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2068、2069で一旦纏めた「~が~」の地名について、2か月以上に渡って横道へ逸れてみたりしてきたが、結局新しく分かったことなどないに等しい。一日20分程度ではどうにもならないか。再掲すれば、 
藤井我原(52)、和射見我原(199)、おほやがはら(3378)、
由槻我高(1087)、弓月高(1088)、弓月我高(1816)、吉志美我高嶺(385)、青根我峯(1120)、
飛火賀※[山+鬼](をか)(1047)、
かほやがぬま(3416)、
野嶋我さき(3606)、野嶋我埼(250一本)、
田結我浦(366)、まつがうら(3552)、
むらじがいそ(4338)
の12例となる。
これを古いものから並べてみる。土屋文明萬葉集年表第二版による。

藤井我原(52)持統八年、作者未詳
和射見我原(199)持統十年、柿本人麻呂
野嶋我埼(250一本)文武年次未詳、柿本人麻呂
由槻我高(1087)年代未詳、柿本人麻呂歌集
弓月高(1088)年代未詳、柿本人麻呂歌集
弓月我高(1816)年代未詳、柿本人麻呂歌集
田結我浦(366)天平四年、笠金村
野嶋我さき(3606)年代未詳、天平8年の時の新羅使人が伝誦したもの。
飛火賀※[山+鬼](をか)(1047)天平十六年、田辺福麻呂
吉志美我高嶺(385)天平年次未詳、伝説歌
青根我峯(1120)年代未詳、作者未詳
むらじがいそ(4338)天平勝宝七歳、防人歌
おほやがはら(3378)年代未詳、東歌
かほやがぬま(3416)年代未詳、東歌
まつがうら(3552)年代未詳、東歌
東歌、防人歌、人麻呂歌集などは新旧の不明な部分もあるが、だいたいはこのような順序でいいだろう。15例では少ないが、そのうち6例が人麻呂以前(といっても弓月が岳が3例もあるが)。作者のわかるものでは、人麻呂、金村、福麻呂だけで、いずれも長歌の多い、いわゆる宮廷歌人と言われる作歌であり、最初の藤井が原にしても、人麻呂に似た宮廷歌人長歌のようである。金村、福麻呂は、人麻呂の「和射見が原」の影響だろうか。金村のは原ではなく、浦なので、海に関係のある、人麻呂の短歌の「野嶋が埼」の影響だろうか。福麻呂は、「我」が「賀」になっており、原でも浦でもない「飛火賀※[山+鬼]」で、「をか」は珍しいが、人麻呂の「弓月が岳」の影響だろうか。地形はいろいろ変わっても、「が」を使ったところは人麻呂の影響ではなかろうか。同じ宮廷歌人でも、赤人に「が」地名が一つもないのは異質である。人麻呂の影響が薄いのだろうか。
宮廷歌人以外では、東歌と防人歌が目立つ。4例だから人麻呂より多いとも言える。以前言ったように、やはり東国に古い言い方が残っているということだろう。それ以外では、吉志美我高嶺、青根我峯の作者未詳歌がある。どちらも万葉後期のようだ。そして、どちらも吉野の地名(吉志美我高嶺は架空の地名のようだが、吉野にふさわしいとも言える)で、古事記には数少ない「が」地名の「をむろが岳」がある。しでにそのころから、吉野は巨大な山岳地帯としてよく知られていて、奥深くて高い山としての属性が強く意識され、固有名詞としてはっきり「~が岳」「~が峰」と呼ばれていたのであろう。その点からは、人麻呂の「ゆつきが岳」も規模は遥かに小さいが、同じような命名意識があろう。多武峰音羽の山系は吉野の出店と言われている(奈良の植物研究者の間で)、巻向は、そこから谷一つ離れているが、なお影響はあるようだ。吉野の延長とも言える宇陀郡にも近い。大和高原になると集落も多く、全体に標高は高いが、大きな山もなく、さすがに吉野的な雰囲気はない。自然的に文化的に大和平野と伊賀盆地の中間。

