2272

2272、
〇金子評釈、「御金の高《タケ》は吉野山の最高峯で、金《カネ》の御嶽《ミタケ》即ち金峯山のこと。(巻十三の類歌に)御金高爾《ミカネノタケニ》」とあるので、今は四言にかく訓んでおく。」というので、何を見かねたのか「ミカネニ」と読むのだという。七音のところを四音に読むのも異様だが、「ミカネノタケ」を「ミカネ」と略称するなどまずありえないことだ。真淵や古義の説にこだわりすぎた。「吉野町にある藏王堂の奥の院と稱する。地理上から見れば金峯山を歌つたものとして至當である。」これもとんでもない話で、真淵のところで言ったように、地理的にみてあり得ない説だ。そのあと、歌の作られた事情として、壬申の乱の挙兵の話を長々と書き、勝手神社あたりの隠棲地(吉野宮、普通、宮瀧とされるが、金子評釈は俗伝に従っている)から、五社峠をへて国栖に出たときの苦しい山行を詠んだものだとする。地理的に荒唐無稽で、小説としても筋が通らない。
〇全註釈、「この歌の別傳…、(卷十三、三二九三)とあり、ミカネノタケとし、後世いう所の金の御嶽の事とする説もある。吉野山中の高峰をいうと思われる。」講義が「来」を「コシ」と読んだのは根拠がない、「クル」の終止形で読むのがよい。御製とあるのだから、即位前の吉野入りの歌とはならない。といいながら、総釈で恋の歌としたのを踏襲せず、どういう物思いかを言わない。別伝の多い歌だが、この歌が最初だろう、ただし謡いものであることにかわりはない、などという。
〇佐佐木評釈、「耳我の嶺 今いづれの山か不明。金峯山とする精考(菊池氏)の説がある。」物思いの内容についてやや詳しく各説を検討している。皇太子時代のとするのは題詞が合わず、高木市之助のように即位後の飛鳥で詠んだとするのも根拠がなく、恋の歌とするのは、巻十三のよにはいかない、と言って否定する。巻十三のは二五番歌が広がったのだろうとも言う。皇太子時代の吉野入りの深刻な思いの説を支持しているようである。
〇窪田評釈、「「耳我の嶺は」は、今いずれの峰ともわからない。歌の上から見ると、吉野山の中の高蜂であることが知られる。不明なのは、名称の変わったためであろう。」何となく御金の岳(金峯山)を想定しているように見える。「【評】この御製歌は題詞がないので、いつ、いかなる際のものかは不明である。しかし御製そのものは、吉野の山中にあって甚しくもの思いをされた意のものであるから、自然、大津宮時代、皇太子を辞して吉野へ退隠された際のものではないかと推量される。」さすがによく読み込んでいる。「その「思ひ」のいかなる範囲のものであるかにも触れていないところから見ると、この御製は全然対者を予想しての訴えではなく、独詠であったろうといぅことを思わせられる。
 とにかく一首を読むと、天皇が陰鬱の情にとざされて、吉野山中の山道を辿られるさまが想像され、その全く説明をされざる「思ひ」が余情となって、魅力ある御製となっているのである。表現は上にいったがごとく甚だ古撲で、したがって反歌もないものである。これを皇太子の時期、額田王に和えられた上の歌と比較すると、全く別人の感がある。同じ天皇の心の両面の、その一面のあざやかに現われている御製歌である。」これも丁寧に読み込んでいる。ただしこれは、完全に天皇個人の作と見なしている。巻十三のはこれが流伝して民謡化したものだという。
〇私注、耳我嶺、多武峰と吉野の界の細峠、龍在峠一帯の横峰……明日香界の耳我嶺たること明らか、とするが、多武峰と吉野の界といったり、明日香と吉野の界といったりしてあいまいだ。龍在峠一帯は標高はたいしたことないが、雪や雨の多い地形だというが、標高700㍍ほどの高度に似合った雨や雪が降るだけで、特に変わったことはない。25番歌からのこじつけだろう。雨まじりの雪の実景で、高山の一般性をいったものではないとするが、これも個人的な体験を拡大し、自分が理解したいように理解ているだけ。主観のおしつけである。