2321、わざみ4

2321、わざみ4
柿本人麻呂研究-古代和歌文学の成立-、神野志隆光塙書房、1992.4.20
野志氏のこの著は有名なものであり、今もなお影響力があると思うので、とりあげた。といっても、高市殯宮挽歌の作品論はなく、天皇神格化表現とか人麻呂の表現の獲得、といった主題に関して論究されるだけで、和※[斬/足]の行宮はもちろん、不破山越えの矛盾や、戦闘場面の虚構といったことも論じられない。それでも一世を風靡した論考だから、見ておく価値はあると思う。まず引用。

持統朝が天武朝をうけてそうした「小帝国の完成をはたそうとしたということだと考える。

「小帝国」の完成がまさに顕現されていく持統朝の時代状況とともに歌の昂揚を捉えるべきだと考える。端的にいえば、「小帝国」の文化の問題として捉えるべきなのではないか。「小帝国」の、世界としての内実、つまり、世界として独自に存立することを確信できるところが、切実にもとめられるのに相応じるものは文化というのがふさわしいが、そこにおいて歌の問題をも捉えたい。歌という自らがもちえた文化伝統を捉えなおし、これを正面にすえることによって、「小帝国」の文化たらしめんとした。

場の論は、伊藤博万葉集歌人と作品 上』の説く、「宮廷サロン」とも重なるのだが、いま大事なのは、どのような場であれ、歌を多面的にもとめる場があり、またそれに応じることによってなりたつ歌の状況を認めうることである。いわば歌の浸透のもとにある生活、すなわち文化ということである。

短歌によって可能であるものをもって長歌と組み合わせる反歌の方法的追究をこうして捉えつつ、あらためて、それは、歌のもつ二つの領域を全体として見すえて和歌文学としての可能性を意識化し追究するという次元を明示するのだということが許されよう。

大事なのはこの歌の表現自体の論理と思想に即して捉え出すことであり、これを人麻呂神話であるとか、『記』『紀』編纂の過程で捨てられた伝承であるというふうに考えるむきもあるが、記紀神話体系をあまりきゅうくつなものと考えてはなるまい。

神話要素的なものはあったかもしれない。しかし、それを天武神話に収束せしめていく強い想像力による表現創出をつうじてはじめて統一あるイメージを結んでいくものであり、そこでは思想がさきにあってそれにもとづいて表現するという関係ではなく、表現の創出を通じて思想がはっきりした形となってくると見るべきであろう。端的に、時代の思想に形を与えた人麻呂の歌として捉えたい。

王朝の創始をになった「神」として、天降り、死して天上にもどって天を治める。それは、そのようにもとより一般的に「信じられていた」というものでなく、人麻呂の表現をつうじて明確な形をとってきた思想ではなかったかとあらためていおう。「神」たる「すめろき」を特殊化することが、天武天皇をめぐっては、始祖神としてその「神」性を崩後のみならず全存在的に拡大してなされたのだと考える。神話化といえば神話化であり、人麻呂がふまえたであろう神話要素的なものを顧慮する必要はあろうが、大事なのは「すめろき」の神話化というその本質であろう。

