2300、「そがひ」考

2300、
さしあたって、すぐに調べたいものはない。取り敢えず、古く何度か調べたものの中で、なにか新しく考えが出そうなものから一つふり返ってみたい。もういちど徹底的に調べる気もないし、なにもでないかも知れない。その時は消してしまう。

【原文】  山部宿祢赤人歌六
三五七 縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下
三五八 武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
三五九 阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
三六〇 塩干去者 玉藻苅蔵 家妹之 濱※[果/衣]乞者 何矣示
三六一 秋風乃 寒朝開平 佐農能岡 将超公尓 衣借益矣
三六二 美沙居 石轉尓生 名乗藻乃 名者告志弖余 親者知友
     或本歌曰
三六三 美沙居 荒磯尓生 名乗藻乃 吉名者告世 父母者知友
阿蘇全歌講義による。
357 縄《なは》の浦《うら》ゆ そがひに見《み》ゆる 沖《おき》つ島《しま》 漕《こ》ぎ廻《み》る舟《ふね》は 釣《つり》しすらしも
358 武庫《むこ》の浦《うら》を 漕《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》 粟島《あはしま》を そがひに見《み》つつ ともしき小舟《をぶね》
以下略
ここにある「そがひ」は一つの万葉集の謎で、数多くの論文が書かれてきた。私も早くに興味を持ち、ほぼすべての論文を読んで、まとめたことがある(原稿は残してある)。こういうのは、先行論文に首を突っ込むと、その論点しか見えなくなって、新しく考え直すのがむつかしく、一部分にちょっと目先を変えた論点を示して、論文をしあげてしまうことになりやすい。だから半分以上が先行論文の紹介になってしまう。
今改めて読んでみると、なぜこの巻三の赤人の歌に初めて出るのかといったことを思う。巻一、二に出ないで、巻三以降に出る語も多いだろうが、なぜここで赤人の作なのか、というのが、奇妙な語だけにちょっと引っ掛かるのである。
阿蘇の訳。
三五七 縄の浦から背後に見える沖の島を漕ぎ巡って行く舟は、釣をしているらしいなあ。
三五八 武庫の浦を漕ぎ巡る小舟よ。妻に逢うというアハの名を持つ粟島を背後に見ながら、漕いでゆく羨ましい小舟よ。
「背後に見える」とか「背後に見ながら」とかでは、何を言ってるのか分からない。まさか背中に目があるわけでもないだろうに。だから色々と辻褄をあわそうとする説が出るわけだ。六首のうち残り四首が素直な詠みぶりだけに余計に引っ掛かる。
阿蘇は、語注で、「そがひ 背後。ソは、背。カヒは、方向。」とするだけで、普通なら五月蝿い程にいろいろある説を紹介するのに、一切何も触れず、また背後に見るの補足説明もない。た六首の構成への言及もない。そっけないものだ。

ついでに、多田全解。
357、縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。
ここは、「沖つ島」が、縄の浦に対して背中合わせに向き合う位置にあることを示すのだろう。

358、武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、羨《うらや》ましくも漕いでいく小舟よ。

島が浦に対向するとか、背中合わせに向きあうとか、背に身ながら、とか、ほとんど説明になっていない。無機物が背中合わせというのは、譬喩でない限り無意味だし、背に見るというのも、阿蘇の所で言ったように、物理的に無理な感じだ。大量の注釈書類を見てもよく分かる説明は期待できないので、これでやめる。それに、赤人はなぜこういう意味不明の言い方をするのかが問題なのに、それを解決する注釈書類も無いようだ。

