2318、わざみ

2318、わざみ
わざみの嶺
10-2348
わざみ野
11-2722
わざみが原
2-199
いざみの山の「い」が「わ」に置き換わったような地名で、これまた一応関ヶ原のあたりという通説はあるが、具体的に今のどこかという比定の問題になると不明と言うしかないほど難解だ。いざみの山は、普通名詞の山を導く序詞の一部だと言ったが、わざみの場合はどうもそうはいかないようで、固有名詞とするしかないようだが、それにしても「嶺」「野」「原」という三つの地形についており、有名な人麻呂の長歌にもあって、難解ながら、興味を引く。これは「そがひ」「いざみの山」のように、私見を出すというのはちょっと期待できない。
2-199、柿本人麻呂
…我ご大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして…

上田秋成、膽大小心録、中央公論社の全集第9巻230頁、156の大友皇子のところに出る。「わさみか原とは、今云関か原なり。天下の定めは必こゝに、とう万伎か詠し哥あり。」とあるだけで、証拠は出していない。
伴信友、長等の山風 附録一 壬申紀証註、「日本思想大系50、平田篤胤伴信友・大國隆正」377頁より。
美濃国(ノ)人云々、「和※[斬/足](ガ)原は今の不破(ノ)郡青野(ガ)原なりと云ひ伝ふ。」といへり。
これだけである。これ以外の論証らしいものはなにもない。解説で関晃氏も言われるように、証拠能力のランク付けが貧弱だ。

註釋、美濃國。
万葉代匠記精、天武紀上…。不破郡なるべし
童蒙抄、美濃國の地名也。日本紀巻第廿八大友皇子と…
考、不破郡にあり、
略解、不破郡なり。…和蹔に皇子のおはしまして、近江の敵をおさへ、天皇は野上の行宮におはしましつるを、其野上よりわざみへ度度幸して、御軍の事聞しめしたる事紀に見ゆ。
攷證、不破部なるべし。書紀…、高市皇子自2和※[斬/足]《ワサミ》1參迎云々とあるこゝ也。こは、天皇の、わざみが原の行宮へ、幸し…
古義、不破郡|和※[斬/足]野の原なり、2348の語釈で、「不破(ノ)郡にあり」
檜嬬手、各務郡也。式に美濃國各務郡和佐美神社有り。
安藤新考、不破郡
註疏、各務郡なるべし。神名式に美濃國各務郡に和佐美神社あり
美夫君志、不破郡なるべし。
新考、上田秋成の膽大小心録に「美濃國わざみが原とは今いふ關が原也」と云へり
折口辞典、関ケ原邊の地であらう。
新講、関ケ原
講義、青野ケ原なりといふ説のみ取りうべきを思ふ。この説は長等の山風に美濃國人の説なりといふ。青野ケ原は野上よりは東方にありて、まことに兵を練るに適する地なり。
全釈、關ケ原の舊名。地理については伊勢から不破山を越えて美濃に入ったと言っている。
土屋總釈、関ケ原に近い青野原であろう。同じ土屋の私注とは違う。
精考、關ヶ原のあたりだといふ事である。
金子評釈、關が原の古名。…その南邊の山は所謂和射見嶺である。松尾山これに當るか。
茂吉、柿本人麻呂、青野ケ原説有力である。
窪田評釈、『講義』は、『長等の山風』…、今の青野が原(赤坂町青野)であろうといっている。また、不破郡関が原町関が原の説もある。
全註釈、今の青野が原附近であろうという。(地理の矛盾について)ここは不破山のあなたにの意にかように言つている。
佐佐木評釈、關が原の地(膽大小心録)とも野上(略解)ともいはれる。
私注、関ヶ原
古典大系岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原
注釈、関ヶ原。各種注釈の中では引用が一番詳しい。行程の矛盾については、作者は道順など詳しく考えず、音に聞こえた不破山を持ち出して、その山越えてと言ったのだろうとする。これまた穏当な説である。
古典全集、野上。付録では不破郡関ケ原町関ケ原とある。頭注と矛盾している。
集成、関ヶ原
全訳注原文付、関が原。
稲岡全注、私注の関ヶ原町野上説支持(和歌文学大系と同じ)。地理の矛盾は当時書紀以外にあった道順の説明に由ったのだろうとする。
新編古典全集、岐阜県不破郡関ヶ原関ヶ原の野。不和山越えの矛盾を指摘。
釈注、関ヶ原説と大垣市青野ヶ原説とあるが、…前者が適当。
和歌文学大系、関が原町野上のあたりか。
新大系岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原.書紀・天武元年6月…「和暫」と書かれる.
全歌講義、岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原。不破山を越えて和射見が原に出るのは事実に合わないが、虚構として許されたのだろうという。
全解、○和射見が原-関ヶ原。○行宮-天武の本営は実際には和射見の東約二キロの野上にあった。

