2320、わざみ3

2320、わざみ3
菊池威雄、高市皇子挽歌(巻2・一九九~二〇二)、橋本達雄編、柿本人麻呂《全》、笠間書院、2000.6
質的な重厚さにおいて、奔騰する言葉の迫力において、それを統括する構成力において、当該歌を超えるものはなかった。持統・文武朝の藤原時代の記念碑たる作品である。しかしながらこの挽歌を支えた、人の死にかかわる信仰や習俗と王権との時代的なかかわりなどが、いまだ必ずしも解明されおらず、それらをすべて振り払って存在する文献《テキスト》に対して、文脈や語義の解釈すら揺らいでいる現状である。→前書き的な部分でのこの発言にあるように「人の死にかかわる信仰や習俗と王権との時代的なかかわり」を主に論じたものだ。
全体を3段にした時の第1段は神話的だという。天武天皇に関する関する記述は今までも神話的だといわれており、特に真新しくはない。日並皇子挽歌と比較しながら、天武の地上性を強調し、それは高市皇子を天武の片割れのようにして重ねたからだという。

神話幻想 地上原理に引き下ろされた神話ともいうべき、当該歌の神話性を最もよく示しているのは、おそらく「渡会の斎の宮ゆ、神風にい吹き惑はし、(中略)」の部分であろう。この部分の行為の主体については他説があるが、文脈の流れは、神風を吹かせ闇に覆ったのは高市皇子である。

こうやって引用していくときりがないし、私の主題とは関係がないところが多い。それはともかく、地上原理による神話とはどういうものかよくわからない。説明も詳しくない。ようするに政治的な側面が表に出て来るということだろうが、それなら神話ではなく比喩的なものに過ぎず、英雄的な伝承といってもいいように思える。だから、神話と言いながらすぐに神話性と言い直しているが、それは比喩的と言うことではなく、神話の属性を持っていると言うことだから、あるていど神話として読んでいるということだろう。
以下殯宮論に移っていくが、神話的な叙述がなぜ殯宮の叙述に続くのかここだけではよくわからない。とにかく、以下葬儀や祭式といったことは略す。

この祭りと言葉との関係は、殯宮挽歌の叙述の位相を示唆していると思われる。殯宮挽歌を葬祭という祭祀の中に置いてみたとき、挽歌がまず最初に語らなければならないのが、目前で進行している祭りの本縁でなければならない。死者である皇子の事跡や神性を語ることが、葬祭という祭祀の本縁であることはいうまでもない。祝詞でもこの部分は神話性を帯びてくるが、高市皇子の挽歌の場合も、壬申の乱にかかわる叙述は、上に述べたように神話化された皇子の事跡で埋められる。神として葬る祭祀である以上、皇子は神として語られなければならないのである。

出だしがなぜ神話的であったかと言うことは、ここで明かされる。死者の本縁を語っていると言うことだ。しかし、天武は神話的な面もあったが、高市は英雄的ではあっても神話化された事跡で埋められてはいない。高市を神として葬ったというのは証明されていない。つまり殯宮は祭祀の言葉で語られるいうのは十分には証明されていない。著者も言っていたが、明日香皇女挽歌では死者の神性などは全く描写されない。

天武の着陣の場所・そこへ至る経路、壬申の乱の季節などが壬申紀と食い違っていること、伊勢の神の神助の下りは、壬申紀に見えない虚構であることなどが指摘されてきた。そこには、壬申の乱という史実、その地上性に沿いながらも、皇子の行動を神の振舞いとして捉え直そうとする作者の意図が現れている。史実から遠ざかっている距離だけ、皇子は神に歩み寄ったというべきであろう。