山崎良幸『万葉歌人の研究―文芸の創造とその表現―』風間書房、1972.7、所収「「そがひに見ゆる」考」が便利なので、そこから全用例を引用しよう。

 1 縄の浦ゆそがひに見ゆる(背向尓見)沖つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも(三・三五七)
 2 武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ(背尓見乍)羨しき小舟(三・三五八)
 3 春日野をそがひに見つつ(背向尓見乍) あしひきの 山辺を指して(三・四六○)
 4 天さがる 夷の国辺に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ(背尓見管)…波の上を い行きさぐくみ 岩の間を い行き廻り 稲日都麻 浦廻を過ぎて(四・五〇九)
 5 雑費野ゆ そがひに見ゆる(背ヒ尓所見) 沖つ島(六・九一七)
 6 わが背子を何処行かめとさき竹のそがひに寝しく(背向尓宿之久)今し悔しも(七・一四一二)
 7 筑波嶺にそがひに見ゆる(曽我比尓美由流)葦穂山悪しかる咎もさね見えなくに(十四・三三九一)
 8 愛し妹を何処行かめと山菅のそがひに寝しく(曽我比尓宿思久)今し悔しも(十四・三五七七)
 9 朝日さし そがひに見ゆる(曽我比尓見由流) 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山(十七・四〇〇三)
 10 三島野を そがひに見つつ(曽我比尓見都追) 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと(十七・四〇一一)
 11 此間にして そがひに見ゆる(曽我比尓所見) わが背子が 垣内の谿に(十九・四二〇七)
 12 大君の命畏み於保の浦をそがひに見つつ(曽我比尓美都〃)都へ上る(二十・四四七二)        
一応、山崎論文を読んでみた。すでに何度か読んだものだが、まったく記憶になく、あらためて新鮮な感じで読めた。そして、私が予想した解釈とぴったり一致したので驚いた。いろんな説を前提にしないで虚心坦懐に考えた結果が、寸分違わず一致したのだから、以前詠んだ時にはやはり有力な学者の説にとらわれていたと言わざるを得ない。

 以上集中のすべての用例にわたって」「そがひ」の語において「うしろ」または「背後」の意を表わすものと解しなけれはならない必然性は、遂に見出しがたいと云わざるを得ないのである。それどころか、そう解したのでは、歌意がかえって不自然にすらなるはずである。「そがひ」の「そ」は、むしろ「そく」や「そき」「そきへ」等における「そ」と意味的関連をもつものと解して、これを「遥か彼方」の意を表わすものとするならば、すべての用例にわたって合理的な説明が可能になるのではないかと思うのである。

これが結論であった。引用しなかったが、「そがひに寝る」の解釈も目からうろこであった。同じ蒲団で背中合わせに寝るなどという生やさしいものではない。蒲団そのものを別にして寝るのだ。これでこそ、心理的には「遥か彼方」で寝るというものだ。
あっさり結論が出て、なんとなくあとを続ける気がしなくなったが、山崎論文が1972年に出てから、すでにほぼ50年もたっているが、阿蘇、多田で見たように、山崎説は全く無視されて、相変わらず後ろの方向などといっている。

山崎説では、「背向」「背」という「そがひ」の表記を、
「退き」、四段、《ソ(背)・ソムキのソと同根》遠ざかる。
         名詞、はて。辺境。
退き方、《へは辺境》遠く離れたところ。そくへ。(以上、岩波古語辞典)
と関連づけている。ついでに、岩波古語で「そがひ」を見ると、通説と同じ。時代別も同じ。ただし「背中合わせ」の意味は載せない。「退く」「そきへ(そくへ)」も同じ。

即ち「そがひ」と「そむかひ」との間の語源意識による結びつきが失われると、「そ・がひ」という分析意識を生じ、そこに「そがひ」の「そ」と、「そく」や「そき」「そきへ」における「そ」との間に意義的類推が成立するわけなのである。かくて「そがひ」の語は、「うしろ」または「うしろの方」の意よりも、むしろ「そき」や「そきへ」の語に引かれて、「遥か彼方」とでもいうような、いわば遙か遠くに望み見る場合に用いられることとなったのではなかろうか。しかして「そき」「そきへ」の語が、一般に視界外の場所をいうのに用いられたのに対して、「そがひ」は視界内の場所、即ち遠望できる場所を表わすのに用いられたのであろう。

と、山崎氏は言われる。意味の混淆の結果「そき」や「そきへ」の語に引かれたて意味が変わったということだが(「そがひ」が死語になり「そきへ」の意味が混じってきたということか)、我田引水の感がなきにしもあらずで、これが支持されない理由だろうか(複合した時清音になって濁音にならないのが弱点とも、山崎氏は言う)。「背向」の「背」という表意の漢字で、遠くにとか遠ざかるとかいう意味にはならないだろうと言うのも根拠だろう。「そき」「そきへ」の万葉の用例が「曽伎」「曽伎敝」しかなく、「背」の字を使わないのも引っ掛かるが。しかし、「退き」の「そ」は、ソ(背)と同根とあるのだから(岩波古語)、無関係とは言えないだろう。歌の解釈という点では「遥か遠く」の方が合理的だから、山崎説でいいと思うのだ。