2319、わざみ2

2319、わざみ2
西郷信綱、万葉私記。
高市挽歌の構造論といったところ。例の男の挽歌の系統という観点を堅持し、実際の乱の伝承、舎人集団としての立場、漢籍の影響、伝統的な儀礼歌(誄)の要素、などが融合した人麻呂特有の叙事詩風の長歌となったという。融合はいいけれども、あらためて高市挽歌を読んでみると、事実に合わない事が多すぎる。漢籍の部分も実際の壬申の乱の戦闘の事実とはあっていないようだし、神話の部分のちぐはぐさは西郷も認めている。地理も支離滅裂だが、これについては西郷は何も言わない。こんな歌は、壬申の乱の経験者が読んだら、幾ら空虚な儀礼歌的な部分と言われても、違和感が強いのではないか(文学性を阻害する欠点ともいえよう)。
そうはいっても、実戦で活動した人達は、自分の戦線以外のことはほとんど知らなかったのかも知れない。それなら主人公高市皇子の居た美濃の様子などは、高市の舎人達や、村国男依の軍にいた経験者に取材するべきだろうが、そこも書紀の記事とは合わない。あるいは書紀以外に、人麻呂の歌ったような事実が伝えられていたのか。それにしても違いがひどすぎる。こういうのを融合というのなら、虚構の作品としての融合として、もう少し壬申の乱の軍記的な要素を説明するべきだと思うが、何も言わないでとおりすぎてしまう(全体の分量としても簡単だが)。

村田正博、高市皇子挽歌、万葉集を学ぶ第二集、1977.12.15
作品としての價値への、土屋の疑問を紹介したあと、名作だという評価も紹介し、著者は後者に与して、挽歌詩人人麻呂の秀作として、この挽歌の構造をあかそうとする。その点、西郷と似た観点でもあるが、著者は、おもに歌としての表現技巧を取り上げ、高市皇子や人麻呂の足ることを知る謙虚な人格まで描いた傑作だとする。
著者の言うように、文脈や論理に未完成で曖昧な部分があることは、清水、橋本などの論文で知られているが、著者は、完成度の高い構造で十分に検算にに耐えるという。そこから、この挽歌の、事実とは思えないような表現も事実だとみようとする傾向は出て来る。たとえば、天武は野上行宮に行ったのに、歌では、和※[斬/足]行宮とあるのを、異を立てる必要はないといって一蹴している。
人麻呂の演練への努力を高く評価しているが、それを、高市の死に対する真率な悲しみによるとするのは、どうであろうか。事実ではないことによる頌讃というのは、けっきょく諂いであり、かつて言われた、御用詩人としての努力と言うことになろう。そういうものは本当の文学としては欠点であろう。「高市挽歌は、挽歌詩人人麻呂の慟哭によって生み落された絶唱として、はかりしれぬ重みをもつ」とまでいうのはどうかと思う。西郷の言うように、いろんな材料のつぎはぎであった。それの継ぎ目が隠れる程には熟していないし、事実でないことを忘れさせる程に、劇的な虚構が施されているわけでもない。一応辻褄は合っているのだが(歌の技巧は確かだ)、まだ壬申の功臣が沢山いた頃の作品としては、あまりにも嘘っぽいので、感動が空々しくなるということだ。つまり通用したのは、当時だけで、書紀などを普通に読める我々には、そんな虚構は通用しないということ。大学院生のころの原稿らしいが、感情移入と指導教官(伊藤博)へのすりよりが強すぎるようである。

清水克彦、柿本人麻呂――作品研究――、風間書房、1965.10.15、の「殯宮挽歌」の二。
「この挽歌もまた、宮廷儀礼歌の一つとして、天皇や宮廷を讃美する事を主眼としていた。そのために、挽歌の対象である高市皇子に、完全には焦点を絞る事が出来なかった。」と結論する。壬申の乱後の舎人の心情として当然だということのようだが、それは理解できる。また歌の中で、あくまで天武が主役で、高市は脇役にしか過ぎないというのは、事実をありのままに描写したからだというのだが、主役脇役はともかく、長歌全体の筋も事実のように言っていられるようだが、そこがひっかかる。天武の行動としても、例の、不破山越えて、とか、和※[斬/足]が原に天降った、とかいうのは、天武の神性ををあらわしたのはいいとしても、地理的に矛盾しているわけだが、なぜ人麻呂はそこで事実に合わない表現をしたのかが問われるだろう。それについては触れていない。

伊藤左千夫萬葉集新釋、の「柿本人麿論」より。
予が人麿の歌に對する不滿の要點を云へば、 
 (一)文彩餘りあつて質是れに伴はざるもの多き事 
 (二)言語の働きが往々内容に一致せざる事 
 (三)内容の自然的發現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風ある事 
 (四)技巧的作爲に往々匠氣を認め得ること 
これは、左千夫の人麻呂評として著名なものだ。近江荒都歌を批判した中に出て来る。徹底的に批判していて、左千夫らしく爽快だ。あと、吉野讃歌、安騎野の歌、でおわり、残念ながら高市挽歌などの挽歌類は全部略されている。なお、近江荒都歌でひどく貶した左千夫が、吉野讃歌を褒めちぎっているのもよく知られている。こちらのほうは、文彩や形式が、全体の調和を保つのに効果的で、凡句がかえってよい働きをするという。所謂声調というもので、配分が絶妙なのだという。このあたり、村田正博氏のいわれた構造の妙というのとよく似ている。
それはともかく、近江荒都歌で左千夫の抱いた不満は、高市挽歌にもかなり当てはまるようだ。地理的な矛盾というのは、(二)に当てはまるだろう。事実を無視した表現は四項目のいずれにも当てはまるだろう。(四)で言う、匠気というものも誇張した表現(事実ではないこと)に感じられる。しかし大長編にも拘わらず、緩急の妙というのがあり、読んで飽きないのは、左千夫が吉野讃歌を絶唱、傑作といい、村田氏が高市挽歌を構慥の巧みさで名作と言われたのに通じるところもある。なんとなく、近松の戯曲を長歌にしたように感じる。

