2301、そがひ2

2301、そがひ2
小野寛『大伴家持研究』笠間叢書145、1980,3,31、「そがひに」考(初出『論集上代文学』第九冊1979,4)
この方のも印象に残る。しかも山崎氏の9年後だ。
池主の「そがひ」をまず考察している。そこに、
土屋私注は、
 ソカヒは正面でないことであるが、ここなど遥かの意がある如くである。
といい、口訳は「遙かに見える」としている。越中国府あたりから立山連峰は、およそ五十五キロのはるか空の彼方にある。
と引用している(私注は確かにそう言っている、そしてそれだけしか言っていない)。私注は山崎より遥か以前だが、すでに「遥か」と言っている。しかし山崎氏は紹介していなかった。当然見ているだろうが、私注では根拠を示さず、他の「そがひ」を遥かとはしていないので略したか。
小野氏は各用例について、丁寧に注釈類を検討し、批判したあと、ようやくり第5節で、山崎氏の説を長く引用し、
 古い「背向」の表記で示された、山崎氏の言われるところの「語源意識」が失われて、万葉時代には新しく「そく(退)」にかかわる意味で用いられていたとすれば、万葉の表記の通例によれば「背向」の表記も失われるはずである。しかるに集中、漢字表記例はすべて「背」が用いられている。
とされる。やはり、「遥か遠く」の意味とすると、「背」の字が違和感があるのである。
そこで、小野氏は、
さて、「そがひ」の意味は「背」一字で表記されうるものに間違いない。「背」は集中、次のように用いられていた。
  地名「山背」(→ウシロ) 一  
  動詞「ソムク」      三  
  「背トモ」の「ソ」    一
 「背」はそむくの意である。
  飛ぷ鳥の明日香の河の…ながかひし よろしき君が 朝宮を忘れ給ふや 夕宮を背き給ふや(巻二・一九六)
と歌われているように、「そむく」は離反し、離れ去る意である。
とするのである。これは全くその通りなのだが、「ソムク」がなぜ「ソガヒ」になるのか、以下最後まで読んでも、一言の説明もない。ただ、離反し、離れ去るという意味に解釈すればすっきりすると言うだけである。しかも大方、動詞の意味ではなく、遠く離れたところといった名詞、離れた状態でと言った副詞の意味で解釈している。「ソムク」がなぜ「ソガヒ」になるのかを説明しないと、「離反し、離れ去る意」にはならないだろう。「背」という漢字で書かれているからそう言う意味になるので、読みは関係ないでは説得力がない。「さき竹のそがひに寝しく」で山崎氏の説に賛同されたが、「やますげの」の方は認められなかった。私はそちらも山崎氏の説でよいと思う。「遠く離れたところ」でも、「遥かかなた」でも、ほとんど同じで、しかも「背」の難点を解消させることも出来なかった。それなら、山崎氏の説の方がましと言えよう。ただ、後ろとか斜め後ろ、横とかいう通説を山崎氏よりもさらに詳しく批判したところが取り柄と言えよう。しかし、「背」あるいは「向」も、ひっかかるのか、この、山崎、小野説は、今のところ、ほとんど問題にされていないようなのだが。もう少し、他の説を見てみよう。