これは先に引用した少し後のものだが、野上→和※[斬/足]、不破山をこえていないのに越えたということ、乱は夏にあったのに、戦闘場面に冬に関する比喩が目立つこと、伊勢の神風が吹いたこと、という矛盾を指摘したものだが、書紀との違いをここでまとめそれを登場人物の神の振る舞いとしたのはいいが、なぜそうなのかは説明されない。それに、始めの二つの地理の矛盾は、明らかに天武天皇のことであって、高市皇子のことではない。このような間違いはこの論文の信用を傷つける。要するに、この高市挽歌に祭祀の言葉の位相を見ようとするのは行き過ぎだということだ。デフォルメである。

西郷信綱、壬申紀を読む 歴史と文化と言語、1993.6.21
西郷のは始めに『万葉私記』を見たが、あれは挽歌としての構造を論じたものだった。これは書紀の壬申紀を丁寧に読んだもので、同じような構成の『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』遠山美都男、2014.02.25、などとは比べものにならないほど良くできているし、詳しい。しかしこれも結局、断定はしないながら、「わざみが原」は関ヶ原から野上にかけての一帯で、和※[斬/足]は関ヶ原のことだろうというだけで、青野ヶ原説には全く触れないし、地理的な矛盾についても触れない。なお、天武の美濃あたりの行動を、「英雄的」と評し、「カリスマ性」ともいう。菊池氏のいう「神話的」よりもいいだろう。天武の行動を神話のように描いたのではなく、カリスマ性のある英雄として描いたのである。ついでに言えば、「不破の関に近いワザミに先陣を構え、本陣はその東二キロばかりの野上の地に置き、必要に応じその間を往反することにしたのである。(144頁)」と言っている。西郷が最初に言ったわけでもないだろうが、はっきりと断定している。

萬葉集歌人と作品 上 古代和歌史研究3、伊藤博塙書房、1975.4.10
第五章 柿本人麻呂とその作品
 第三節 人麻呂殯宮挽歌の特異性(1977.2「国語国文」初出「挽歌の誦詠」)
  一 発表ということ
  二 葬儀と挽歌
  三 殯宮挽歌の内容と場面
  四 文芸と非文芸と
伊藤博氏には、高市挽歌の専論はないようで、これが比較的詳しく論じたものだろう。臺にあるように、殯宮という葬儀を歴史的に詳しく追及したもので、菊池氏のよりも説得力がある。仏式への転換の中で、古い伝統の最後の輝きのようなのが、人麿の殯宮挽歌だったというわけだが、ずいぶん長い論文に拘わらず、人麻呂のわずか三首の殯宮挽歌だけで、公的な儀礼上の誦詠を論じるのは、ちょっとわかりにくい。それはともかく、今私の関心があるのは、四の部分で、ここで、長谷川如是閑と茂吉の論争を紹介し、長谷川の御用詩人てきな見方は出発点から間違っているときびしく批判している。しかし、

人麻呂の殯宮挽歌は、その環境(白鳳的儀礼)への共感をいちずに表現した完全に近い「儀礼歌」であった。宮廷歌の限界を類のない高さに拡大した歌であった。とすれば、この挽歌にはそれなりの高い意義と価値を認めねばなるまい。権力を持たぬ人々を代表し権力に反撥してうたったとしても、その表現に「たたかい」がなければ、作品は力作の資格を持ちえないはずだ。
 人麻呂は、特異な歌才をもって宮廷の葬儀に挽歌を唱う習俗の最終的な段階に立ち、そうした挽歌の創られるべき機運のなかに立っていた。そのために彼は類のない公儀の挽歌詩人となり、その殯宮歌は文芸と非文芸の境に立った。

このように主張するのはやや偏った感じがする。完全な儀礼歌や宮廷歌のどこに意義と価値があるのか。しょせんただの貴族文化ではないか。装飾過多でも儀礼への効果があればいいのだろうか。文芸と非文芸の境というが、そんなものが本当の文学か。ようするにこれも茂吉と同じで、和歌の技巧にくらまされた、形式的な鑑賞ではないか。

