2323、わざみ6

2323、わざみ6
金沢英之氏は、前に引用したように、
……文脈が、美濃から伊勢方面へ山越えがなされたと解し得て、紀に記すところの天武の行程と逆になることから、…高市の行程と合致しており天武と高市を二重化した表現ととる説(橋本達雄「殯宮挽歌」『万葉宮廷歌人の研究』笠間書院、昭50、初出昭43)などが唱えられてきた。…森朝男「天降る大王」(『古代文学と時間』新典社、平1、初出昭53)のいうように、この歌の表現は「はじめから事実になど合ってはいない」のであり、虚構という手だてによって天武の存在を神格化し、同時に壬申の乱を神話化するところにこそ歌の本質を見るべきである。
と言われていて、橋本氏が、高市皇子が美濃から伊勢へ越えたように言っていることを紹介された。それで、地理を無視した荒唐無稽な説だと言った。しかしここは橋本氏の説を直接見るべきだから、見た。

万葉宮廷歌人の研究、橋本達雄、笠間書院、1975.2.25

イ、書紀の記述に忠実に考えると、近江から脱出して不破山を越え、天武天皇の軍に合流したのは高市皇子であり、また和※[斬/足]に陣を敷いて近江軍を迎え撃ったのも、ほかならぬこの高市皇子であった。
ロ、この地名にそって展開してゆく人麻呂の想像は、その地を知らぬ人とは思えぬほど的確である(あるいは曽遊の地であったとも思われるが、その確証はない)。このような人麻呂が、天武の行動として不破山を越えさせ、かつ和※[斬/足]に行宮があったとするような事実の誤りをおかすとは思われない。また、事実を正確に記述しようと思えば、いくらでもそれを知る手掛りはあったであろう。壬申の功臣たちもまだ生存していた者が多くいたはずで、事実近親者柿本※[獣偏+爰]もその中の一人と考えられる。にもかかわらずこのような叙述をしているのは、やはり意識的にやったのであり、文脈上は天武でありながら、事実は高市の行動に即させ、ここに二人の映像を重層せしめようとした意図を読みとることができるのである。
ハ、このように見てくると、従来の諸注が、天武であるか日並、または高市であるかと論を重ねてきたことは、あまり意味をもたないということになる。私見によれば、どちらも当っていたことになり、どちらも不十分だということである。すなわち、問題となる部分に天武の映像と皇子の映像とを重層ないしは交錯させたところに、この歌の特色を読みとるべきであるということになる。
ニ、神話的思考においては、代々の天子は同時にニニギノ命であったし、したがってまた祖霊の生ける化身、世襲カリスマの受肉形態でもあったわけで、云々
と述べている(注4)。たしかにこれらの考え方は首肯されるのであるが、それはあくまで「皇位の継承」とか「神話的思考」の範囲内でのことであり、儀式的な表現でもあったといえよう。人麻呂が「大君は神にしませば」と歌うのも同様で、その意識の裏には、大君は神でないとする認定があるからだと言われているように(注5)、

長い引用になったが、引用部分を読めば分かるように書かれている。まず、イでわかるように、高市が美濃から近江へ越えたなどとはどこにも書かれていない。金沢氏のひどい誤解である。こんな幼稚な誤解を見逃す指導教官もどうかしている。そして驚いたことには、橋本氏もひどい誤解をしている。高市は「近江から脱出して不破山を越え、天武天皇の軍に合流した」のではない。大津から脱出して、今の伊賀市の柘植あたりで天武に合流したのだ。こんなことは、壬申紀をちょっと読むなり、直木氏の本を読んだりしたらすぐにわかることで、地理を軽視するにも程がある。結局、天武も高市もその他の味方も、不破山を越えて美濃にきたものは一人もないのであって、にもかかわらず、人麻呂が、不破山を越えて美濃に入ったように歌ったから問題なのだ。虚構を問題にするのだからゞでもいいではないかというかも知れないが、なぜこんな荒唐無稽なことを人麻呂が言うのかはやはり問題だ。ロで、人麻呂は意識的に事実を曲げたのだと言うのは、賛成できるが、その曲げ方に微塵も事実がないのだ。すべたはでっちあげなのだ。ハが、結局橋本氏が最も言いたかったことで、長らく議論されてきた、主語の曖昧というのを「天武の映像と皇子の映像とを重層ないしは交錯させた」と解するというのである。引用しなかったが、こういうのは、口誦という発表形式にかなった方法でもあるという。それにしても分かったようで分からない解だ。重層といっても、イエスキリストのような、神か人かといった問題ではないだろう。天武でもあり、高市でもあると言うことのわかりにくさは、重層といっても、ただ言葉の綾であって、解決にはなっていないと思われる。かつて、中西進氏が、枕詞を連合表現と定義されたとき、稲岡耕二氏が、わかりにくさは結局同じだ、と言われたのを思い出す。それはともかく、この主語の問題は、神野志、金沢、榎本氏などの論考でだいたい決着が付いたようだ。
ニで、天皇即神論への否定が出てきて、注がついているから、折口の文章に言及されているのかと思ったら、
 5 山本健吉柿本人麻呂』一一八頁
とある。これは結局折口の言ったことだろうが、山本のを引用したら、孫引きのようになってしまう。なぜ直接折口を参照せず、山本にしたのか、疑問だ。

山本健吉柿本人麻呂』、新潮社版(1962.6.10)を売ってしまったようなので、山本健吉全集第二巻、講談社、1983.9.20、を見た。頁数が合わないので、大体の比率を目安に読んでいくと、「長歌における主題の分裂」の章の69頁にあった。
「神ながら」とか「大君は神にしませば」とか言った言葉が、頌辞として使われ出した。……明治以後に解釈されたような天皇即神説によるものではない。
つまり天皇は神ではないということなのだが、簡単すぎて説明不十分だ。もっとあとの章で、草壁、高市、天武の主語の問題で、折口を援用しながら詳細に論じているが、そこには天皇即神説に関するような事は出てこない(似たようなことは出る、ニニギノミコトと合体するとか、折口の言う天皇の資格とか)。この簡単な方には折口の説だと言うことをことわっていないが、あきらかに上野誠氏のいったように折口の説だ。こんないかげんな山本健吉のいうことを引証するのは、橋本達雄氏の沽券に関わるだろう。なおついでに言えば、山本は、先述の高市皇子挽歌論のところで、高市皇子は、和※[斬/足]野で近江軍と烈しい戦闘を行ったと、何度も言っている。全く事実に合わないからが、何のことわりもない。評論家などというのは、こういうひどい手抜きをするから、研究の参考にするのはよほど注意しなければならない。研究者にもミスは多いが、これほどひどいことはない(はずだ)。