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萬葉集新講(改訂版)、特に何もない。江戸時代からの説を要約しているだけ。
〇久松秀歌、題詞からすると近江から吉野へ行ったときではなく、あとの歌の八年五月でもない。そのまえに書紀にない行幸(即位後)があって、近江から吉野へ行ったときの苦悩を思い出して詠んだのだろうとする。雨と雪が同時に降るわけはないから、苦しみを託した表現だろうとする(あとで写実ではないといっているから虚構ということだ)。伊藤のみぞれ説よりはましである。耳我嶺については、未詳だが「み金のたけ」説もあるといった程度。巻一三の類歌との先後関係で、沢瀉と松田の説をやや詳しく紹介している。ただし、沢瀉の三二六〇(小治田の歌)を最初とする説と、松田の最後とする説とは否定している。そして、25、26(どっちが先とも言っていない)→三二九〇の順序で、三二六〇はそれらとは地名が全然違うし、山のことも言わないので、別筋のものとしている。つまり、「~のように、しょっちゅう~する」という類句があるだけだという。
〇評釈万葉集《選》阪下、「耳我の嶺 通称地なく所在不明。『私注』は多武峯と吉野の堺の、細峠・竜在峠のあたりかという。そこは明日香から吉野へ越える古代の要路であった。」こんな説をとりたてて紹介するようではだめだ。「歌にいう物念いが、この壬申の乱にかかわることは、まず間違いなかろう。」かなり断定的になっている。「乱に勝利し即位を果たしてから数年後、吉野においての作と考えたい。ここにこめられた回想のなまなましさ、吉野の地に即した臨場感から、そうみなすことができよう。」「来し(回想)」と読まず「来る」と読む説も文法的には有力だと思うのだが、それについては触れない。類歌との前後関係も詳しく論じているが、それは別に考える。
〇辰己利文・大和萬葉地理研究(1927.11.20)、項目なし。
〇大井重二郎・萬葉集大和歌枕考(1933.9.28)、「耳我嶺は「ミカネ」と訓み、御金嶽金峯山を指すものと思ふ。…、雅澄の云ふ如く「…戀の大御歌とは聞ゆるなり」と平調に考へた方が穩當であらう。蓋し單なる叙景の御歌とは思へないのである。」という。また金峯山は吉野山の最高峰(つまり今言う、青根が峰のことらしい)ともいう。要するに江戸時代の考察から抜け出ていない。
〇松岡靜雄・萬葉集論究 第一輯(1934.2.11)、金峰山の金を黄金の意味としたのは宇治拾遺の時代の頃で、金はキム(山の意の古言、今もアイヌ語ではキムという。金華(陸前)(美濃)、金時(相模)(信濃)、金峯(大和)(肥後)(甲斐)(羽後)などがその例。「此名號の主體はミミ又は其約縮なるミで、耳成山は允恭紀によればミミ山とも呼ばれたとあり、マミ(※[獣偏+端の旁]類)が多いといふ意を以てミミ山又はミミ之栖《ナス》山とよばれたことも有り得るから、吉野の此山もキムタケともミ(ミミ)之嶺《ガネ》とも稱へられたのであらう。さればこそ上掲第一卷の歌にはミミガ嶺《タケ》(山)と傳誦せられたのである。」とある。ここで、ミミガノミネではなく、ミミガタケと、「ガ」を格助詞にして読んだのは、沢瀉よりも早い例として貴重だ。ミミガミネではなく、ミミガタケと読んだのはなぜか、不明。それよりも、耳成山も、耳我嶺もマミ(狸のことだろう)が多かったからの命名だというのはあり得ないだろう。子供の頃、畝傍山に狸が居たという話は聞いたから、耳成山にも居ただろうが、金峰山にも居たかどうか疑わしい。なにより、そんな動物の名を名にするのがおかしい。狼や熊なら山の名にも成るだろうが。
奥野健治・万葉大和志考(1934.11.10)、未詳とし、長々と真淵の説と大和志の説を引用し、「或は御金高の別名ならむか。」とするだけで、その根拠も示さない。
〇北島葭江・萬葉集大和地誌(1941.8.31)、巻一三の三二九三から、耳我嶺を御金高とするのは危険。「その山道を」とあるから、天武自身が御金嶽に登ったことになるが、それには徴証がないから真淵の説は無理。吉野宮に入るまでの國※[木+巣]から龍門山にかけての山路と見るのが正当。大和志の説は都合がいいが、そのあたりに耳我嶺という山があった証拠はない。耳我嶺は龍門連山の中に求むべき。