本稿は、昭和三十年当時人麻呂を迎合の詩人と見る風潮がおこったことに対する一つの批評として、研究者としての主体的な立場を設定する意図をもこめつつ書かれたものである。とくに、吉永登氏の「人麿の献呈挽歌」(万葉――文学と歴史のあいだ)を意識して書かれたと記憶する。だから、本稿が生誕したのは吉永氏の力だといえる。謝意を表した

ここにいう「迎合の詩人」、如是閑流に言えば「御用詩人」という人麻呂観もそれなりに評価すべきだろう。では、次に吉永氏のを読もう。

吉永登、『万葉――文学と歴史のあいだ』、創元社、1967.2.10
六 人麿の献呈挽歌
七 献呈挽歌は殯宮で歌われたものでない
八 天武天皇における天照大神神武天皇――人麿作歌の背景として――
九 高市皇子と瀬田の会戦――人麿の虚構――
十 宮廷歌人の存在を疑う
この五論文にわたって、宮廷歌人人麻呂の問題について論じられており、読み通すだけでも一苦労である。なお吉永氏も「宮廷歌人」と言われているように、御用詩人とか職業歌人とかいう言い方は茂吉と如是閑の論争以外にはあまり出てこない。宮廷歌人の問題については戦後いろいろ論じられたが、今はそれに関わる閑がない。
吉永氏の場合、書名にもあるように、歴史の問題への関心が深く、文学史的な課題の追及が弱いようだが、そう言う時代の人だったからやむを得ないだろう。ところで、この本は私は何十年も前に読んでおり、今改めて読んで、覚えているところが多い。それだけ切れ味の鋭い印象深い論文が多い。今書いているこのノートでも氏と同じことを言っているところがあちこちにある。だれかの論文にあったと言うことは覚えているから、自分の独創ではないが(そんなものはほとんどない)、だれのかということは思い出せない。吉永氏のも今読んで、そういえば吉永氏の説だったのだなと思い返す。
六の序章に
「在来はとかく人麿の盛名のゆえに、伊藤左千夫長谷川如是閑等一、二の批評を除いては、いずれもぐれた作(草壁、高市、明日香の三挽歌のこと、入力者)として認められてきたのであった。
 しかし、それらは、主として構想とか、措辞とかいう外面からの批評であるがが、ここではどのような歴史的事実に基礎をおいた作者の心から生まれたかという作歌動機についての考察を試みたいと考える。」
とあって、私も同じことを言っているのだった。つまり吉永氏も、長谷川、伊藤と同じく人麿の殯宮挽歌を傑作とは言いがたいといおうとしているのだが、作歌動機についての解明(宮廷歌人による作品の文学性の堕落とか)が少なく、歴史的な事実との齟齬の解明で終わっているのが多いのは残念である。
六論は岩波の『文学』(1954.11)に発表されたものでずいぶん長いものだが、大部分は、人麻呂は天武・持統天皇を念頭に置いて作っているということを論証している。人麻呂の時代には歴史的な制約もあって権勢への顧慮などは当然のことであって、庶民への同情と何等矛盾はしないと言う。しかし挽歌の場合、個人的な感動を中心とせず、権勢を顧みて歌った結果叙述に破綻をきたしたらすぐれた歌といえるだろうかと言う。そしてそういう叙述(文脈)の破綻は、茂吉の言うような不即不離の省略法と言ったものではないと言う。そして最後にこれらの挽歌は殯宮で歌われたものではないとする。最後はともかく(吉永氏自身も断定していない)、叙述の破綻は権勢に迎合したためであって、優れた作品とは言えないというのは、当たっていると思う。ただしこれは措辞の面の破綻であって、歴史的な事実に基づいた具体的な構想といった面での破綻については天武・持統への配慮以外には言っていないようだ。それは七論以降を見よということだろう。
七論は、題名の通りで、具体的には、天智挽歌群、明日香皇女挽歌などについて論じている。折口や武田、西郷氏、が殯宮で歌われたと主張したということだが、だいたい民俗学の系統にある。吉永氏の反論はかなり明瞭なものだが、菊池氏などはそれに触れずに殯宮で歌われたものとして論じている。曾倉岑氏は吉永説を引いて、私的な歌だが場は公的だと折衷的である。要するに公的な儀礼の場の歌か、私的な歌かということになるが、私はだいたい曾倉説に近いが、今はこれ以上考える暇がないし、わざみという地名には大きな影響はない。
八論は、壬申の乱における神憑り的な奇蹟は天武が意図的に作りだし流布させたものとする。人麻呂はそれに親しんでいて、高市挽歌に取り込んだとする。つまり、歌作の時の意図的な虚構(創作)ではないとするわけだが、結論は保留する。
九論は、瀬田の会戦に高市皇子は参加していなかったとするもので、それを会戦の主人公のように人麻呂が描いたのは、「考え方によるとこれは死んだ皇子に対する大きな侮辱でさえあろう。」とする。これは全く同感である。このように実感が伴わず、また主語が天武か高市かあいまいなのは、優れた表現とは言えないとし、「人麻呂評価の問題はなかなか困難と言うべきであろう。」というように疑問を呈している。
これは瀬田の会戦だけを問題にしたが、天武の不破山越え、和※[斬/足]行宮についても同じ問題がある。
十論、これも一時うるさく論じられたもので、吉永氏のこの論文はその代表的なものの一つである。御用歌人とかいった一般的な名称でなく、当時の宮廷において、専門的に儀礼用の歌を作る職掌の官人たちがいて、そういうのを宮廷歌人(職業歌人、宮廷詩人とも)という名称で呼ぼうというものだが(折口信夫が言い出した)、吉永氏はそれを疑わしいというわけだ。ここで詳しく吉永氏の説を紹介する閑はない。簡単に言うと、彼等の作った作品に頌歌や挽歌とは思われない内容のものがあること、職業的な宮廷歌人なら当時の貴族達に蔑視されたであろうが、人麻呂も赤人もれっきとした有位の役人であったこと、職業的な宮廷歌人なら、大伴家持が羨望と尊敬の念を持たなかっただろうと言うこと、などをあげておられる。しかしこういうことは、高市皇子挽歌の表現の地理的な矛盾の問題とは余り関係がない。宮廷歌人であろうとなかろうと、人麻呂はあのような挽歌は作れただろうということである。

