2292、耳我嶺考(継続中)

2292、
17、垣見修司、天武天皇御製歌と巻十三の類歌、萬葉語文研究第3集、和泉書院、2007.6.30
これは直接坂本氏の論をうけたものである。
坂本信幸氏「…」では、それらの歌群に見られる表現の考察を通して、いくつかの問題が解決し、天武天皇の心情を詠んだ歌であることが、あらためて明らかにされたと言ってよい。
 これは前置きにあるものだが、すでに検討したように類歌の関係以外については、解決した言えるようなものはなかった。
ABCDの関係については、いまだ定説といえる見方はない。…。本稿の目的は、成立過程に関する混沌とした現状を整理し、これまで述べられていることのどれが正しくどれが誤りであるかを見極めつつ、ABCDの関係をもう一度とらえなおすことである。また、それによりCDが巻十三に載せられることの意味についても言及したい。
 これも前置きにあるものだが、ABCDの関係については、小異はあるものの、沢瀉説が定説と言える状態であろう(坂本氏もほぼ沢瀉説と同じであった)。それはともかく、諸説の点検が長い。よく勉強されているという印象が強い。そして、おおかた坂本説を従うべきものとしているようだ。ちょっと張り合いがない。唯一違うところは、坂本説が沢瀉説のように、A→B→Dとしたところを、
  C…B→D
    ↓
    A
としたことであろう。これはすでに出ているC→B→A→D(吉井説など)の説を少し変えたので、Aを一連の流れからはずして、独立させたもので、そしてBを初稿、Aをそれの改作とする(高橋氏に同じような説があるということだが未見)。それについて、坂本説にはなかった観点をだしてきたところがこの論文の取りどころといえよう(ただしそこにも坂本説は多く使われている)。こまかく漢字表記を比較していって、Aには民謡にはない、書記の効果をねらった表記上の工夫(対句のような)があるというのである。また耳我嶺と耳我山について、意味としてはどちらでも同じだから、「み」の音韻効果をねらった改変という。これなどは、地理を無視したものである。西郷氏のは、そこまでは言っていないが、実体験からは「耳我嶺」でなければならないという観点が抜けている。「芳」が「吉」に変わったのも推敲の結果だというのだが、そうだろうか。書紀では皆「吉」だったのが(再確認はしていない)、続紀の文武になって「芳」になり、以降聖武の時代には、ほぼすべて「芳」になっており、その字を使った木簡も出ている。つまりB→Aの流れで、「芳」→「吉」になったのではなく、Aが伝承されて、文武以降の時代に改変された結果「吉」→「芳」になったと見るべきなのである(ただし、聖武の吉野行幸での宮廷歌人の吉野歌では、「吉」「芳」どちらも使われているが)。Cから、Aへは、直接には変えにくい。それほどに、Cの型としての規制力は強く、まずCに似たBができ、そこからより天武の体験に近づけるべく専門詞人の手によって推敲されたのが、Aだというのである。ここで不思議なことは、坂本説が強調したX(「隈も落ちず」に見られる旅行きの型)が全く無視さている事である。これが坂本説との一番の違いと言ってもいいが、なぜ無視したのかその理由は説明されていない。坂本説によれば、Xがなければ、Cからは、AにもBにもならないということだった。私もXは不要だと思うが、それは、天武の実体験があれば、Xなしでの、CからAへの改作は可能だと思うからだ。
 Aについては天武天皇がそれだけの技量を持ち合わせていたとも考えられなくはないが、吉井氏や、坂本氏に言われるように、その可能性はあまり高くないと思われる。
というが、私は、天武個人がその程度の力量を持っていたと思う。CからAへはそれほどの相違があるわけでなく、天武の個人体験を踏まえたら、曾倉氏の言われるような替え歌的な個人詠は出来る。いくら専門詞人でも天武の個人体験を追体験することは無理であろう。また、天武自身も漢籍の教養は深かったはずである(天文・遁甲なども漢文力が必要)。

坂本氏の言われる詩経の典拠というのは行き過ぎであるということ。
中西氏が魏武帝「苦寒行」の天武歌への影響を指摘したのたいして、それの「雪落何靡靡」の李善注の「毛詩曰雨雪靡靡」(六臣注によった)を引いて、李善注が引いた毛詩の「小雅」の「采薇」の「雨雪靡靡」(坂本氏はこれの雨を動詞に読んでいる)は引用間違いで、「国風」のほうの「北風」の「雨雪其靡」が典拠だとされる。それはその通りだろう。「采薇」では、雨や雪が降るとなって、「苦寒行」の雪だけの注としてはおかしい(天武の歌への影響なら、その方がいいわけだが)。李善は勘違いをして、「苦寒行」の意味に合わせるべく「雪を雨(ふ)らすこと靡靡」と読んだのだろう。
で、その「北風」の方の「雨雪」の「雨」を、坂本氏は、今度は動詞に読まず、名詞として読む。そして李善注の方も名詞に読むべきだというのである。これはなんだろう。明らかに矛盾している。先に動詞だとしたのは、誤植か、うっかりミスか。ともかく、「采薇」の方は、雨も雪も名詞でいいが、「北風」の方は、「雨」を動詞に読むのが普通だ。坂本氏は名詞に読んでいる例を出されたが、吉川幸次郎詩経国風 上」(158頁)では、「雪を雨らして其れ靡(ち)る」とし、一連目の「雨」の注で「雨の字は動詞。ふる。…。名詞のあめ…に読む…経典釈分にはあげる。」とする。一応名詞に読む説も出すが、結論としては、動詞に読むのである。「采薇」の場合は坂本氏の言うように名詞でいいが、「苦寒行」はもちろん、「北風」の場合も、激しく降る雪のことを言っていているのであって、文脈が違うのである。あまり有名な出版社の本ではないが、貴州人民出版社「詩経全訳」では、「雨雪其靡」を「紛粉大雪満天飛」と訳している。一連目の注で「雨」は動詞だと言っている。一連目では烈しく雪が飛ぶという意味にしかならないから、二連目の「雨」は動詞に成らざるを得ないのである。
結局、「采薇」の例なら、雨と雪を詠んだ天武の歌に合うが(ただし雨雪以外は似ていない)、主題的に似ている「苦寒行」や「北風」は、大雪のことなのだから、雨と雪を詠む天武の歌には合わないのである。坂本氏は、「北風」の方も、名詞としたから、「采薇」も含めてどちらも天武の歌に影響しているとする。これは行き過ぎであろう。私もいろいろ漢文を読んできたが、「雨雪」とある場合、例外なく「雨」は動詞だった。「采薇」のように名詞に読むのは非常にめずらしいのだ。とにかく、天武の、雨、雪について、漢籍の出典を云々するのは行き過ぎと言ってよいだろう。天武の場合は、あくまでも実体験による(大峰の高峰を遠望したという実体験)。