万葉巻13、3326番、城上宮爾

1884~1889
○3326 礒城嶋之 日本國爾 何方 御念食可 津禮毛無 城上宮爾 大殿乎 都可倍奉而 殿隱 々座者 朝者 召而使 夕者 召而使 遣之 舍人之子等者 行鳥之 群而待 有雖待 不召賜者 劔刀 磨之心乎 天雲爾 念散之 展轉 土打哭杼母 飽不足可聞
礒城島の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へまつりて 殿隱り 隱りいませば 朝には 召して使ひ 夕には 召して使ひ 使はしし 舍人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば 剣大刀 磨ぎし心を 天雲に 思ひはぶらし 臥いまろび ひづち哭けども 飽き足らぬかも
前の長反歌によく似たもので、前のが高市皇子挽歌に似ているとすれば、こっちは草壁皇子の舎人挽歌に似ている。これだと、城上宮は殯宮となるが、そういうものを~宮とか大殿とかいっていいものか気になる。草壁のでは、「みあらか」「とこつみかど」と言っていた。

管見、殯宮ノ心をいへる也。
拾穂抄、此哥も前と同時にやいつれにても歟 大とのを… 廟を仕りてと也
代精・代初、城上宮の語注なし。
童蒙抄、城上宮 前に注せる如く墓の上の宮也。廟殿を造りて也。
万葉考、城上宮爾、(卷二)の挽歌に、高市皇子尊城上殯宮、とあれば、此うたは同尊の殯宮の時、舍人の中によみたるなり、大殿乎、都可倍奉而、陵を造仕奉なり、
略解、考の丸写し。
古義、大殿乎都可倍奉而は、殯(ノ)宮を造り仕(ヘ)奉りて、といふなり、(略解に、陵を造ることゝせるは、いみじきひがことなり。他は考と同じ。

○新考、高市皇子の挽歌。
口訳、大殿を墓として訳す。
全釈、高市皇子の挽歌。城上宮は殯宮。大殿を墓とする。
齋藤総釈、全釈と同じ。

○全註釈、城上に殯宮を作るというだけで、他は何も言わない。

○窪田評釈、○つれもなき城上の宮に 無関係な城上の宮に。城上は草壁皇子高市皇子などの墓のある地。「宮」は、皇子のいられる所として尊んでいうので、地の意。「大殿」は、ここは殯宮。殯宮の儀… 、草壁皇子高市皇子の際のものであろう。
佐佐木評釈、高市皇子尊の城上の殯宮の時の歌と推定…。大殿を殯宮と訳す。
私注、キノヘは広陵町説でも、墓側の宮でもよい。前の長歌と同じ作意。
大系、城上宮は広陵町か。他は特になし。
注釈、城上宮は広陵町。他は特になし。
全集、特になし。
集成、特になし。
全訳注、特になし。
曾倉全注、城上の宮は高市皇子あるいはその妃で長屋王の母である御名部皇女から長屋王に伝領されたと…。このような宮に無縁の皇子の殯宮の営まれることは、事実の問題としてはあり得ないと思われる。人麻呂よりかなり後の、したがって城上の宮のあり方などもよく知らない歌人が人麻呂挽歌の句を利用して「つれも無き城上の宮に」の句を安易に作ったと考えるべきであろう。 本来の場を離れた挽歌は一般的な悲哀を訴えるものとして歌われ、言わば文学として享受されたのであろう。
全注以外は極めて簡単なもので、窪田などはとんでもない誤謬を犯している。全注はこの一連の挽歌についての独立論文もあるほどで、長くて詳しい。前の長歌と共に、キノヘを明日香とするか、広陵町とするかあいまいであったが、ここで長屋王の伝領説をだしているということは、明らかに広陵町説なのだろう。作の地理があいまいなのか全注の地理があいまいなのか明瞭でないが。

○新全集、特になし。
釈注、特になし。
和歌大系、特になし。各説(歌の主題)の紹介はよくまとまっている。
新大系、特になし。
阿蘇全歌講義、城上宮、広陵町。挽歌としては不備。後半が切れて残ったものか。
多田全解、城上宮の宮は大殿と同じで殯宮のこと。他は特になし。
全体にそっけない。もう少し想像力で補ったらいいのに。