15例と言ったが、今までも長々と調べてきたように、「之」を「が」と読めばもう少し増える。ただし大勢に影響はない(妹之島ぐらい)

ここでようやく本筋にもどるのだが、巻1-25の「耳我嶺」は通説では「みみがのみね」だが、これを「みみがみね」と読めないかと言うことである。これも吉野にある山であり、しかも人麻呂の時代の長歌である。「~が~」という地名の可能性はある。ただし或本歌26の「耳我山」は、「みみがのやま」だろうと思う。或本というのが、かなりあとの時代の転訛のものを載せているとすれば、まず、6音を7音にして読みやすくするだろう。「みね」を「やま」にしているが、それは、具体的な山がわからなくなり、意味も不明になってって「耳」ではなく「みみが」という山だと勘違いし、「みね」ではなく「やま」という広がりのある漠然とした名前にしたのだろう。また、「~がみね」は例があるが、「~がやま」は集中に例がない。山地全体を示す「山」に、狭い範囲の固有名詞に使われる「が」は適さないのである(現在はあることはあるが、やはり少なくて珍しい)。

吉野の山にも、「~の」は普通にある。
吉野の山、三船の山、象山、水分山、高城の山、宇治間山、去来見の山、御金の嶽、吉野の嶽、今城岳(いまきのおか)
吉野の山というのは、特定の山ではなく、大淀町吉野町あたりの吉野川沿いの低い山々であろう。三船の山、象山は宮瀧から見られる普通の山。水分山、高城の山は、現在の吉野山の中の千本あたりで、長い尾根のちょっとした出っ張りに過ぎず、どこともいえないようなものだ。宇治間山は所在未詳だが、吉野町上市あたりと思われる。これもほとんど山とも言えない、丘陵性のものだろう。去来見の山は、現在の高見山とすると、1248mあり、大峰あたりの山からみたら低いが、東吉野の木津(こつ)峠で見たら、非常に角度のある秀麗な山で、マッタ-ホルンのようだといわれている。吉野川沿いの下流で、岡の上で見晴らしの良いところだと(大淀町檜垣本の公民館など)非常に鮮やかに見える。「いざみがだけ」とか「いざみがみね」と呼ばれてもいいようなものだが、前衛の山が無く、浅い。孤立している。南方には、1400mを越えるような山があるが、そこまでの稜線がなだらかで少し離れる。それに、頂上のすぐ南を高見峠(紀勢間の大動脈、宣長も通っている)が越えていて(今はトンネル)人間くさい。「~がだけ」と呼ばれるような量感が乏しい。
御金の嶽(吉野の嶽)は問題だ。「だけ」と言われるからには、山全体ではなく、大きな山地のやや奥まったところにある高く突き出た山(峰)という印象で、吉野なら、当然「~がだけ」とあってほしいところ。平安時代に、「かねのみたけ」とか「金峰山」とかよばれたのと同じだとすると、だいたい現在の大峰山、つまり、中心部の山上が岳とその周辺の、大天井が岳、稲村が岳、行者還岳などを含む山地であろう(もっと大きくすると、吉野山から玉置山まで)。つまり「大峰の山」だから、「御金の山(金峰山)」とあるべきだが、まだ、その中のいろんな岳が知られていなかったとすれば、吉野群山全体の中の一つの目立つ山岳として、「御金の山」ではなく「御金の岳」となったのであろう。それでいて、「~が岳」のように「が」でいうほどの単独の高峰とも言えない。ちょっと中途半端な命名である。実際の大峰山を見たこともなく、登ったこともない人には、多くの岳(高峰)を持った山ということが分からず、単独の大きな岳と思われていたのかも知れない。御金の岳(噂に聞く程度)→大峰山(広く登られ、修験道の山として身近になった時代)。
最後の今城岳(いまきのおか)は大淀町今木あたりとされるが、ただの低山地だ。