2277、耳我嶺考(継続中)

2277、
「隈毛不落 念乍叙来 其山道乎」というのは、「山道」とあるように、奈良から明日香までの道中ではない。明日香から峠を越えて吉野の宮瀧に出る間は、まさしく山道であり、特に峠の前後は曲がり角が多い(ジグザグ)。ところが、吉野の耳我嶺(おそらく弥山)で雨や雪が堪えず降っているのを見ているのは奈良から、明日香の手前の橿原の北端あたりまでである。だから、その(弥山の)雨や雪がしょっちゅう降っているのを見ながら、そのように物思いをしたのではなく、見えなくなったところから少し行った明日香で一泊して、翌日の山越えの時に、昨日見た耳我嶺の雨や雪のようにたえず物思いをしたとなるわけで、譬喩にとった序の部分と、本旨との部分に時間的な間隙(ずれ)が生じているわけだ(前述)。しかしそのように解するしかないのだから、そういう歌だとして鑑賞しなければならない。平坦な一本道で見続けた、弥山の雨や雪(もちろん想像だが)は、これから行く吉野の辺鄙さ、山深さを象徴するものであり、それは天武だけがそう思うのではなく、だれもが吉野について想像するときの代表的な景観だったであろう。それがいったん観念の中に沈潜して、翌日の山越えのときに想起されたのだと思う。いよいよ大和平野から別れる時、また曲がり角の多い時、額田王が、奈良山を越えるまで三輪山を見ようとし続けたように、天武は大和平野を見続け、景色が変わる曲がり角ごとに、過ぎ来し方を振り返り、大和平野への思いやこれから行く吉野での暮らし、あるいは近江朝廷との関係などが、たえず思われたであろう。そのとき、昨日見た吉野の高山の雨や雪が絶えず降る様子を想起し、一旦観念化され、吉野というのが雨や雪の絶え間ないことで代表されたことから、よけいにその「絶えず」という要素が強くなったであろう。しかも天気は晩秋に多い、陰鬱な曇り空だ。高山では雨や雪が降っているはず。もし、これが通説のように、峠越えの時に雨や雪が降っていたのなら、それは悲惨な登山になる。のちの壬申の乱で雷雨に遭いびしょぬれで凍死しそうになったではないか。明日香吉野間の山道でそんなことになったら、大変だ。まさしく「苦寒行」の世界であって、必死の思いで歩かなければならない。のんびりと物思いに耽っている余裕などはないだろう。陰鬱な曇り空での山越えが物思いにはふさわしい。
雨や雪が絶えず降るという序の部分と、本旨(絶えざる物思い)とは直接結びつかないほうがいいのである。
そういう序と本旨との関わりという点で、巻13の類歌も参考になる。阿蘇氏から借用する。
三二六〇 小治田の 年魚道の水を 間なくそ 人は汲むといふ 時じくそ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし
    反歌
三二六一 思ひ遣る すべのたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の経ぬれば
三二九三 み吉野の 御金が岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくそ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず 我はそ恋ふる 妹が直香に
    反歌
三二九四 み雪降る 吉野の岳に 居る雲の 外に見し子に 恋ひわたるかも
前者は、止むときもなく恋するというのと、年魚道の水とは関係がない。恋人がその水を汲んだり飲んだりするのではなく、ただ有名な水として多くのひとが汲んだり飲んだりするといって、その絶え間のないことを本旨の恋の思いにかけただけである。後者も御金が岳に雨や雪が絶えず降るといっても、そこに恋人が居るわけでもなく、またそこを越えて行くわけでもない。ただその山が見えるところに住んでいて、そのあたりでは一般に、その山の気象がよく知られていて、それを、本旨の恋の思いにかけたのであろう。二五番歌の場合、古義や左千夫新釈の言うような恋の歌なら問題ないが、やはり、吉野の山奧に恋人が居たというのもちょっと無理だろう。吉野の高山の見える大和平野から、その高山の麓のような所へ行く時の歌で、だれでも成る程と思える、吉野大峰の雪や雨の絶え間なさを序として、本旨の物思いに繋いだと見るべきだろう。