2290、耳我嶺考(継続中)

2290、
9、耳我の嶺の山道――万葉集二五番歌の構造と背景――、都倉義孝、国文学研究 早稲田大学国文学会 通巻48 1972.10。
論点をまとめて、
(1)「来」は「来し」と訓むべきか。「来る」と訓むべきか。(2)「其山道」は回想の場面か、眼前の景か。すなわち、詠者の視点をどこかに求めるか。(3)「念」の内容は何か。恋慕の情か、天武吉野隠栖時の憂悶か。(4)詠歌の時点如何。すなわち、天武即位前の吉野隠栖行の際か、即位後か。(5)天武ははたして実作者か、仮託(2)か。(6)類歌三首(一26・一三3260・3293)との関係如何。
の6項目にしている。この論文までの論点としてよくまとまっており、以下のその点検考察も丁寧だが、残念なことに「耳我嶺」の地理的な考察が完全に抜けている。冬至は既に土屋をはじめいくつかの地理考証も出ていた。そして、西郷などの読解、つまり、雨や雪の降る耳我の嶺の山中を、憂悶しながらたどった体験を回想したものとするのを、定説のように扱っている。以前にも言ったように、地理的な条件からして、この説は全く成り立たないもので、机上の空論といって良い。
次にはじめに二五番歌のみに焦点にあてるとことわっているように、(6)、つまり類歌との関係については、極めて簡単にすましている。伊藤博の巻一三論を定説として全面的に認め、それを宮廷歌謡集と規定し、「をはりだ」(天武の時の小治田※[人偏+舞])の歌詞で、天武の好んだものだろうという)の歌と、「みかね」の歌をもとにして、二五番歌が作られたという。そのさい二六番歌のほうが、「をはりだ」「みかね」に近いので、これが先に作られ、それを天武の個人詠に仮託して、改作されたのが二五番歌だろうという。そういう天武天皇物語のような仮託は、天武への思慕が強くなった持統朝のもの(中西説と同じ)だろうという。
「耳我嶺」の地理が破綻していて、大方机上の空論となったものだが、この類歌との順序についても、付け足しの論とはいいながら、かなり無理なものである。「耳我嶺」という地名の鮮明さからいって(西郷のいうような)、最初に「耳我山」と詠まれ、改作で「耳藁嶺」になったとは思えない。それに仮託というのも信じがたい。また、「みかね」が「耳我」より前というのも、西郷の言うようにありそうもない。
10、中西進万葉論集第2巻、万葉集比較文学的研究(下)、講談社、1995.5.15(元版 1963.1) 第一章 「清き河内」――吉野歌の問題 二 万葉集の吉野歌
壬申の乱が重大な歴史的事件として意識され、中でこの吉野入山が大きな物語のさわりだった。この歌はその中に採用されたものだが、その背景として楽府詩「苦寒行」が考えられる。その一つ魏の武帝のものは天武歌とよく類似している。それらの連想が天武吉野歌を固定させる原因の一つであったろうと想像するのである。(要約)
といったように、25番歌の成立の契機として「苦寒行」を指摘する。
「苦寒行」以外の内容はだいたい都倉氏の論文にそのまま採用されている(おおかた通説でもあるが)。これで終わりであって、類歌との前後関係や影響関係などは何一つ論じられていない。
11、萬葉集二五番「天皇御製歌」、戸谷高明、和歌文学研究 通号1 1956.04 和歌文学会編
これは発表がかなり早い。沢瀉、西郷論文の次に来るようだ。都倉氏と同じで、論題通り、二五番歌に絞ったもので、類歌との関係にはほとんど踏み込まない。沢瀉、西郷説を、
民謡から個性詩へ、更に伝承歌へという発展・流転を推定されているのである。
