1890
前の長短歌は皇子の宮殿がどこにあったか言わず、城上を経過して石村に葬ったというのに対して、 こっちは、城上宮にいて、そこに殯宮を作って葬ったとあり(城上宮そのものが殯宮だという説もあるが)、城上宮という場所以外は出てこない。だから、同じ皇子の一連の挽歌とはとうてい言えない。汎用性のある挽歌というのも、阿蘇が批判したように、3326などは挽歌の形を取っていない。挽歌の一部を習作的に作ってみたという程度。それに汎用というには、地名が特殊で、3324、3325などは或る特定の皇子の挽歌を人麻呂挽歌を下敷きにして作ったとしか思えない。だから3326も人麻呂の草壁挽歌を下敷きにしながら、十分な挽歌に仕立て上げられなかったものだろう。有名歌人よりは作歌力の劣った人達の作品だろう。曾倉氏の言うような文芸としての創作だと言うには普遍的な形象に乏しい。万葉には無名作家の短歌がたくさんあるが、そういう人達が力不足ながらに、長歌も作ったのだろうか。