2322、わざみ5

2322、わざみ5
金沢英之高市皇子挽歌、セミナ-万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30、所収。
前の榎本氏が盛んに引用されていたが、それほどのものとは思えない。このシリーズによくある、諸説の交通整理型の論文であり、大方、指導教官と思われる神野志氏の説の祖述のように思える。そこだけ見れば榎本氏も同じである。

天武の和※[斬/足]への出陣から、東国の兵の召集、高市への敵軍鎮撫の任命が歌われる。ここで「背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして」というあたりの文脈が、美濃から伊勢方面へ山越えがなされたと解し得て、紀に記すところの天武の行程と逆になることから、大和にいる作者の視点から必ずしも詳しい道順などを考えずに言ったものとする説(『注釈』)や、むしろ高市の行程と合致しており天武と高市を二重化した表現ととる説(橋本達雄「殯宮挽歌」『万葉宮廷歌人の研究』笠間書院、昭50、初出昭43)などが唱えられてきた。さらに天武の行宮が、戦陣の張られた和※[斬/足]とは別に野上に営まれたとする紀の記事との食い違いとあわせ、史料としての信憑性の低さを問題とする見方もなされてきた(吉永登「高市皇子と瀬田の会戦」『万葉-文学と歴史のあいだ』創元社、昭42、初出昭34)。しかし、森朝男「天降る大王」(『古代文学と時間』新典社、平1、初出昭53)のいうように、この歌の表現は「はじめから事実になど合ってはいない」のであり、虚構という手だてによって天武の存在を神格化し、同時に壬申の乱を神話化するところにこそ歌の本質を見るべきである。

長い引用で申し訳ないが、吉永氏の説が紹介されているのが珍しい。しかしあっさりと、始めから事実になど合っていないと森説を引用して切り捨て、吉永氏の残る書紀との不一致点(複数個ある)には触れない。そして、神野志氏の言う、天武天皇の神格化表現であり、そのために、壬申の乱すら神話化したのだという。脇道になるが、不破山越えが、なぜ、美濃から伊勢への山越えになるのか全く理解できない。地理的にありえないし、物語とか伝承とか神話とか言っても、あまりに荒唐無稽だ。不破山越えは、近江から関ヶ原を越えて美濃に入るか、その逆かである。伊勢など関係ない。こういう説を引用するだけで批判しないと言うことは、そういう説も可能だと思っているのだろうか。

現実には大和から見て東北にあたる美濃を「背面の国」すなわち北方の国と歌うことも、北方を幽暗の方角とする観念とあわせて、その北方の険阻な山を越えて天より降り立つことで神威を際だたせる効果があると看取される。神話的な叙述として一貫するとみるべきなのである。

これも地理を無視した発言である。「「背面の国」…、その北方の険阻な山を越え」ではない。天智方の根拠地である近江から、不破山を越えて「背面の国」の美濃に入ったのであって、「背面の国」を越えたのではない。まさか美濃を越えて信濃へ行ったのでもあるまい。
以下長くなるので引用は略すが、天武と高市との関係を擬神話的に描くのが高市の死亡までの叙述で、それは、王権の保持者天武とその補弼者高市との理想的な政事として歌われているとするのだ。こういうところが榎本氏の批判されたところで、草壁の場合はあきらかに神話的だが、高市の場合は、そういう表現は、比喩か誇張かであって、全体として歴史的な観点で表現されているという。これはそうだろう。金沢氏は、神野志氏や村田氏の説にこだわりすぎたように見える。
高市死去後の部分については、論議のやかましかった殯宮論になるが、各説の紹介で終わっている。実際、そう簡単に決着の付く問題ではないようだ。
そしてここでも、演出でも、虚構でも、擬神話的でもいいが、そういう、死者の政治利用(死人に口なし)のようなことが、持統などの権力者によって、あからさまではないにしても、柿本人麻呂などに圧力をかけてい、人麻呂もそれに喜んで応じたのだとしたら、長谷川如是閑のいう、御用詩人のようなものになる。そんなものがはたして、長歌のまれに見る傑作とか名作とかと評されていいものだろうか。そういう認識は間違いだというのなら、吉永氏の疑問に答えるべきだろう。