最近のになると、ほぼ関ヶ原説に絞られており、一説として、野上説、青野が原説に言及される程度である。
関ヶ原説(秋成)、全解、全歌講義、新大系、釈注、新編全集、全訳注、集成、古典全集附録、注釈、古典大系、私注、金子評釈、精考、全釈、新講、折口辞典、新考、
野上説、和歌文学大系、稲岡全注、古典全集頭注、
青野が原(長等の山風)、全註釈、茂吉柿本人麻呂、土屋総釈、講義、       
関ヶ原、野上を出し態度保留、佐佐木評釈、
関ヶ原、青野が原を出し態度保留、窪田評釈、
稲岡氏が野上説なのはよく分からない。青野が原説は、武田、斎藤、山田といった有力な注釈書が支持しているのは気になるが、特に根拠を示すわけでもない。伴信友という名前を信じたのだろうか。信友は非常に詳しいように見えるが(本編と附録を読み通すだけでうんざりする)、資料批判が弱いし、美濃の人が言っているからでは、江戸期のいい加減な地誌類とかわりない。最近ので、関ヶ原説一本になったのは、関ヶ原は天武の居た野上行宮より西の方で、近江方を迎え撃つ最前線になるが、青野が原では、野上行宮よりはるかに東方で、近江軍への防衛に役立たない(天武の居る野上行宮が手薄になる)といったことが根拠らしい。

直木孝次郎「壬申の乱 増補版」、わざみが原は関ヶ原というのが通説とし、野上行宮あとの考証や、軍陣の配置の説明など、さすがに詳しい。青野ヶ原説など見向きもされない。
歴史の旅 壬申の乱を歩く、倉本一宏、吉川弘文館、2007.7.1
だいたい題名からして啓蒙書であるが、わざみが原については、単に関ヶ原というだけで、異説の紹介もそれとの比較検討も、また万葉集の歌における地理的な表現の仕方にも何一つ触れることが無く、簡単すぎる。そのぶん、写真と地図が大量に挿入されているが、残念ながらほとんど参考にならない。地図は、現在の地形図をそのまま使っているから、宅地、工場、新幹線や高速道路などが所狭しと記入され、古代の地形も分かりにくい。自分で地図を見れば分かることだが、関ヶ原(いわゆるわざみ)から天武の行宮のあった野上まで約三キロで、関ヶ原は一キロ四方の盆地だという。山の崎が出たり入ったりしているから、はっきりしないが、ちょっと狭すぎる。1.5キロ四方はあるだろう。それにしても狭い。天武側の本隊とも言える高市軍が駐屯し訓練するには窮屈だろう。それにたいして、野上の東方3キロほどの青野ヶ原は、垂井町大垣市にまたがる広やかな田園地帯で、濃尾平野の北西部を構成するほどだから、まさしく原であり、高市軍の駐屯地としては適している。野上は南北の山が迫っており、大軍の駐屯には不適であり、稲岡氏などのわざみが原野上説は認めがたい。一寸した谷間だから、天武行宮の守りは、天武直属の精鋭部隊で十分だろう。いざとなれば青野ヶ原へ退却すればよい。近江方への最前線になるのはおかしいと言うが、関ヶ原よりなお狭い、不破山の道は、すでに、多品治によって閉塞され支配下にあるのだから、そう簡単に近江軍が越えてくるわけでもなく、野上からはせいぜい5キロか6キロだから、異変があればすぐに情報が入る。常時本隊の高市軍を狭い関ヶ原(いわゆるわざみ)に駐屯させる意味はないと思われる。野上は伊勢(東海道)方面、東山道方面の情報が集まる垂井(美濃国府があった)にちかく、天武の本営にはぴったりであり、青野ヶ原はその後背地を支えるだけの便宜を持っていたであろう。美濃国分寺もある。というわけで、わたしは、和※[斬/足]が原は、通説の関ヶ原説よりも、伴信友の言い出した青野ヶ原説のほうが優っていると見たい。

