2288、耳我嶺考(継続中)

2288、
6、「初期万葉」、阪下圭八、平凡社、1978.5.17、天武天皇の吉野の歌
このころになると著名な論文も増えて、阪下氏の引用されたものも多く、氏の文も長くて複雑だ。まず氏の引用されたものは、
松田好夫(検討済み)
沢瀉久孝(検討済み)・西郷信綱(万葉私記)
伊藤博万葉集の構造と成立上)
都倉義孝(耳我の嶺の山道)・露木悟義(万葉集を学ぶ第一集)
だが、ここまでくると、あとは坂本信幸氏のを加えるだけとなる。阪下氏のが終わったら、まだのものは皆見てみよう。
阪下氏も、まず読解から始める。そして25番歌を天武の壬申の年の体験を回想した歌だと解く。このあたり、高木、沢瀉とほぼ同じである。序は譬喩であり童子に経験した情景というわけだ(しかし何度も言うように、それを土屋説の耳我嶺とすると、たちまち机上の空論になる)。他の三歌(26番、をはりだ、みかね)の歌謡性と比較すれば明瞭だとも言う。25番歌は集団的な歌謡の特性を生かしつつ、全体は個の表現として成立すると言う。
「をはりだ」が最初で、そこから26番歌が出来たが、この変化には内容的に大きな落差があるので、媒介としてX(書紀歌謡の「吉野の鮎」のようなもの)が必要だろうという。それを初稿にして、25番(推敲の結果の完成形態)ができ、最後に「みかね」ができたと言う。「みかね」を最初に置かないのは、その「みかね」という地名が根拠で、これは文武朝以降だろうという。これは大賛成である。また「をはりだ」を最初とするのは、天武朝の伝承歌らしいことが、当時の「小墾田舞」から分かるということからだとする。細かいことを言えば、それは即位後の事で、壬申の乱の時の事ではないから、耳我嶺とは関係ないとも言える。xについても、25番の後、あるいは別の存在とも言える。鮎の苦しみが雪の山道の苦悩を呼び出すかどうか疑問だ。最後にA→Bではなく、B→Aだというのも、疑わしい。比較表では、何故か、耳我嶺と耳我山との違いに触れられていないが、山と認識して、歌われていたものが、突如、嶺に変わるだろうか。実体験では明らかに、嶺であったものが、その体験を持たない伝承者によって、実体から離れた、山、という表現になった(角が取れた)と見る方がまともだろう。25番が完成形態なら、もし26番が初稿としてあったとしても、質に大きな違いがあるのだから、すてられただろう。つまり、26番も天武の作とする阪下氏の説は認めがたい。たとえ天武の作と伝承されたとしても、それは25番のくずれたもので、伝承による変形であろう。以上。
7、万葉私記、西郷信綱未来社、1970.9.10、初版1958、東大出版会
26番との比較で、まず、「嶺」と「山」の違いに触れたのはさすがに西郷氏である。ミ…ミ…ミという音感だけでなく、「やま」はしょせん山だが「みね」は山の高峻を示すということがある、というのも全く同感で、それは現地の景観からも言える(西郷氏は地理にはうといようだが)。ということで、異伝26番のこの部分は落ちるという。その他序から譬喩表現やそれを承ける結末などから、伝聞の26番が天武の個人体験を運命的に回想する25番へと変わることを言う。
類歌との順番で言えば、やはり「をはりだ」が先で、飛鳥地方の相聞の歌謡から形式と旋律を受け継いだのだろうという。天武の個人感情の歌である25番は、本来の「をはりだ」歌謡の根底を失って居らず、再び、歌謡となって26番となり、さらに相聞生までとりもどして、「みかね」の歌になったのだという。そういう個人の文学と歌謡とが往復できたのは、時代のもたらしたものだという。
細部(地名や地理の問題とか)はともかく、歌の順番は西郷氏の言うところに賛成である。