西郷信綱『齋藤茂吉』2002.10.30、「八 茂吉と人麿――ディオニュソス的ということ――」。
西郷氏はこれで三度目でちょっとしつこいが、ここに例の長谷川如是閑との論争が出てくるので、すこし触れてみたい。西郷氏は、R.Finnegan の Oral Poetry を引いて、「貴族的階層的な秩序を持つ王制では、宮廷詩人(court poets)なるものがほぼどこにも存在し、しかも彼らはしばしば高度な技を身につけており、特殊な訓練も受けていることが指摘されている。我が柿本人麿もたんに日本的現象としてではなく、まずはこうした国際的な視野のなかに据えて眺めてみることが必要なのではなかろうか。」とする。そして、如是閑のように芸術の堕落だというだけでは話しにならないし、茂吉のようにミケランジェロを持ち込むのも見当はずれだとする。近代以前には、「芸術とパトロン」制とでも言うべきものがあって如是閑説も茂吉説も歴史的な視野があまりに狭い、と言う。
西郷氏の言うことももっともだが、人麻呂の長歌でもすべてが、王制讃美ではないし、赤人などは、宮廷歌人とも言いにくい、といった吉永氏の説にはどう答えるのだろうか。貴族的な王制では世界中どこでもそうだというけれど、日本の柿本人麻呂ははたしてそういうものなのか、西郷氏も茂吉と同じように技法のすばらしさを主張するが、そいうものを優れた文学とし、欠点は歴史的な制約といって見逃すのだろうか。如是閑ほどの否定はしないとしても、伊藤左千夫の非難ぐらいは認めてもいいのではないだろうか。吉永氏の非難も有力だと思う。