即位後の冬の行幸時のもので、強い思いを歌ったと言うが、その思いの内容は言わない。三月下旬に龍在峠あたりで風雪にあったというが、三月下旬なら、今と違ったて私の子供の頃は大和平野南部でもよく雪が降った、まして土屋文明の時代ならもっと降る機会も多かっただろう。ところが十一月下旬など晩秋から初冬にかけてはめったに降らない。せいぜいみぞれ程度。こういうところは、旅人の土屋と定住者の私のよう人間とでは風土の理解が大きく違う。「御製は、現に耳我の嶺を越えられつつの作で、御金嶽を遠望しての作と解すべきではない。」とするが、遠望説などというのはここで始めて出た。だれか言った人がいる
のだろうか。それはともかく、土屋の説とは正反対で、遠望説こそが正解である。ただし遠望した山は、御金嶽(み金の岳)ではないだろう。青根が峯はもちろん、大峰山にしても、明日香・吉野の道中では見えない(桜の吉野山は見えるが)。巻一三のは二五番歌の転訛とする。
〇大系、「天皇として清御原宮に在っての或る日、…、最後の説による。失意の吉野入りを得意の日に回想したもの。」つまり高木説。「耳我の嶺-…、吉野山中の高峰であろうということ以外は不明。」
〇注釈、「我」を助詞として「青根我峯」のようにして「ミミガミネ」と読むのかと思ったが、「ミミ」が分からない、というが、以前私が言ったように、「耳」の形をした山と考えれば、何の問題もない。沢瀉は登山や山の地理には全く関心がなかったのだろう。私注説は念が入りすぎ、「大和志」説(窪垣内)は口碑の傍証があるものの、一説に過ぎない、として結局未詳とする。「その山道」は「その風説の山道」であるとする。つまり、沢瀉は耳我嶺の山中を歩くとしている。他の説もみなそうだろうが、沢瀉はそれを明言している。「念」は恋の歌や賞美の歌には使わない、ここの物思いは壬申の乱前夜の深刻な思いとしてよいとする。巻一三類歌との前後関係も詳述しているが、それは後で検討したい。
〇全集、集成の説と全く同じで、それを圧縮した簡単なもの。
〇集成、思いは「皇位継承に関し、兄天智方と争わねばならぬ運命をめぐっての深刻な思いである」3260(小治田の歌)を踏まえた抒情詩で、八年の行幸の時吉野宮で27(よき人の…)とともに詠まれたものらしい、という。耳我の峰、吉野山中だが未詳、金峰山説もある、とする。ここでは、まだ「みぞれ」も「芋峠」も出てこない。
〇全訳注、「壬申の乱に関する物語歌か。」「御金の岳と同じく、金峯山か。」
〇伊藤全注、耳我嶺について、金峯山説があると言ったあと、土屋の細峠説を紹介し、それを受けた形で、芋峠説を出している。これは当時よく読まれた直木孝次郎の「壬申の乱」を始めとする詳しい地理考証の影響をうけたものだろう。長々と書紀の関連箇所を全文引用して(うんざりする)、10月に近江から吉野宮瀧に行ったときの歌とする。しかし、新暦では11月下旬になるのかも知れないが、いくら何でも、そのころに標高500㍍の芋峠で雪が降るとは思えない。また、芋峠あたりは、高取山の裏か、明日香の奧であって、吉野の高山などとはとても言えない。地理に暗い伊藤博だから仕方がないとはいうものの、認めがたい説ではある。ただし、今まで曖昧だった、歌の製作事情として、11月の吉野行きの途中、耳我嶺を越えながら、近江方との確執などを深刻に考えながら歩いた時の歌としたのは、一歩前進だ。その耳我嶺を芋峠としたのがよくないということ。天皇の作とあるが、某代作歌人の作ったものとする。ただし根拠ははっきりしない。また歌の順序として、巻13、3260の小治田の歌が最初だろうとするが、小治田が推古天皇の宮があったところで、宮には清水がつきものだからだというのは、根拠薄弱。これらについては、のちにとり上げるだろう。3293の「み金の岳」の歌が次に古いものだろうという。これも巻13にもともとあっただろうからというだけでは根拠薄弱。
