2298、耳我嶺考(継続中)

2298、雨や雪の降る山道を辿るということで、中西氏、坂本氏など、漢籍の出典を指摘されたが、私は、そこまで考える必要がないと共に、「耳我嶺」に漢籍の面影があるのではないかと推測する。だいたいこんな地名(耳我の嶺と読む時)は吉野にありそうにないが、私のように「耳が嶺」と読めば、耳のような形をした山と解釈され、これなら、天武が大峰の弥山あたりを遠望して、造語したものとも思える。古代文献では、山を耳の形に見なしたのは、耳成山ぐらいしかないが(確実かどうかは分からない)、現代は、由布岳の頂上を「猫の耳」(実地で見るとその通りだ)というなど、各地にある。天武はそれほども、各地の山の名に詳しかったとは思えないから、漢籍に耳のつく山の名があるのではないかと思う。まずは、熊耳山が有名だが(といってもこれだけしかない、あとは現代の地名辞典に少しある程度)、どんな文献に出るだろうか。
誰もが見るであろう、「藝文類聚」第七、八巻の「山部」には、残念ながらない。「初学記」巻五「地部上」にもない。
そこでネット。名山だから、当然、百度百科にある。河南省にあり、長江と黄河分水嶺で、主峰の高度2103mとある。この程度は地図を見れば分かる。出典とかを見ると、水経注、尚書禹貢にあり、道教の聖地ともある。道教の聖地となれば、天武は道教に詳しかったことが想起されるが、道教の聖地などは、中国にたくさんある。水経注には双峰競秀とあるそうだが、これも命名の由来としてありふれている。あとは、自然科学や観光方面の記述が詳しい。歴史上は、隋末に、李密が没したところとして旧唐書にあるらしい。道教的には、唐宋以降に有名になったらしい。どちらも天武の時代としては新しすぎるか後の時代だ。ただし李密の情報は入っていたかも知れない。反乱を起こしたのは似ているが、熊耳山で誅殺されたのでは、天武にとって縁起でもないだろう。
平凡社、中国古典文学大系21、洛陽伽藍記・水経注(抄)
洛水。熊耳山は2箇所出る。尚書禹貢、博物志、を引用して洛水がその山の北を通り、洛水の源流となる、とする山。注によると、漢書地理志、太平御覧引図括地象、にある熊耳山と同じとある。もう一つは宣陽県の南を流れる洛水の北にあり、その並び立つ峰が熊の耳に似ているという。ただしこれはあまり有名でないようで、付載の地図にも記入されていない。
水経注全訳。山西人民出版社。巻十五、洛水…、にある。当然平凡社のと同じ内容。二つ目のほうは、「双峰※[競の半分]秀、形状好象熊的耳朶…」「与禹貢所説洛水発源的熊耳山不同。」とある。
水経注全訳。貴州人民出版社。巻十五、洛水…、前者とほぼ同じだが、こちらは原文もある。「双峰并起、様子像熊的耳朶…」「這与禹貢所説従熊耳山疎導洛水的那座山不同。」とある。此方のほうが訳が平易か。
水経注。維基文庫。
《禹貢》所謂導洛自熊耳。《博物志》曰:洛出熊耳,蓋開其源者是也。
又東北過宜陽縣南,
洛水之北有熊耳山,雙巒競舉,狀同熊耳,此自別山,不與《禹貢》導洛自熊耳同也。
原文はコピーの出来る維基文庫から取った。訳文も原文もたいして変わらない。
尚書。維基文庫。
西傾、朱圉、鳥鼠至于太華;熊耳、外方、桐柏至于陪尾。
導洛自熊耳,東北,會于澗、瀍;又東,會于伊,又東北,入于河。
尚書正義。維基文庫。
熊耳、外方、桐柏,至于陪尾。〈四山相連,東南在豫州界。洛經熊耳,伊經外方,淮出桐柏,經陪尾。…○正義曰:《地理志》云,熊耳山在弘農盧氏縣東,伊水所出。