齋藤茂吉の『柿本人麿』から、長谷川如是閑の人麿御用詩人説。
長谷川如是閑氏云。『人麿の方は全く空疎な漢文的誇張で、技巧としても低劣であるが、當時にあつては、漢文の誇張を邦語に寫すこと自體が一つの技巧であつたかも知れない。然し兩者の態度の何づれが、萬葉的であるかといへば無論後者(防人等の歌)であらねばならぬ。人麿の態度は、萬葉的であるよりは、「國史的」である。彼れが「歌聖」などと云はれたのは、かうした態度や、淺薄な、概念的な、然し幽玄らしく見える、かの有名な、「武士の八十氏河のあじろ木にただよふ波の行衛知らずも」式の態度で、環境も體驗もなしに、自由自在にいかなる歌をも詠み得る技術と、要するに、萬葉時代の人々の最も短所とするところを、長所として發揮したこと、そしてその技巧が後世の職業歌人の何人にも勝つてゐたことなどから來たものであらう』。(萬葉集に於ける自然主義。改造、昭和八年一月)『人麿歌聖論も一種の感情論で、しかも甚だ藝術的のそれに遠い感情ではなからうか。それは古今《こきん》以來の貴族生活に於ける、典型化した感情の形式を、盲目的に傳承せしめた階級的教化の奴隷となつた人々の感情ではないだらうかと思はれる』。『人麿の長歌は、いつも實感に乏しいので、單純な感覺を技巧的に表現する場合にも、當時の社會人の感覺からは隔りのある、舶來の支那的感覺を盛らうとする』。『人麿の歌は、此の二つの歌との對比によつて、甚しく御用詩人的淺薄性を鮮明にさせられ、又無内容の修辭家たる本色を暴露させられてゐる』。『私の意圖は、專門歌人の間に人麿の尊重されることは、藝術の本質から見て、墮落であるといふことをいひたかつたのである』。(御用詩人柿本人麿。短歌研究、昭和八年三月)。
これ以外にも附録として長々としつこく長谷川氏を批判している。

齋藤茂吉、柿本人麿、の高市皇子殯宮挽歌の評釈。齋藤茂吉全集 第十六卷、柿本人麿二、
評釋篇卷之上
これ以上ないというほどの長大な評釈で、要点を抜き出すのもやっかいだが、一応次の2箇所を抜いておく。

單に事柄本位の叙事詩的見地からすれば、人麿のこの長歌より複雜なものは支那文學などにも幾らもあるが、この長歌には日本語の長歌としてなければならぬものを具備せしめ、同時にそのために事實の單純化が行はれて居る。事實の報告よりも、響として傳へて居るのだから、人麿は彼一流の力をぼ其處に注ぎ、從つて省略融合の法を隨處に行つて居るのである。

この長歌は約めていへば、氣魄雄壯、詞|盛《さかん》である。眞率精切にして虚浮平鈍でない。讀者の精神を掃蕩せずんば止まないのはそのゆゑであり、人麿の全力的作歌態度がここに遺憾なく發揮せられたのである。

始めの方に省略融合とあって、西郷氏の言う「融合」を連想させるが、茂吉のは語句の融合であって、意味が違う。前後は全体として西郷氏や村田氏の言うことにもつながるようであり、茂吉の鑑賞力の確かさを思わせる。
あとのほうは、要するに全力的な作歌態度というよく知られた茂吉の評価だが、いいかえれば技巧に力を尽くしたと言うことだから、長歌を作ったことのない茂吉からすれば(茂吉は何度も長歌は作ったことがないので、人麻呂長歌の評釈は躊躇したと言っている)、そういう点に感心するしかなかったのだろう。しかしいくら真摯に全力で作っても、それが御用詩人としての職責なら文学的な価値は半減するのではないか。茂吉は、社会主義が嫌いだし、天皇制絶対信奉だから、長谷川如是閑などのいうことは全く受け付けないが、やはりそういう面も考慮すべきだろう。だから、あれほど地理考証に熱心だった茂吉も、この長歌での地理の矛盾は無視している。あっさりと、桑名から不破山を超えて不破(行宮)に入ったと言っている。また、和※[斬/足]が原も、伴信友に従って、簡単に青野ヶ原説を取っているが、それに対する有力な反論を全く考慮していない。また、この長歌で言われている内容は皆事実だと見なしているようだ。如是閑は、環境も体験もないのに達者な技術で造り上げたものだと言っているようだが、そこまでは言わないとしても、事実を曲げてでも劇的な効果の方を重視したといった傾向はあるだろう。
                                                (続く)