上野誠、日本人にとって聖なるものとは何か、中公新書、2015.1.25
何とも大げさな題だ。日本人を万葉人とすれば、少しはましだが。それでも大げさだ。もり、みもろ、かんなび、などの語義を用例で説明しただけの浅薄な書である、いつものことだが。利点は、この人の本はたいがい近くの図書館にあって読みやすい、極めて稀にいいことも言う、ということだ。そこで、今回の一つ。
218~220頁、(天武天皇即神説にふれて)「大君は、神にしませば」という句は、天皇の力の偉大さを讃える句であり、それは言外に、神ならぬ身の天皇のお力は、まさに神であるかのごとし、という内容を含み込んでいるのである。この考え方は、…(折口信夫「天子非即神論」)。
つまり、万葉で天武を神だと言っているのは、比喩であって、実際の思想ではないというわけだ。例によって厖大な参考文献が載っているので、見ると、折口の全集の20巻にあるという。折口全集は全部読んだが、勿論なにも印象に残っていない。さがしだして読むか。榎本氏の前掲論文は、2014.10.20、だから、上野氏がそれを見ることはないだろうが、榎本氏(そしてその前の金沢氏など)が折口を読むことは勿論可能だし、土台になった、神野志氏なども、当然折口は読んでいるはずだが、即神論関係の論文で出てきた印象はない。私の印象など全然あてにならないが。

折口信夫全集第二十巻神道宗教篇(中公文庫、1976.8.10初版)
上野氏に教えられて折口を読んだ。神道宗教篇はあまり言及されないので注意して読んでこなかった。「天子非即神論」1947.1.16~18「夕刊新大阪」もあるが、その前の、「宮廷生活の幻想――天子即神論是非――」1947.7「日本歴史」第二巻第三号、のほうが長くて話題も多く詳しい。後者の方で、日本には学問的な意味での神話は存在しないと言っているのが注意を引く。それだと古事記の冒頭あたりの神々の話しはどうなるのか、別になにも言っていない。それから天皇非即神論について、両者でほぼ同じことを言っているが、前者の方が新聞の記事とあって、簡潔だ。敗戦後の昭和天皇人間宣言から書き起こされていて、印象的だ。我々と違って、当時の人は、天皇は神(現人神)だという認識が相当に強かったのだろう。折口は、学問的にそんなことはあり得ないと強調するが、あの折口がという気もする。兎に角、万葉などに多い「大君は神にしませば」などというのは、まったく、天皇を神だと思っていたのではなくて、そのように「言ひこなし」(文学だとも言うが、要するに比喩的な表現とか、言葉の綾、とかいうものだろう)ているのであり、誇張である、と言っている。こうなると、榎本氏がいわれるのとほとんど変わりない。ただし、高市皇子挽歌はともかく(村田氏などはこれも神話的だという)草壁皇子挽歌の場合は、榎本氏は神話的だという(神野志氏以来の説だが)。折口に言わせれば、これも、比喩であり誇張だとなるのだろうが、説明はない。
天皇即神論については、神野志氏と遠山氏との論争など、いろいろ議論はあるが、折口説はどう処理されていたのか記憶にない。とにかく「わざみ」考とは縁が薄い。

村田正博、高市皇子挽歌、万葉集を学ぶ第二集、1977.12.15
これは榎本、金沢氏が大きく取り上げられたものである。和泉書院の例のセミナーで編集者が手本にしたもので、セミナーより22年古い。今でも伊藤博中西進氏の論文がしばしば引用されるぐらいだから、この程度の時間差は問題ではないのだろう。ところで、これも、伊藤博氏を指導教官として書かれたものだ。だから論文中で伊藤博氏の論文がしばしば言及される。それにしても、和泉のもそうだが、この学ぶシリーズでも、編集者の息のかかった著者が多い。
おおかた金沢氏の論文で紹介されていて、ここで改めて引用したりする気が起こらないが、まず天皇(天武)即神論がくわしく説かれる。次の壬申の乱の戦闘場面で、吉永氏の論を出して、高市皇子の戦闘の描写ではないと言うが、主語は高市皇子だから、その批判は当たらないという。しかし吉永氏は、史実として、高市皇子は近江路の戦闘そのものに参加していないと言っているのだから、誤読であり、批判になっていない。天武と二重写しになった(だから高市も神として行動しているとなる)、高市の奮戦であり、活躍だというのは、吉永氏の言うように、史実ではなく、虚構であり、演出でもあるわけだが、そのことを言わない。そのあと、高市は天武との共治態勢で、執政したと言って、高市を讃美したというのだが、天武の代理のようなことをしただけなのを、はたして讃美と言えるのか、どうも納得しがたい。作品構造からみて秀作だという結論がさきにあって、それに合うように解釈したようにも思える。高市も人麻呂も知足の人で、人麻呂の人間的な共鳴が、人麻呂の慟哭を呼び絶唱となった、というが、職業詩人というのを、知足というような美辞におきかえただけではないか。理屈は何とでも付けられるという思いがする。同じ知足でも、金井清一氏(古代抒情詩『万葉集』と令制化の歌人たち、2019)が、高橋虫麻呂について言われたのより底が浅いように思える。要するに、村田氏においても、高市の行動は史実ではないという吉永氏の説の真意についての批判になっていないということであり、和※[斬/足]、不破山越えの矛盾の解答には役立たないということである。