万葉地誌の類としてはずいぶん詳しく、また真淵の説を明確に否定するなど、期待を持たせるのだが、尻すぼみというか、結論の部分はいただけない。だいたい龍門連山というのが具体的にわからない。あのやまは倉橋の音羽山あたりから南北に連なっているが、龍門連山とはいいにくい。龍門が岳(龍門岳ともいう、地元で龍門山とは言わない)南端にあって、やや独立峰的である。大目に見て、細峠あたりまで含めるなら土屋の説と同じになるが、あのへんは龍門連山ではない。普通に言う龍門山地なら入るだろう。つまり地理的に不正確である。また吉野宮を國※[木+巣]にあったように言っているが、次の吉野宮の項目では宮瀧だと言っている。宮瀧は、國※[木+巣]とはかなり離れていて、もちろんその一部でもない。このあたりも非常に不正確な地理である。北島らしくない。残念ながら、真淵説を批判したところ以外取るべきものがない。
〇阪口保・萬葉集大和地理辭典(1944.7.4)、「金峯神社のある山。本集時代前期には、役(ノ)小角が山籠りしてゐた。【辭典】其の最高部は858m…、みみがのみね・みみがのやまと訓んだと見るが、山そのものは、御金高のことと思ふ。」土屋説を紹介。「壬申の亂と結びつけて鑑賞しようとするものがあるが、おそらく非である。…吉野離宮へ幸せる時の御製で、…、二五・二六の歌は水を讃めた歌だ。金峯山に發した水は、まさしく喜佐谷を流れ、きさのをがはとなつて、宮瀧の地に注いでゐる。だから、此御製は、勿論 天皇が金峯山に登られての歌ではない。」天武は金峯山に登ったのではないと明言したのはいいが、その根拠を示さない。
土屋文明・續萬葉紀行(1946.9.20)、多武峰略記や洛陽伽藍記から、姮娥峯を見出し、それは、多武峰吉野境の耳我嶺を修飾したものだろうという。そして文献よりさきに、そこを歩いたときの体験によるという。説明は詳しいが、結局、私注と同じ。
〇宮本喜一郎・「吉野」雑誌『萬葉』47号所収(1963.4)、吉野宮は宮瀧説でよいと論じた後、明日香から吉野への通路を考察し、最後に、壬申の乱前夜の吉野行きの通路を検討している。芋峠説について、その証拠の一つとされているらしい、宇治間山千股説を否定し、宮瀧周辺だろうと言っている。大賛成である。ただし宮本も言うように、それだけで芋峠説を否定することはできない。とにかく、それで、千股、上市を通る芋峠説を否定し、明日香→多武峰→龍在峠→細峠→平尾→津風呂→菜摘→宮瀧説を主張する。細峠からは、ほぼ直線的に宮瀧に向かう。芋峠の標高500㍍に対して細峠は約700㍍、途中の道を比較しても(細峠のわずか手前の龍在峠は約750㍍あり、明日香の冬野からそこへ出る道の方が険しい、土屋の言う多武峰・吉野境の嶺というのは、このわずかな龍在・細峠間の尾根道に過ぎない、約300㍍でほとんど高低差がない)、その険しさ(細川→多武峰、冬野→龍在峠、細峠→平尾への下り、が険しい)の差は歴然としている。それだけ時間もかかるわけで、やはりこんなルートは可能性がない。なおこの説は土屋文明のとほとんど同じである。ただし土屋は、細峠から後の道筋を言わない。おそらく上市にでも出るのだろう。なお、津風呂→菜摘は直木孝次郎の実地踏査に従ったもので(宮本も登っている)、かなり上流の入野峠(窪垣内)よりかなり低いが、幹線道路ではないから、道がなく、私も行ったことがない。あの程度なら山慣れた人や地元の人なら道がなくても越えられるが、かなりの人数の天武一行が、道案内無しで越えられるとは思えない。やはり少し遠回りでも上市に出た方が早い。結局芋峠ルートと距離的に変わらないのである。なお、宮本は、耳我嶺について言わないが、恐らく、龍在峠あたりを想定しているのだろう。いずれにしても、土屋説と同じで、認めがたい。
犬養孝・万葉の旅(上)(1964.7.15)、未詳として、真淵等の金峯山、大和志、北島、土屋の各説を簡単に紹介し、「いずれも確かでない。」とするだけ。写真中心の文庫本という制約があるのはわかるが、吉野郡中の山名というだけでは、万葉地理の碩学の名に値しないであろう。といって「万葉の風土」(続、続々も含めて)などの単行本に論説があるわけでもない。
