 浪上從所見
一本のあるのを見ていくと、私的な事情が多い。
2157、
敏馬が處女になっているのは確かに変だ。處女などという地名はどこから来たのか。敏馬が正解なのに、わざと音の似た處女にしたのか。野島の崎に船が近づいたのではなく、「野島が崎」で泊まるのだ、というのも、ちょっとふざけたというか、女がいる所を通りすぎて、こんなさびしい島で哀れな野宿か、といった印象がある。「が」は古風な荒々しい感じがするし、一部の人々にだけ通じるような特殊な印象もある。つまり私的な心情の表れだろう。人麻呂歌集にあった「弓月が岳」の「が」に通じる表現だ。252は荒栲が白栲になっている。荒栲は勇ましい漁師にふさわしいが、白栲では、みすぼらしくわびしい。鱸を釣るのも、具体的で男らしいが、「いざりする」では生業そのもので、現実に就きすぎる。これも私的な情感で詠んだものだろう。256は、京畿(大和島)という公的なものでなく、家のあたり、というのだから、私的である。256も、本歌の方は景気よく勇ましいが、一本は、相変わらず「いざりする」だし、乱れ出る、ではなくて、波の上に浮いているのが見える、だ。漁師という生業のつらさ、頼りなさも感じられる。これも一私人としての心情だろう。
結局、一本の「野島が崎」というのは、伝承の変化ではなく、始めから人麻呂が、歌にふさわしい地名として、「の」ではなく「が」にしたものだと言えよう。そちらの方を愛読した新羅使人のような人達もいたということだろう。人麻呂歌集のような形で読まれていたのだろうか。