岩波古典大系日本書紀下」の「巻第二十八(通称壬申紀)」から参考事項を摘記。
和※[斬/足]という地名はかなり出る。頭注では簡単に関ヶ原とするが、確かにそうと言える根拠はない。不破というのも何度か出るが、特定の地域をさすというより、不破郡全体をさす大地名と言える。野上行宮を不破行宮とも言うし、高市皇子を不破にやったというのも、不破郡に遣ったということのようだ。村国男依が不破山の道(この場合は特定の道を意味している)を閉塞したのは3000人の兵であった。これでもう、近江美濃国境から、関ヶ原一帯は十分閉塞できるのだろう。高市皇子などの本隊が近江への総攻撃をかけたときは10万人とあるから、全部が同じ場所に居たとは限らないとしても、やはり関ヶ原では狭すぎるだろう。青野ヶ原は、野上行宮の東方で、近江への前線ではないと言うが、だいたい当時の高市皇子はまだ19才で、その後も前線で活躍した話は出てこないから、天武天皇の前方に居る必要はなく、後方で、軍隊の訓練や作戦などに励むのでいいだろう。実際の前線での軍事行動などは、もっと有能な人物があたったようだ。
6月26日、朝明郡家につく頃、村国男依、美濃の兵三千人で不破の道を塞いだと報告。
高市皇子を不破に派遣して軍事を監察させる。→この不破は特定の地域(関ヶ原とか)ではなく、不破郡といった大地名だろう。朝明からでは遠い。
27日、高市皇子桑名郡家の天武に近いところに来て欲しいと要請。不破に入る。    →この不破も大地名だろう。途中不破郡家(垂井町野上)に寄っているか    ら、関ヶ原の別名が不破なら、かなりの迂回になる。
野上(不破郡家から北西1キロ程)につくと、高市皇子が和※[斬/足]から来て迎えた。昨夜近江からの急使を捕まえたと報告。→和※[斬/足]から、野上の隘路を見張っていたのだろう。東山道へいくものは必ずそこを通る。
天武が軍議の不安をいうと、高市皇子が諸将を率いて征討するから大丈夫だという。→頭注ではこのとき最年長皇子の高市でさえ十九歳と推定。
天武、軍事の一再を高市に授ける。
      天武、行宮を野上に作る。
  28日、天武、和※[斬/足]に行き、軍事を見る。
29日、天武、和※[斬/足]に行き、高市に軍隊への号令をさせる。→高市に軍    事を委ねたとは言っても、やはり天武が指揮したのだろう。
7月2日、天皇、村国男依…に数万の兵で不破から直接近江に入らせる。→明らかに高市     の指示ではないし、(鈴鹿、伊賀、方面に対して)不破からというのだから、     関ヶ原でも青野ヶ原でもよいが、数万とあるから、関ヶ原に駐屯していた兵だ     けでは無理だ。
          近江方、不破を襲うために犬上川のあたりに陣地を置く。
男依が大将となって、息長の横河、鳥籠の山、安の河、栗太、と勝ち戦を続け瀬田に至る。男依ら近江の将を粟津市に斬る。
26日、将軍等が不破宮に参上した。不破宮というのは野上行宮のこと。
8月25日、高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状をいわせる。→やはり高市は事務だ。
9月8日、帰途に就き桑名に宿る。あと、鈴鹿(9日)、阿閉(10日)、名張(11日)、飛鳥(12日)へと、逆コースをたどる(宇陀からは吉野ではなく初瀬経由で飛鳥に向かった、当然だ)。                                      (以下続く)