2317、そがひ追補

2317、そがひ追補
もう一つぜひ読みたいと言ったのは
奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」萬葉集研究第32集、2011.10.20
であった。しかし読んでみて、すぐにこれではないことが分かった。私が再読したかったのは、暦日などの考察から、池主たちが見た朝日のさす立山の位置などを考察したものであった。もうひとつ私が読んだ可能性のある雑誌があるが、目次の検索が出来そうもないので諦める。だれも引用しないところを見ると特に読む必要もないようだ。それにしても私自身どこにもメモしていないのは情けない。ところで、この奥村氏のも以前読んだものだが何の印象もない。論題からすれば、池主の「朝日射しそがひに見ゆる」は当然論点になるだろうし、論文全体の主張が、赤人との関連を論じているところから、中西進氏が言うように(『大伴家持』)赤人の頻用した「そがひ」を池主の長歌の冒頭も受けているのだから、論じるだろうと期待したが、完全に捨象されている。それだけでもう読む価値がない論文だ。さらに、前半三分の一ほどの大きな論点である、立山神奈備山説も、論拠が貧弱で承服しがたい。片貝川立山からかなり離れていると認識しながら、片貝川神奈備山としての立山の裾を帯のように流れているというところなど、支離滅裂と言わざるをえない。そのもとになった、中西進氏や橋本達雄氏の説なども単なる思い付き程度だ。だいたい、地図を見るか現地に行くかすれば、そんな説が成り立たないことはすぐにわかる。立山から流れ出るのは常願寺川であって、片貝川ではない。片貝川は、立山剣岳から北に離れた毛勝山から流れ出て、立山の方に向かうことは一切なく、真っ直ぐ北方の日本海に注ぐ。それに神奈備山というのも、立山にはふさわしくないだろう。神奈備山は三諸ともいわれるように、低い山の樹叢がふさわしい。明日香や、三輪、竜田のが知られているが、三輪山以外はほとんど山とも呼べない。大和では葛城山ぐらいでも、もう神奈備ではない。まして中腹以上、草と岩と雪しかないような立山は神の山ではあっても、神奈備山とはいえないだろう。中西進氏の根拠のない思い付きに乗りかかってしまった奥村氏の失錯である。

ここで以前の説を少し修正しておく。片貝川の河口付近から見た毛勝山を当時は立山と呼んでいたのだろうと言う説に従ったが、立山本峰とは600メートル程の高度差があり、いくらなんでも、それを無視して毛勝山を立山と呼ぶのはおかしい。伏木あたりにいた家持や池主が、たとえ常願寺川の源流の立山に登山したことが無くとも、そのあたりが主峰だということぐらいは、遠くからの観察でも、また地元の役人たちの報告からでも知っていただろう。では、なぜ毛勝山を立山と言ったか。要するに、立山連峰浄土山から毛勝三山あたりまで)をひっくるめて立山と言ったのであって、毛勝山とか、猫又山とか、剣岳とかいったこまかい呼び分けはしていなかったと言うことだろう。ちょうど、大和平野の葛城連峰のようなもので、今は、金剛山葛城山を一つの名前で呼ぶことなどはあり得ないが、万葉のころは、ただ総称して葛城山といっていた。だから池主たちの意識では、毛勝山ではなく、立山だったのだ。大きな立山立山連峰)を北の方から(そこからは毛勝山しか見えない)見て、立山と呼んだということになる。
金剛山葛城山は大阪から見ると、はっきり別の山だが、奈良側から見ると、かなり南によっていて、金剛山葛城山の背後におおかた重なってしまう(ただし御所市から南でははっきり二山に分離して見える)。その点からも、全体を葛城山と呼んだのは頷ける。ひょっとしたら、金剛山という名も大阪側のほうが親しい。金剛山の山頂は大きく奈良県の行政区域になっているが、そこにあるのは葛木神社であり、そこの神職は葛城氏である。