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大浦誠士、羈旅歌の成立―人麻呂羈旅歌八首をめぐって― 『上代文学」78 一九九七年四月
   六 むすび
 羈旅歌八首の表現の分析を通して、旅がいかに形を与えられたかを見てきた。七世紀後半の歴史状況は、新たな律令官人の旅の状況を生み出すとともに、新しい地名意識をも生み出した。そのような地名を意識化し、その機能を方法化する中で、「旅ゆくこと」を主題として浮上させ、旅を動態として描く羈旅歌の表現が成立してくるのである。
明石海峡は当時畿内とそれ以外の国との境界として強く意識されていて、それが、敏馬→野島、という地名の表現性から読み取れるという。一首に地名が二つ詠まれるのも動態としての旅を表現している。
このいうなことが詳しく論じられている。畿内意識の強化という点では、大津透氏の一連の論考が想起される。ところで、羈旅歌の成立というなら、人麻呂以前の黒人などもある。また私が少し論じたように人麻呂を継ぐ者としての金村の越路の歌も問題だろう。そう言うことが一言も論じられていない。また人麻呂のにしても、一本の問題、「野島の埼」と「野島が埼」のことなど、全く触れられていない。短い論文でなにもかも論じるのは無理だが、それにしても物足りない。なお、私の言ったことには、大浦氏の共通したものも少しある。大浦氏のこの論文はかなり以前に読んで、印象に残ったから、忘れたようでも影響したのかも知れない。

大浦誠士、羈旅歌八首 セミナー万葉の歌人と作品第二巻、1999.9.30
上の論文とほとんど同じものを中に置いて、前に一首目の難訓歌の説を点検して少し意見を述べ、あとのほうに、現地に向かう心情と家郷に向かう心情とを、神野志阿蘇などの論文を敷延して、少し修正した意見を出したもので、このシリーズの欠点をよく現している。少し修正した論文集の寄せ集めということで、論文としての集中度にかける。また普遍性や啓蒙性もない。まさしくセミナーであり、雑文集だ。

結局羈旅歌としての、金村越路歌群については、なんら収穫が無く、「の」「が」の地名についても全く研究されていないことが分かったと言うことである。