2296、耳我嶺考(継続中)

2296、
西郷が、序詞の部分を、本旨の部分の文脈指示を受ける部分とも見なして、序詞と本旨の混じり合った歌と見なしたのを批判したが、「その山道」の「その」は果たして文脈指示とみなしてよいのだろうか(私はそうではないとした)。そこで、集中の「その」の用例を見ると、30例近くあった。文脈指示云々のまえに、その用例の中に西郷の言うような序詞が二重の機能を持つような歌は見当たらないようだ。ところで、「その」を、時代別で見ると、
現場指示の用例はほとんど見当たらない。被修飾語が文脈中にすでに表現ずみ、もしくは了解ずみであることを示す。
とある。岩波古語も、現場指示云々を除いた部分と同じである。30例近くあるのも、巻が進むにつれ、時代が新しくなるにつれ、辞書の説明で疑問なく解けるものばかりになる。そこで天武の歌に似たものはないか、古いものを少し点検してみる。

補足、序詞について。上野・鉄野・村田編「万葉集の基礎知識」角川選書、2021.4.23
の大浦誠士の説明によると
歌の主想とは一見関わらない、概ね物象についての叙述が転換の契機を経て主想部へとつながってゆく表現形式における、前半の叙述に対して与えられた名である。
とある。今までもこういう説明を付されているが、最新のもので分かりやすい。また「「共感の様式」[大浦 二〇〇八]と呼び得る歌の形と見ることができる。」とも述べられていて、天武の歌の序詞的な部分(雨雪の降る耳我嶺の山路)を、個人的な体験の描写として理解することの不都合さを示す。

4玉尅春 内乃大野爾 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝蹈ますらむその草深野

さっそくこういうのがある。この「その」は何か。いうまでもないがこの歌に序詞及び序詞的な表現はない。
窪田評釈、金子評釈、全釈、茂吉万葉秀歌、釋注、全注、特に説明はない。「たまきはる内の大野」を「その」で受けたと言った程度。
講義、「その」は「内の大野」を指す。
新編全集、「あの草深野を」と訳すだけで説明は一切ない。この訳だと文脈ではなく、観念上の「内の大野」を指すように思えるが。25番歌でも「あの山道を」と訳していた。
新大系、一切説明なし。「その草深野よ。」と訳すだけ。
武田全註釈、「ソノは、上の朝踏マスラムを受けて、これを代理指示している。」一寸変わった説だが、全註釈そのものの訳「…朝お踏み遊ばしてでございましよう。その草の深い野を。」とも合わないようで、無理だろう。
新編全集の訳が「その」ではなく、「あの」となっているのがちょっと変わっているが、耳我嶺のときと同じで、その訳の根拠は言わない。ほかは特に言う程のものはない。

補足、耳我嶺の「その山道」の「その」について、辞典の説明だけでは分かりにくかったが、次の説明で納得できるように思う。
日本語指示体系の歴史、李長波、京都大学学術出版会、462頁、5200円、2002.5.30    

  二上の峰の上の繁に隠りにしその〔二字右・〕(彼)ほととぎす待てど来鳴かず(万葉集・四二三九)
 この「その」の指示対象は先行文脈にもなければ、「その〔二字右・〕(彼)ほととぎす」は「いま・ここ」の現場に現前するものではない。それは過去の経験に基づいてのみ了解可能なものであり、時間的には過去に属するものと考えられる。このことは時間性の名詞に付く「その」の場合いっそう顕著になるようである。
  ぬばたまのその〔二字右・〕(其)夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを(万葉集・三九二)
〔中略〕
 このような「その」は、現代語なら「あの」を用いるところであるが、これによって、おそらく「カ」が分化するまでは、「ソ系」は後の時代の「カ(ア)」の領域まで広がっていたのではないかと推測される。
 現場指示の場合でも「その」が話し手からも聞き手からも遠くにあるものを指す用法を持つこともこれを裏付ける。

新編全集が「あの」(時間的に過去に属するもの)と訳したのは、これの影響だろうか。これだと、文脈指示として理解してはいけないと言うことになるが。この4番歌も25番歌も、文脈指示ではなく、過去の体験に存在する「あの草深い野」「あの山道」で共通する。かつて行ったことのある草深い内の大野を、今天皇達は馬を歩ませているだろうか、であり、あの近江からの吉野への隠遁で物思いに耽りながら歩いたあの山道、である。それは地理的風土的に耳我嶺の山道ではなかった。
補足、李長波氏は、「「その」の指示対象は先行文脈にもな」い、言われたが、状況依存の隠れた文脈(過去に属する)にあると考えると、これも一種の文脈指示と見なせる。つまり辞典の説でもいいわけだが、詳しく分析すればそうなるということである。
(続く)