2293、耳我嶺考(継続中)

2293、
〔追記、「ただか」について、容貌という意味かと言ったが、「童蒙抄」の「みかね」の注で、「容貌有樣の事に聞ゆ」とあった。〕
天武歌で、「耳我嶺に雨や雪がしょっちゅう降るように、しょっちゅう、どの曲がり角も落とさず、思いながらやってきた、あの山道を」とあるのは、類歌に従えば、雨や雪が降るのは、しょっちゅう、を出すための序であった。ところが、西郷論文は、その序を実体験にもダブらせて、「その山道」(あの山道)の「その」が指示する場所とし、天武は実際に耳我嶺の雨や雪の降る山道を物思いにふけりながら歩いたとする。そして、苦悩に満ちた思いは、雨や雪の山道を歩くことによって、より深く感じられるといったような解釈をし、今ではそれがほとんど定説になり、誰も疑わない。実際、類歌に関して17本の論文等を見てきてが、すべてそうなっている。しかし、序詞の部分が実体の部分の具体的な描写にもつながる、といった、焦点の定まらない、統一のない歌など、あまりにも拙で、万葉集にある歌とは思えない。これは西郷氏が、天武の人間像を英雄的にとらえようとしたことの勇み足ではないだろうか。西郷氏以降だれも疑問を呈さないのは不思議だ。ただし、西郷氏の場合、指示語の「その」を根拠にして、この「その」は文脈指示で、序詞の部分の耳我嶺のこととするのであって、それが本当らしいので、大きく支持されたということもあろう。
だいたいどの注釈書も、この「その」を雨や雪の降っていた耳我嶺とするのだが、そうではないとする異説もあったことを高木氏「吉野の鮎」は指摘している(それを高木氏は詭弁だと言ったが、逆に高木氏のこそ詭弁だとは以前に言った)。ただし具体的にどの注釈書かは示されなかった。異説に従えば、「その山道を」は、耳我嶺の山道ではなく、実際に天武が辿った、別の山道だということになる。「あああの山道を」と回想しているのだが、それがどの山道かは歌に詠まれていないというわけだ。
この「その」の異説について調べてみたいが、そのまえに、こういう、歌に詠まれていないものを想定しないと理解できない歌について、稲岡耕二氏のいう「声の歌」を検討したい。
和歌文学大系1、萬葉集(一)、1997.6.25、稲岡耕二、明治書院
萬葉集への案内、二、声のうたと文字の歌、
状況依存的な思考
イ(書紀歌謡)、ロ(初期万葉の天武の「紫草のにほへる妹…」の歌)の表現が右のような性格をもつのは、理由のあることです。イもロも集団の中で、ある時、ある場所で歌われた歌と考えられます。共通の諒解を前提としながら歌われていますから、その場に居合わせた人々には自明のことは、言語として表現されていません。…紫草の根を、花と誤解されないように緻密に表現することも、不要なのでしょう。その点に表現としての自立性や客観性の不足を指摘することもできます。茂吉が「没細部」で「暗示的」と言ったのは、それを肯定的に評価した言葉です。場に密着し、言語外の状況に依存している表現――。
この説明で十分であろう。耳我嶺の場合も、状況依存的な思考とその表現と考えればよい。
即位後の吉野行幸で、臣下を前にして、「昨日卿等と越えて来たあの芋峠の険しいつづら折りの道を、近江朝廷を追われるようにして、飛鳥から吉野へと向かった時は、いろいろと物思いに耽りながら辿ったのだよ。」というような追憶を披露したのだろう。「あの山道を」というだけで、天武の歌を聞いたものには、それが芋峠の山道だと言うことが明瞭に理解できたはずである。「念い」というものも、状況依存的であって、その場に居合わせた人々には十分理解出来たと思われるので、素っ気ない表現になり、恋の思いか、吉野の自然美嘆賞の思いかといったような説も出たわけだが、といって、必ずしも、雨や雪が心にも降るといった譬喩で言えるような陰鬱な思いとも言い切れない。そのときはまだ近江朝廷への反撃に出るといった意志はなさそうだから、過去の満ち足りた生活の追憶、これからの吉野の山奥での質素な生活への予想、といった日常生活的なことをあれこれと思ったといった程度ではなかろうか。