大量の引用になってしまった(セミナ-万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30、所収「人麻呂作歌の世界」で部分的に要約されている方が、短いだけわかりやすいだろう)。この方のは一応は分かるのだが、読解の精緻さだけで出来ているように思える。テキストだけで解けないことは言わない。前半のように歴史的な背景(持統朝の政治力学とか)があるものはいいのだが、後半の、天武神話とか天皇神格化表現とかになると、いくら人麻呂の獲得と言われても、十分には納得しにくい。記紀神話とは違う、人麻呂の創造した神話と言う考えはいいとして、なぜそんなことをしたのか、人麻呂の創造は、当時、どこまで受け入れられていたのか、それによって、文学作品としての価値はどうなるのか、といったことがわからない。
要するに、人麻呂個人の文学的な創造や営為をもっと重視しようということであり、それが、持統朝の、「小帝国」文化(特に和歌文学)を興隆させようと言う、政治的な営みでもあった(自覚するしないに拘わらず、そういう結果になる)、と言うことなのだろう。だから天武神話などというのも、人麻呂の表現の獲得、大きく言えば文学的な創造であって、人麻呂作品の内部に留まるということらしい。和歌文学の興隆として評価されるにしても、その天武神話がそのまま国家承認の神話(記紀神話)とはならない。
結局、「わざみ」という地名が高市挽歌の中で果たす機能についてはほとんど得るところがない。天武は不破山を越えたとか、和※[斬/足]の行宮に天降ったとか、瀬田会戦での高市皇子の奮戦などという、書紀の記載内容とは合わない表現は、どうして生じたのか。これも人麻呂の独創だとしたら、人麻呂は書紀の内容を知っていて改変したのか、書紀の内容は知らずに、他の情報源からなのか、神話なら独創も有り得るが、まだ壬申の乱の当事者が多数生存しているときに、書紀の記載と違うことを、公式に発表して、はたして公式の挽歌として通用したのか、通用したとしたら、どういう状況で通用したのか、わからない。そういうちぐはぐな作品が、長歌としてなぜ高く評価されるのかもわからない。

宮廷挽歌の世界-古代王権と万葉和歌-、身崎壽、塙選書96、1994.9.30
前の神野志氏のから、わずか2年後にでたものだが、前者は堂々たる単行本、こちらは小型の選書本で、頁数も少ない。身崎氏といえば、神野志氏にひけをとらない活躍ぶりであったが、今振り返ると、やはり前者の方が優るようだ。後者は量が少ないだけでなく、論点も小さく、かなり通俗的常識的で、読みやすい。それはともかく、ほぼ同時代の人で、同じ時代背景にあった人であるせいか(同じ世代と言っても、坂本氏、廣岡氏などはまた傾向が違うが)、論説が似通っている。上野誠氏が「万葉挽歌のこころ・夢と死の古代学」2012年、で言われたように、「場」の論理で作品を分析する傾向が強い。したがってどちらも歴史的な背景を重視する。本書にも副題に「古代王権」とある。人麻呂の挽歌でも、ほとんど「殯宮」の具体的な在り方の分析でしめられている。歴史的に持統の時代に急激にに殯宮挽歌製作の場が調えられ、しかも線香花火のように人麻呂で終わってしまった、というのなども、神野志氏のいうのと似ている。

結論だけをいえば、この挽歌はいかなる意味においても叙事詩とはいえないし、そこに登場する「やすみしし我が大君」=天武も、また本来この挽歌で中心的にえがかれるべき「我が大君」=高市も、古代的英雄としてえがかれているわけではないのだ。

その表現にこめられた政治的メッセージのありようからみても、この挽歌が持統天皇の領導のもとに執行された高市皇子――太政大臣高市の喪葬儀礼の一環として、皇子の生前の居所たる「香具山の宮」での遺族近親者を中心とした儀礼の<場>に提供・誦詠されたものと推定してあやまらないだろう。

この挽歌の作中主体=話者<われ>のたちばがいかなるものかは、それと明確にしめされてはいないが、持統宮廷につかえ、したがって太政大臣高市につかえる一廷臣・官僚のそれとみることに矛盾はない。

三か所だけ引いてみた。神野志氏との違いは、作中主体を分析したところぐらいだろう。それは挽歌的な抒情の方法として人麻呂の達成したものといえるのだが、これも結論的には神野志氏が言ったのと似たところがある。そして、和※[斬/足]や不破の地名の問題に一切触れることがないことも、同じである。

榎本福寿、日並・高市両皇子の挽歌と天武天皇――神話、歴史に根ざすその成り立ち――、萬葉集研究第三十五集、2014.10.20、所収。
長篇であるが、主題は題名通りであって、二つの挽歌の一部分を、その表現(対句や助詞)の微細な分析と比較によって分析したもので、作品論とも言えないものである。作品論なら、かつて、華々しく議論された、殯宮という場の分析が欠かせないと思われるが、それについては一言も触れない。なお、この論文では、村田、高野、金沢氏らの論文が大きく取り上げられているが、それを読むのは後回しになった。この論文では、高市挽歌の壬申の乱関係の部分の表現構造の分析が大半を占めている。そこから幾つか引用した。