〇三宅清・萬葉集評論(1970.8.25)、25番歌についての議論の時、あまり引用されないが、実地踏査や地理考証の詳しさでは、抜群のものがある。また、真淵や土屋文明の説を否定する、緻密な論証も他に類がない。眞淵説、土屋説は、此で完全に否定されたと言える(特に土屋説)。それはいいのだが、そこで出してきた説というのが、大和志の窪垣内説では失望というものである。女寄峠から宇陀に入り、三茶屋、色生(いろお)、入野峠、窪垣内(くぼがいと)というルートで、入野峠一帯の山が、耳我嶺だというのだ。島の宮から宇陀へ迂回するぐらいなら、すぐ後ろの芋峠を越えるのが筋だろう。それにあの低い丘陵のような入野峠あたりの尾根を耳我嶺とは驚くべきである。全行程のごくわずかな部分だけ、隈も落ちず悩んできたのか。三宅は宇陀郡中からずっと思い続けたと言っているようだが、その道中すべてが耳我嶺の内だとは言っていない。矛盾だ。他人の説は厳しく批判するが、自説には極めて甘い。万葉地理の論考ではよくおめにかかる。地理だけでないが。とにかく、土屋説否定の緻密さは見事なものなので、一読の価値は充分にある。長い論文で、巻一三との類歌との関係や、思いの内容についても詳しく論じているが、ここでは省略する。
〇石井庄司・耳我の嶺考、「石井庄司博士喜寿記念論集上代文学考究」所収、1978.5.20、武田祐吉あたりまでの諸説を丁寧に紹介している。本論として、「「み吉野の」というとき、高城の山、青根が峯、水分山の三例がある。」としてそれらの所在地を詳しく調べ、「さきの高城山も青根が峯も、いずれも水分山に近いところにある。そういうわけで、「耳我の嶺」をも、吉野水分神社の附近に求めてみてはどうかと思うのである。」とし、芋峠を通過して、通説の宮瀧に向かったのではなく、吉野山に向かったのだろうとする。即位してからも吉野山行幸したのか、それとも、壬申の乱前夜ではないから、もう宮瀧の方へ行ったのか。持統はなぜ吉野山へは行かなかったのか。いずれにしても、雨や雪の降る水分神社のあたりを越えて、どこへ行くのだろうか。水分神社のあたりに、青根が峯に匹敵するような目立つ山もない。ただ、「み吉野の 耳我嶺に」とあるだけで、今の吉野山のあたりに耳我嶺があったというのは簡単すぎるようだ。
奥野健治・大和志考決(下)(2000.1.1)「耳我嶺・耳我山、吉野郡金峰山(大蜂山、山上ケ岳一七二〇米・稲村ケ岳一七二六米・大普賢岳一七八〇米等の総称)を指すか。」「万葉大和志考」では、未詳としていたが、やや具体的になり、しかも吉野山の最高峰(いわゆる青根が峯)ではなく、平安時代以降確実になる、いわゆる山上が岳とその周辺にしている。この本は奥野没後の出版だが、「万葉大和志考」より60年以上経っているからか、とにかく、膨大な引用で、さながら資料集である。真淵説が当たっているかといいながら、やはり「美夫君志」の「御厳(ミイカ)」説がいいという。この説は以前否定しておいた。「大和志」否定、「萬葉集大和地誌(北島)」否定、「続萬葉紀行(土屋)」注目すべき新説とする。その山道を、雨や雪の降る耳我嶺(龍在・細峠一帯)とし、そこを天武が通ったとする説も注目すべき新説としながら、「「その山道を」は今越え給ふ飛鳥・吉野路、即耳我嶺に通ずるものと思はれゐたりし飛鳥よりも吉野山に通ずる路、再び云はば三吉野之耳我額にて代表せらるる吉野山への路を表す句にして、筑紫の方に通ずる海陸路がよし其国より遠く隔りてありとも筑紫路と云ひ、紀伊に通ずる路が木道なりしが如く、此場合に於ても、「其の山道」は即耳我嶺に達し得らるるものと認められたる山越路と見て、右の如く吉野路を意味するものとせば、通説の如く耳我嶺と「その山道」とは分離して観察し得るにあらずやとも思はる。」ともいう。これは注目すべき新説だが、飛鳥吉野間の間に、耳我嶺があるのではなく、吉野山最高峰の耳我嶺に通じる街道といったような意味での、その山道だというのは、相当無理な考えだろう。筑紫路、木道のような語構成だというなら、耳我道とでもいうべきだろうし、吉野路ならともかく、ほとんどだれも知らないような耳我嶺を目指す道として、ただ山道だけで通じるとは思えない。後世でも、大峰参りの道は、もっと西の車坂であり、あるいは芦原峠や、壷坂峠であったが、それでも、大峰道などとは言わなかったと思う。とにかく、阪口もちょっと言及したが、天武は、耳我嶺を歩いたのではなく、途中の、細峠など(さらには、飛鳥吉野間の峠)は、耳我嶺ではない、ということは、大賛成である。ただし、私は、奥野などの言う山上が岳一帯を耳我嶺とは思わないし、土屋が言い、奥野も認めているような細峠ルートが、天武等の通った道だとも思わない。

結論。細かいのまで追い出すとずいぶん長くなった。いろんな説があるが(津風呂の大字を証拠にした説も資料を持っているが、取るに足りないので、省略した)、全面的に従えないもの(土屋説など)、部分的に賛成できるもの、などがごちゃごちゃとある。その部分的に賛成できるものを寄せ集めても、私の考える解にはならない。だれも言ったことのない観点が残っている。