〇新全集、近江から吉野へ行って身を隠したときの、芋峠越えのことを歌ったもので、「思う」には、「愛と憎、不安、失意などさまざまな感情が込められていると思われる。」という。耳我嶺については、津風呂湖周辺説(問題にならない臆説)を紹介したあと、雨や雪を読むのと、雨乞いのあった水分神社に近いところから、金峯山説を支持しているようである。この金峯山というのは、水分神社に近いと言っているところからすると、奧千本の金峯神社の周辺を指しているようだ。つまり、吉野山の最高点とされる、青根が峯のことだろうが、あのあたりを金峯山といった証拠はない。それにこれだと、芋峠を越えたときの歌とするのとはどう辻褄が合うのだろうか。説明されていない。これも単なる臆説に過ぎない。巻13との前後については、天武天皇が巻13のうたを参考に25番の歌を作ったとする。
〇釈注、同じ著者の全注とほぼ同じ。全注でもそうだったが、雨と雪を歌っているのに、勝手にみぞれに替えている。雨と雪が同時に降るわけはないというのだろうが、ただの小細工に過ぎない。雨、雪とみぞれははっきり違うではないか。なお、全注では紹介していなかった、沢瀉久孝の一説(「が」を助詞として「耳が嶺」と読む)を紹介している。私はそれが正しいと思うので、もっと詳しく調べてほしかった。
〇和歌大系、「「耳我の嶺」が吉野のどの山に相当するか不明。」「場(状況)に依存した表現で、歌詞にそれがあらわれていない。天武の吉野入りの際の歌とすれば、思いの内容もおのずから限定されよう。なお「念乍叙来」をオモヒツソゾコシ〔二字右○〕と訓む説もある。吉野入りのことを回想した天皇の歌と解するのであるが、原文は「来」で、シを文字化していないのでクルと訓むのが正しい。魏の武帝の「苦寒行」に「谿谷人民少なく雪落ちて何ぞ霏々たる。頸をのべて長歎息し遠行して懐ふ所多し」とある。そうした漢詩の影響を受け、それをふまえて作られているか。」漢詩に言及したのは最初か。26番歌のところで、巻13の類歌を利用して歌われたとするが、25番歌については言及せず。補注で「二五番歌は、この時(近江から吉野へ行ったとき)の大海人皇子の気持ちを歌ったものだろう。十月二十日という初冬のことであった。」という。
新大系、「耳我嶺 未詳.吉野の山のいずれか.金峰山ともいわれる.」「「けり」は、現在に「開いた過去」であり、遡及的に想到し、思い当たることの可能な過去である。即ち、現在と過去との間を往還して、到達・到着の発見があったり、強い詠嘆を生じたりする。…。原文「念乍叙来」の「来」の訓み方は、「来し」であって、「来る」ではないと思われる。」「けり」以外のことは言及せず。
阿蘇全歌講義、巻13の民謡を利用しつつ、天武が作ったのが25番で、26番からの改作だろうという。では26番も天武の作かどうかは言わない。松田、沢瀉、都倉、の説を紹介。
耳我の峰については不明説のほか、四説紹介する。
金峰山金峰神社の東の峰。八五八・二メートル)。②大峰山奈良県吉野郡。金峰神社のはるか南東、川上村と天川村の境の山脈。一七一九・二メートル)。③奈良県吉野郡吉野町窪垣内に求める説。大和志に「耳我峰、在窪垣内《くぼかいと》村上方」とあるのによる。④同吉野町の最北の竜門岳(八〇四メートル)の西方、細峠と竜在峠のあいだの尾根に求める説。吉野・飛鳥を結ぶ最短経路に当る(土屋文明『続万葉紀行』)。
ここには、津風呂湖説が抜けているが、どっちにしても、諸説があるというだけでは何の意味もない。なお龍門岳の標高が間違っている。また吉野町の最北でもないし、その西方に細峠や龍在峠があるのでもない。
「恋の思いが天武の辛苦の思いに置き換えられて仮託伝誦される。」とあるが、どういう辛苦なのか説明なし。
〇多田全解、「壬申の乱(六七二)前夜の吉野隠棲の体験を踏まえた作だが、物語歌として天武に仮託・伝承された可能性が高い。」耳我嶺については未詳としながら金峰山説を紹介するだけ。類歌との前後関係については、言及せず、恋の歌とそうでない歌(二五番)との違いを言うだけ。