2286、耳我嶺考(継続中)

2286、
耳我嶺の歌(25番)で一番人気のある話題は、巻13の類歌との関係である。地名考とは縁が薄いが、やはり一応点検する価値はある。といってもよく知られた論考を理解するだけでも大変な作業だ。
25 三吉野之 耳我嶺爾 時無曾 雪者落家留 間無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 <念>乍叙來 其山道乎
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ來し その山道を
3260 小治田之 年魚道之水乎 問無曾 人者は云 時自久曾 人者飲云 は人之 無間之如 飲人之 不時之如 吾妹子爾 吾戀良久波 已時毛無
小治田の 年魚道の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし
3293三吉野之 御金高爾 間無序 雨者落云 不時曾 雪者落云 其雨 無間如 彼雪 不時如 間不落 吾者曾戀 妹之正香爾
み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
地名としては、3260は「み吉野の」が「小治田の」になり、「耳我嶺爾」が「年魚道の水を」になって、表記がみな訓字になったが、場所は相変わらずはっきりしないし、文構造も変化している。3293は、「耳我嶺爾」が「御金高爾」になり、地名がどこかやや明瞭になった。雨、雪はほぼ同じながら、最後が、物思いから、恋になった。
1、「水」高木市之助『雑草萬葉』中央公論社1968.10.20所収、初出1963
万葉の水について、現代の水道と比較しながら、最後に第三の水として「をはりだのあゆちの水」を主題にし、現代の水道の共同栓につながる、生活的庶民的な水として最も力強いという。筆者は大和説ではなく尾張説を支持し、水を汲んだり飲んだりする人は旅人ではなくそのあたりの集落の人だという。そしてその水に関しての「ひまなし」はただ恋の譬喩で終わらず、集落の人の日常生活が感じられるという。そしてこの歌は天武の25番歌につながる。25番歌は「あゆちの水」のような恋の歌ではなく、天武の憂鬱を詠んだスケールの大きなものである。仮に沢瀉説にしたがって3260番の「あゆちの水」の歌を踏まえて、天武が25番歌を作ったとしたら、天武の歌もまた3260番歌の「詩精神の持つ創造的エネルギー」と共通したものをもっている。そういう類歌性がある。
尾張説や、天武作との前後について詳細を論じてほしいとは思うが、初めからそれは取り上げないとことわっているから仕方がない。いかにも高木らしい万葉の中の雑草魂を論じたものだが、そういう雑草性庶民性という点からは、大和説の飛鳥京内ともいえそうな場所よりも、尾張説の純農村的な風土がふさわしい。そして天武にはそういう歌から創造的なエネルギーを摂取する才能があったということだろう。こうなると、有名な「吉野の鮎」がこの雑草万葉のもとになっているのが見えてくる。
2、「吉野の鮎」は以前25番歌の点検でおおかた紹介したので、繰り返さない。こちらは雑草どころか、天武英雄論とでもいいたいもので、人麻呂や万葉第二期の、万葉の盛時をもたらした偉人といった扱いである。類歌との関係で少し言えば、25番が先で、それの影響下に3260番歌が出来たと言っていて、「雑草万葉」のほうのとは順序が逆になっている。そして25番歌の「その」とか「来し」とか題詞を根拠に、壬申の乱前夜の吉野行きの体験を回想したものだとしている。しかし以前にも言ったように、このいまや定説ともなりかかっている説には大きな欠点があり、
更に「その山道」は「その山」の「道」でその山は「時なくぞ」雪の降る山であり、道は天皇の「思ひつゝぞ来」たまうた道であつて必ずしも同一に重なるには及ばないといふ風に考へて行く事も不可能ではないが、要するに詭弁たるを免れないであらう。
と言っている方が詭弁なのであった。風土風土といっても、実地を検討しない風土論などというのはしょせん空論であり、主観論であって、文芸学的と言っても、読み方が変われば結論も変わるという、根の浅いものである。
ついで、土橋寛のものをみてみよう。
3、「万葉集――作品と批評――」、創元社、1956.4.10(67.4.1.3版)、186頁、250円
沢瀉説を紹介し、賛同している。その沢瀉説というは、「をはりだ」がもと歌で、そこから、天武の25番ができ、そこから26番の或る本歌ができ、そのあと、その26番歌と、もと歌の「をはりだ」の歌とがあわせられたような、「みかねがたけ」の歌ができたというもので、「をはりだ」は飛鳥神社のあたりという奥野説が有力な根拠となっているといったようなものである(土橋の紹介)。そして土橋は、天武が、民謡をもとにして歌が作れたのは、天皇としての立場ではなく、人間としてそれにかかわれたからで、天皇としては万葉歌人になれなかったというのである。そして文学を敵視するのが政治といったありかたではなく、文学と同じ方向を目指す政治を作り上げなければならないと結ぶ。いかにも戦後の左翼的な歴史社会学派の面目躍如といったところだが、その後は、民俗学的な研究に重点を移されたようだ。わずか新書の7頁では、高木説よりもさらに簡略なものとなるしかなかった。