2276、耳我嶺考(継続中)

2276、
遠望となると、どこからか、そして、それは今の何という山か、ということになる。明日香藤原から吉野郡の山は見えないから、芋等(あるいは、龍在峠、細峠)からとなるが、地図上の計算では、弥山及び山上が岳が見える。ただし途中にいくつかの高い山があるから、どの山とはっきり分かるほどの大きさでは見えず、頂上部分が、重なる山々の後に見えるだけで(山上が岳の方がその傾向が強い)、よほど現地の山々に登りなれた詳しい人でないと分からないだろう。天武一行などでは無理だろう。それに、どの峠も少し下れば、結構狭い谷に入ってしまい(それだけ傾斜がきつい)、遠くの山は見えなくなる。また、今は、龍在峠(雲居茶屋山の一部と言っていい)も細峠も樹林(植林)に覆われており、眺望はきかない。芋峠は明るく開けている。私も何度も行ったが、特に興味もなかったのでたくさんある山々の区別などした覚えがない。ただし、開けているのは、車道工事のために、切り通しにして削り、周囲の木々を切ったからである。今も東側は10㍍ぐらいの崖になっている。コンクリートで固められているが、うまく回り込めば、崖の上の尾根に出られ、龍在峠に行ける(道がある)。また西へ行く道もあり、高取山に出られる。どちらも私のような山慣れた人間でないと無理だが。芋峠に向かう途中の、役行者の石像の所からの樹林中の旧道をジグザグに登れば峠の手前の車道に出られる。ということで、ここも龍在峠のように、旧道の樹林がそのまま峠まで覆っていたと思われる。とすると、ここも遠望は無理である。ということで、耳我嶺の遠望は他の場所に求めるしかない。
以前にも少し触れたが、天武一行が、近江から南下して奈良山を越えた時点で、遙か南方に山上が岳の西半(恐らく稲村が岳あたり)から弥山の全域にわたる巨大な稜線が見えたはずである。郡山辺りまで南下すると、山上が岳一帯は多武峰あたりの高山に隠れて見えなくなり、弥山一帯が雄大に見える。天理を越えて田原本にはいると、徐々に大きくは見えるが、高取山などの前山に隠される部分が増えて、弥山らしい形が分からなくなる。橿原市にはいると、頂上部分がわずかに見える程度になり、何山かわからなくなる(吉野の高山ということは分かる)。八木駅手前の三山橋(米川にかかる)まで来ると、見えなくなる(ビルが増えるということもある、ただしこれは何十年も前の話で、今はビルだらけで、おそらく田原本の南部辺りからはもう見えなくなるだろう、唐古遺跡からならまだよく見えるが、ここも開発されてしまった。)
ということで、この弥山一帯が、遠望の山である耳我嶺であろう。万葉にもある、金の御嶽と思われる山上が岳一帯は、初めからその全容は見えず、しばらくで隠れてしまうから、雨や雪が絶え間なく降ると言うほど長時間遠望できるのは弥山だけである。奈良から橿原まで自転車でも1時間弱はかかる。歩けば5時間はかかるだろう。
雨や雪が同時に降ることはないが、天武が行ったのは晩秋だから、天気次第では、金剛山生駒山三輪山、高取山あたりがはっきり見えていても、弥山辺りの中腹以上が雲で隠されるというのは普通のことである。それを高山だから大和平野では雨が降らなくてもいつも降るのだろうと思うのは当然である。そして、雲がなくなった時、真っ白になった(実際私はアルプスの高山のような白銀の弥山を郡山から見たことがある、一瞬は信じられなかったが)弥山を見て、天武一行は、秋なのに雪が積もるのかと思い、驚いたであろう。雨雲だと思ったのが雪雲だったというのも、有り得ることである。歌ではそんなことをいちいち説明的に歌うことは出来ないから、しょっちゅう雨が降り、季節はずれに雪が降る(積もる)とやや漠然と対句仕立てで歌ったと言うわけである。
そこで、再度25番歌を読んで、遠望説で解せるのかどうか確認する必要がある。というのも、いまだかつて遠望説で解釈したものがほとんどないからである。便宜、阿蘇氏の「全歌講義」から引用する。
二五 三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎
    (天武)天皇のみ歌
25 み吉野の耳我の峰に、時を定めず雪は降っていたよ。絶え間なく雨は降っていたよ。その雪の時を定めず降るように、その雨の絶え間なく降るように、道中ずっと絶え間なく、ものを思いつつやってきたことだ。その山道を。
6句目までは遠望説でも、実際の歩行中のことでも、どちらでもよい。それを承ける指示語の「その」も、遠望説でも実地歩行説でも解ける。それが修飾する部分が問題で、その(遠望なら弥山、実地なら芋峠など)雨や雪が絶えず降るように、曲がり角を一つも落とさず物思いしながら歩いてきた、あの山道を、とあるから、雨や雪が絶えず降る山中を、その間断なく降るのを、間断のない物思いの譬喩にするにあたって、実際に雨や雪の降る山道を歩くと見た方が深刻で実感が強い。遠望説では、曲がり角のない平坦道を明日香まで来て、その翌日曲がり角の多い吉野への山道を、雨も雪も降らず、遠くの吉野の高山も見えない中で越えたのでは、雨や雪が降る序の部分と、実際にたえず物思いをしながら山道を行くのとの間に間隙が生じて、深刻さにかけるように思える。だから、耳我嶺を芋峠当たりに求める注釈者が出て来るのであり(伊藤博など)、中には、魏の武帝の苦寒行を持ち出す人まである。しかし地理的には今まで考えてきたように、その解はなりたたない。だから、吉野の高山では雨や雪がたえず降るというのと、山越えの道で物思いを続けたというのとを、直接結び付けるのはよくないと言うことである。あくまでも、雨や雪の序は絶え間ないことの序、本体の絶え間ない物思いへは、その絶え間ないことだけでかかるのであって、実際の山越えにおいて、雪も雨も降っていなくてよい。