導洛自熊耳,〈在宜陽之西。〉東北會于澗瀍,〈會于河南城南。〉又東會于伊,〈合於洛陽之南。〉又東北入于河。〈合於鞏之東。…
○正義曰:《地理志》云,伊水出弘農盧氏縣東熊耳山,東北入洛。…《志》與傳異者,熊耳山在陸渾縣西…。
さすがに、正義は詳しい。ただし地名が多く理解しにくい。結局、尚書でも水経注でも、分かることは、簡単な地理情報だけで、文学作品に出るかどうか分からないし、まして、日本に知られていたか、分かるはずもない。長安と洛陽の間にある、大きな山塊で、高度は吉野の大峰なみだから、知られていてもおかしくはないが。
〇舊唐書、新唐書。維基文庫。
手頃なところもないので抜き出さない。それにすらすら読める程の力もない。李密の列伝は、どちらもほぼ同じ内容で、ウィキに書かれているのとそう変わらない。要するに熊耳山あたりで、敗死したというだけで、山についての詳しい情報はない。
〇讀史方輿紀要、清・顧祖禹、上海書店出版社。影印縮小版で、非常に読みにくいが、歴史地理の名著と言われるだけのことはある。
巻四十八、河南三、宜陽縣、熊耳山。水経注の記事を土台にし、後漢赤眉の乱、唐初の李密のことなどが書かれている。
同盧氏縣、熊耳山。…有東西兩峯相競如熊耳。禹貢や史記黄帝、齊桓公のことを書き、熊耳という名の山は三つあるという。宜陽、盧氏、陝州である。盧氏縣のは、水経注では、熊の耳の形には触れなかったが、この方輿紀要では、それを言っている。要するに、どこの熊耳山であれ、二つの顕著な峰があり、熊の耳のようだということである。
尚書を始め古くからよく知られた漢籍にいろいろ出てくるから、当然日本でも知られていたであろう。大和や近畿あたりでは、耳の形をした山というのは、知られていない。二上山などは、左右不同で、耳らしくない。耳成山は名前に耳はあるが、丸い小山で、耳らしくない。天武が遠望したと思われる、大峰の弥山あたりは、動物の耳とも思えない(顕著な双耳峰ではない)が、郡山辺りまでは、山上が岳あたりも見えて、左右のかなり離れた双耳と見えないこともないが、やはり離れすぎるし、すぐに、山上が岳のほうは隠れるので無理だろう。天武が耳といったのも、双耳とか動物の耳とかでなく、耳のように高く秀でた山ということだろう。だから、耳が嶺という。そこに、漢籍でよく知られていたはずの、熊耳山がいくらか影響したであろうというのである。ついでに、
朝鮮王朝実録、地理志、全羅道
馬耳山在鎭安, 兩峯竦立, 東西相對, 形如削成, 高可千仞, 其頂樹木森蔚。諺傳東山之頂有小池, 然可望不可到。我太宗十三年癸巳, 次于山下, 遣官致祭。
太宗(テジョン)というのは、三代目で、韓国歴史ドラマでしばしば出る、バンウオン(芳遠)である。李氏朝鮮の事実上の建国者。全州(チョンジュ)の南東、太田(テジョン)と南原(ナモン)の中間、扶余(プヨ)からは南東にかなり離れているが、かつての百済の域内だ。天武が知っていた可能性はわずかにあるといった程度だが、マイサン(馬耳山)という有名な山もあるということ。こちらは標高が600メートル台で低く、一見、宇陀郡曽爾村の鎧岳、兜岳に似ている。熊の耳に見えたり、馬の耳に見えたり、鎧に見えたり、面白いものだ。大分県由布岳が猫の耳に見えるというのも日本らしい。ただ、耳というだけの山の峰も日本にはいくらかある。