イ、天武天皇の統治と高市皇子の奏政による理想の政治が実現し、それが永続してほしいと願い繁栄していたその折も折、「吾が大王皇子の御門を 神宮に装束ひ奉りて」と高市皇子はあまりにも突然薨去する。史実とは、もちろん別である。天皇と皇子による理想の政治をその薨去が突然奪うというこのかたちを、挽歌はまさに演出したのであろう。
                       
ロ、なぜその行宮に赴くのか、またそれをなぜ「あもり座して」と表現するのかといえば、その直後につづく「天の下治め賜ひ、食《を》す国を定め賜ふと、鶏が鳴く吾妻《あづま》の国の、御車士《みいくさ》を喚《め》し賜ひて」という一節が明確に答える。すなわち天下の統治、全国の平定をめざす戦いに備える戦略上、またその戦いを実際に担う東国の兵士を喚募する上にも、立地その他そこが最適の地であるからという理由による。

ハ、表現にこうして彫琢を特に凝らす反面、壬申の乱の実戦やその事実などをつたえたとみるべき明確な表現はほとんど皆無であろう。

ニ、「これは天武・持統朝をひと続きの時代とみているからであろう。その点を了解事項として、高市はあくまで天武の執政者として描かれている。」と解釈を施す。主張の内容はともかく、「当時の理解」あるいは「了解事項」といった検証不能な言説を持ち出す必要があるのだろうか。天武天皇の統治と高市皇子の奏政とを組み合わせる必然性を、史実などではなく、むしろ文脈や構成あるいは表現などといったそれこそ挽歌そのもののなかに読み解くのが解釈の本道である。この立場から導いた試見は、後述する。

ホ、現実には持統天皇の治世下でありながら、持統天皇のかかわりを積極的に捨象する方向をあえて選択したことも、この挽歌構想と恐らく無縁ではない。しかしまたその危機を最も切実に受けとめたのが持統天皇であることも、多言を要しない。この持統天皇に向けて、人麻呂は二つの挽歌をうたいあげてもいたはずである。

歴史的な記述の形態で表現している部分は、すべて史実ではないという。そうかも知れないが、人麻呂が史実と思っていたとも言える部分もあるかも知れない。正格には、その部分は、書紀の記述とは一致しないということだろう。それはともかく、高市皇子が天武の治世中に急逝したというのは、著者の言うようにあきらかに史実ではない。ただ、それ以外の、地理や戦闘場面での矛盾も明らかに、史実ではないと言えるのか、そこが知りたいのだが、ほとんど触れるところがない。それにしても、高市皇子は、天武が死んでからのちかなりたった、持統の治世中に死んだのだから、あきらかに、著者の言うように演出だろうが、むしろ、明瞭な虚構(はっきり言って見え透いた嘘)である。文脈から窺える表現構造がそうなっているのだから、そう理解すべきだという、ニの引用部分は、著者の指導教官だという神野志氏の主張そのものである。
しかし、これは殯宮挽歌であって、壬申の乱物語といったジャンルではない。政治的な意図をあからさまな演出で表現することが、はたして、殯宮という公的な場で、許されるのか。またそんなものが、高市皇子個人を哀悼する挽歌の表現としてふさわしいものか、疑問である(哀悼すべき個人の死を政治に利用している)。演出というのも、比喩や誇張が大方だというが、比喩はともかく、はでな誇張は、ただの虚構(嘘)である。人麻呂はなぜそのような虚構を挽歌に使ったのか、見え透いた虚構は、高市皇子個人への侮辱ではないかという吉永登氏の批判を解消させるには至っていないと思うのである。よって、和※[斬/足]や不破山越の疑問の答えは出ていないと言える。