とまとめ(をはりだ→二五番→二六番→みかね)、それを否定しようと言うのが主題である。二五番から二六番への流れは、考えがたいとして、折口や窪田の説を援用して、二五番は天武の個人作ではなく、恋の民謡であって、歌う人の立場によって、二五番のようにも、二六番のようにもなるという(だから天武の個人作が二六番のようにはならないという)。「をはりだ」と「みかね」を比較すると、結句あたりの表現の違いから、「をはりだ」の方が素朴で、早い時期のものといえるという。二五番歌が天武の個人詠に近付いたのはみとめるとしても、「とふ」が「ける」に変わっただけで、それほど個性が強く出るとは思えず、やはりもとの恋の歌の延長だという。要するに、天武の真の個人詠ではなく、天武に仮託されたものだろうという。このあたり中西、都倉氏とほぼ同じ。類歌との関係は明瞭ではないが、「をはりだ」(「みかね」も同時期に歌われていた)→二六番→二五番、のようである。
12、天武御製の性格、露木悟義、万葉集を学ぶ 第一集、1977.12.15
沢瀉、西郷、松田説などを紹介しながら、それらを認めず、都倉説を支持するという。そして、みかね→二六番→二五番とし、「をはりだ」は、「みかね」との同時期の伝誦で、影響関係はあるとしても、先後関係はないとする。「みかね」から二六番になるときに、恋の思いとは異なった理念に転化したとする。その契機は持統朝の吉野行幸時の天武思慕にあるという。そして天武の歌のすべては持統朝の従駕詞人の作とする(中西説の引用とことわっている)。しかし、西郷も言っていたが、「みかね」の地名は文武朝の出現のようで、それが先になって、耳我嶺の地名に変わるというのはちょっと考えがたい。都倉、戸谷、露木氏に共通することだが(ここまでの論はみなそうだが、特にこの三氏)、耳我嶺の地理的な背景について、全く一言も触れない。「をはりだ」「みかね」の地理についても無視。これでは、類歌との関係はおろか、二五番歌の理解も砂上の楼閣になる。以前にも言ったが、雨や雪の降る吉野の山中を暗い物思いに耽りながらたどった、などということは、地理的な条件がとうてい許さないのだ。奈良県出身の石井庄司氏の論考を参照すれば万葉集の吉野歌の地理の理解に参考になる。どなたかも言っておられたが、奈良県で生まれ育った人間には、他県人には分からない微妙な地理感覚がある。私のような奈良盆地で生まれ育った人間には、吉野といえば独特の地理感覚がある。
13、天武天皇歌の課題、森淳司(もりあつし)、万葉とその風土、桜楓社、1979.4.20(初出1974.10)
二六番歌は、「をはりだ」「みおかね」の歌との親近性が強い。それをもとにして二六番歌へ、そして二五番に転化し、天武作のように仮託されたのであろうとする。四首はすべて民謡で、「をはりだ」がもとで、吉野に流れて「みかね」になり、「みかね」が「耳我」となって、二六番歌となり、それが二五番歌となったとする(あるいは「みかね」から二五番歌ということもありうるとする)。これは、この論文のわずか2年前の、都倉義孝「耳我の嶺の山道――万葉集二五番歌の構造と背景――」とほとんど同じと言っていい。違うのは、巻一の配列や類歌との表現の親近性から、天武の個人詠説を強く否定したところだろう。都倉説でも言ったが、この森論文も、風土(地理)が全く無視されている。
14、天武御製歌と周辺の歌、曾倉岑、国語と国文学 59(11) 1982.11
これは今までのより新しく、論点も類歌四首の順序に絞ってある。
「天武八年五月、吉野宮で天武天皇自身が歌謡を踏まえて作歌したことを前提として稿を進めることにしたい。」とまずことわる。
類歌との関係で先駆的で今も影響の大きい、松田と沢瀉の両論文を丁寧に批判する。
 民謡の曲節に乗って、一種の替え歌として、個人が自己の体験や感情、意志を詠み込むことも考えられるからである。その場合、その歌は純粋な抒情詩とは言い難いであろうが、民謡とはいっそう言い難いであろう。(松田への批判)
伝えられた表現――この場合、直接的表現か伝聞的表現かに限定して置く――をそのまま歌うのが原則ではないかと私は考えている。少なくとも歌われる場所の変化に伴って直接的表現から伝聞的表現に変化した確実な例の示されない限り、私は松田説の「伝誦の論理」を容認することができない。従って、この点を理由にして(A)を最も古いとすることを認めることもできない。(同上、Aは二五番歌のこと、他の批判は省略)
