2238、2239

2238、
地名の「之」を「が」と読むのは、手結之浦の「之」を「の」と読めば、結局、7-1199の「妹之島」だけとなるが、これも、「の」と読むべきだろうとは、2197~2199で述べた。ただし、すべての注釈書が「が」と読んでいるが。
ということで、地名を「~が~」と読む場合は、すべて「我」で表記している。人麻呂の周辺で多かったが、それ以外で、つまり第3期以降では、金村の「手結我浦」だけとなる。これは、あきらかに、人麻呂の語句の継承と言えるだろう。金村は、文芸生の勝った作品を作り時代の先端を行ったが(風景の趣を独立して歌の題材とすることと極度に技巧を喜んだこと)(窪田評釈)、こういう人麻呂的な古風な表記もうまく活用している。

2239、
3-249    柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首
   三津埼 浪矣恐 隱江乃 舟公宣奴嶋爾
250  珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼爾 舟近著奴
   一本云 處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼爾 伊保里爲吾等者
251  粟路之 野嶋之前乃 濱風爾 妹之結 紐吹返
252  荒栲 藤江之浦爾 鈴木釣 泉郎跡香將見 旅去吾乎
   一本云 白栲乃 藤江能浦爾 伊射利爲流
253  稻日野毛 去過勝爾 思有者 心戀敷 可古能嶋所見 [一云 湖見]
254  留火之 明大門爾 入日哉 榜將別 家當不見
255  天離 夷之長道從 戀來者 自明門 倭嶋所見 [一本云 家門當見由]
256  飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 亂出所見 海人釣船

3-364    笠朝臣金村塩津山作歌二首
   大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後將見人者 語繼金
365  塩津山 打越去者 我乘有 馬曾爪突 家戀良霜
366    角鹿津乘船時笠朝臣金村作歌一首并短歌
〔歌略〕
367    反歌
   越海乃 手結之浦矣 客爲而 見者乏見 日本思櫃
368    石上大夫歌一首
   大船二 眞梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻爲鴨
369    和歌一首
   物部乃 臣之壯士者 大王之 任乃隨意 聞跡云物曾
右作者未審 但笠朝臣金村之歌中出也
8-1532    笠朝臣金村伊香山作歌二首
   草枕 客行人毛 徃觸者 爾保比奴倍久毛 開流芽子香聞
1533 伊香山 野邊爾開有 芽子見者 公之家有 尾花之所念

こうしてみると、妙に、人麻呂と金村の羈旅歌に似た所がある。金村の長反歌を一首ずつとすれば、どちらも八首。金村の長歌も短歌を少し長くした程度。どちらも、長い旅行のある地点に集中している。人麻呂は明石海峡周辺、金村は、江越国境周辺。前者は畿内から西国への境界、後者は準畿内から北陸への境界。また、山崎馨氏が言われていたが、金村は長歌が多いのに、越路歌群は大方短歌で、長歌も普通二首なのに、ここでは一首。人麻呂も、だいたい長歌が多いのに、この歌群はすべて短歌。やはり、金村は、人麻呂の羈旅歌をあるていど標本にしたのではないだろうか。共通する語句も少しある。
人麻呂、252、旅去吾乎 金村、1532、客行人毛
    255、倭嶋所見    366、日本嶋根乎
    252、鈴木釣 泉郎   366、未通女 塩燒炎
ただし、これらも、人麻呂は自分のこととして言い(但し、256の海人釣船は自分のことではないが)、金村は想像したことや他人のこととして言う。やはり金村は散文的になっている。なお、同じ地名を、「~の~」「~が~」と二通に呼んだのも共通している。
勿論というべきか、全体に違う所も目立つ。人麻呂は、一貫して瀬戸内海の船旅であり、金村は山道と海路とが混じっている。人麻呂のは旅程と歌の配列とが一致しない(往復が混淆)。金村は、全部纏まっているわけではないが、塩津から敦賀へと向かっているようだ。ただし、塩津山と伊香山とは同一の北陸道上にあるとは言いにくい。塩津からは敦賀へ抜けるのが順路で、伊香山へ行くのはかなりの迂回路。このあたりは、人麻呂に淡路島の慶野あたりの歌があるのと似ている。慶野は明石海峡とその周辺とからは大きく外れている。また、ますらお意識が金村には強い。萩に目を付けるのも、天平期の金村らしい。
人麻呂のは、短歌だけで仕上げというほどのがないが、金村は、最後の敦賀長歌で締めくくっている。ほぼ完全に大和から離れるというので、やや力がこもったのであろう。人麻呂にも、明石海峡を出て大和が見えなくなるというのがある。望郷感はどちらも同程度だろう。人麻呂は、これからもまだまだ船旅は続くという余韻がある(明石海峡につくまでに1日以上の船旅を経ている)。また瀬戸内の方が北陸より違和感が少なく、また旅慣れることもはやかったのだろうか。金村は、なかなか旅慣れることができず、敦賀湾まで来ても、大和を想起するのと旅情とが一体化している。大和に生活の基盤があることがはっきりしているが、人麻呂は旅そのものが人生とも言える。

金村を論じるつもりはなかったのに、ずいぶん横道へ逸れた。最初の目論見は、「が」を使う地名がなぜ、人麻呂以降では金村にあらわれるのかを考えることだった。結局、金村は人麻呂の影響がかなりあったという通説を確認しただけのようでもある。そして、金村の場合も、「手結が浦」は、散文的、固有名詞的、で古風であり、「手結の浦」は反歌を抒情的にし、天平風の歌にする効果があったと言えよう。長歌反歌で傾向の違う物を組み合わせるという山崎説の確認にもなる。人麻呂のは、短歌は抒情性の強いものだが、250の一本で「野嶋が埼」と、「が」になったのは、どういうことだろうか。人麻呂は巻一、二あたりの長歌では「が」を使っているから、その叙事性が出たのだろうか。稿本の段階でそうだったのを、抒情的な羈旅歌群にするために「の」に代えたのだろうか。また、250の本歌では「いおりす」が消えて「近づきぬ」となっている。「が」では音感が荒い(抒情味が薄れる)ので、「の」にしたとも言える。