2295、耳我嶺考(継続中)

2295、
高木の紹介した説は、結局どこにもない。高木が紹介したのと同じ説を私注が言っている(2272参照)。
「御製は、現に耳我の嶺を越えられつつの作で、御金嶽を遠望しての作と解すべきではない。」
御金嶽、つまり通説の耳我嶺を遠望してどこかを歩いたのではなく、細峠あたり(土屋の言う耳我嶺)を越える時の歌だと言う。耳我嶺を遠望しながら、どこかの山道を越えたというように紹介しているところは、高木よりやや詳しい。しかしその場合「その山道」の「その」はどういう意味になるのかといったことは一切紹介しない。それに、遠望しながら細峠辺りが越えられるものか疑わしい。
奥野健治・大和志考決(下)(2000.1.1)
「「その山道を」は今越え給ふ飛鳥・吉野路、即耳我嶺に通ずるものと思はれゐたりし飛鳥よりも吉野山に通ずる路、再び云はば三吉野之耳我額にて代表せらるる吉野山への路を表す句にして、…、此場合に於ても、「其の山道」は即耳我嶺に達し得らるるものと認められたる山越路と見て、右の如く吉野路を意味するものとせば、通説の如く耳我嶺と「その山道」とは分離して観察し得るにあらずやとも思はる。」ともいう。
ここに始めて、耳我嶺と「その山道」は分離しうるという説が出た。高木説、私注説で紹介されたものが、50年以上も後にでたわけだが、それを奥野が通説と言っているのは全く理解できない。通説どころか、奥野が始めていった新見である。ただし、遠望したのかどうか説明していないし、また「その山道」の「その」をどう理解するかということも触れないし、以前言ったように、芋峠あたりの道を「吉野路」を意味するものとは思えないということもあって、どうも煮え切らない説だが、とにかく、耳我嶺山中の道と天武が越えた芋峠道とは別だという見方を示したのは評価できる。
以下それを展開した私見は、2274~2277で述べて置いた。

補足
〇和歌大系、「「耳我の嶺」が吉野のどの山に相当するか不明。」「場(状況)に依存した表現で、歌詞にそれがあらわれていない。
2293で紹介した稲岡の「状況依存の歌」では、「その山道」について状況に依存した表現としたが、「耳我嶺」もまた、ここで稲岡自身が言っている通りである。