 同じ論法を沢瀉説が四首の最初とする(C)の歌に適用したらどうなるであろうか。「吾妹子に」「わが恋ふ」のであるから、既に「間無きが如」「時じきが如」とある句から直接続けばよいのであって、「止む時もなし」を重複する必要はない、ということになろう。同様にして、(A)(B)の「隈もおちず」も重複で、なくてもよい句ということになろう。従って、この点に関する沢瀉説は正しくないと言えるであろう。(沢瀉への批判、Cは「をはりだ」。「みかね」は二五番、二六番の後ということを否定している)
 「水汲みと男女の思慕」が古くからの民謡、歌謡の素材であったことは確かであろう。しかし、この素材が古い時期のみのものでないことも、例を挙げるまでもなく確かなことである。従って、この点は沢瀉説によっても確実に証明されているとは言えないことになろう。(同上、「をはりだ」が最初とする沢瀉説を否定、他の批判は省略)
 上代歌謡でも万葉集でも、伝聞的表現はそれを用いてしかるべき場合にのみ用いられ、例外は…ないように思われる。従って、…私は西郷・阪下氏の説を容認することができない。…(C)を最初とする考えを捨て、(C)は伝聞的表現を持つ他の歌謡の影響下に、その替え歌のような形で成立したとする以外に考えようはないと私には思われる。それならば(C)に影響を与えた、もとの歌謡はどの歌であろうか。(西郷、阪下説を否定、「をはりだ」は飛鳥のすぐ側で伝聞表現はありえないとする松田説を一応認め、それに対する、西郷、阪下の、歌謡だからこそ伝聞表現になったとする説を否定)。
 そしてC(をはりだ)に影響を与えたもと歌はD「みかね」だとする。阪下など、「みかね」は文武朝以降とするが、天武朝にも「みかね」の地名は知られており、宮瀧あたりから日々目にしていたであろうとする(これはありえないことである、宮瀧はもちろん、その周辺の山に登っても「みかね」(今の大峰山は見えない))。なお、曾倉氏は、天武の吉野入りで越えた「耳我嶺」を飛鳥吉野間の山地とするが、これもまた、何度も言うように不可能である。この人も地理の検証が貧弱だ。
 同時に降っていたと考えることも雪から雨に変ったと考えることもいっそう困難になる。やはり体験に基づく句とみるより、既存の歌謡に引かれた句と見るべきであろう。(D)の場合はいつも雨か雪が降っているという想像に基づく「御金高」の状態を一般的に対句を用いて表現したとみて何ら問題はない。以上のように考えるならば、(A)は(D)を踏まえて作ったものということになろう。
ともいう。これだと、天武が、飛鳥吉野間の山越えで、雨や雪に降られたというのは、体験ではなく、「みかね」などの歌謡に引かれた句となるが、それをも体験から除外したら、二五番歌の中で、天武の個人的な苦悩の体験をあらわすものが大方無くなってしまう。やはり行き過ぎであろう。
 まだ論点は残っているが、直接論文に当たって頂くとして、結局作品の順序は、
D(みかね)→A二五番→B二六番
D――――――――――→C(をはりだ)
DはBにも影響与えているとする。つまり沢瀉のいう、二五番から二六番への転化にはD(みかね)の媒介が必要と言うこと。
 以上、だいたい沢瀉説によりながら(A、天武自作、B、その歌謡化というところ)、「をはりだ」ではなく、「みかね」を最初に据えるところなど独自の考察と言えよう。
15、巻十三長歌反歌、吉井巖、万葉集を学ぶ第六集、1978.6.30
沢瀉説の枠組みをだいたい支持して、
「をはりだ」→二五番→二六番→「みかね」
「をはりだ」――――――――――→「みかね」
としたが、下の「をはりだ」→「みかね」の線は否定し、また、二五番→二六番を二六番→二五番とする。