2287、耳我嶺考(継続中)

2287、
4、「萬葉歌人の誕生」澤瀉久孝、平凡社、1956.12.25、所収、「天武天皇御製攷(初出、關西大学「國文學」第九號】)
D(みかね)の 「間もおちずわれはぞ戀ふる妹がたゞかに」の「間もおちず」は、「既に「間なきが如」「時じきが如」とある句から直接「われはぞ戀ふる」につづけばいいのであって、余計な句であるが、なぜそうなったかというと、B(25番)、C(26番)の「隈も落ちず」を入れようとしたからで、D(みかね)が、B、Cよりあとであることは明らかだ。しかしそのとにA(をはりだ)が続くのはないようだ(沢瀉は最初Aが一番新しいと思っていた)。D(みかね)は、Bを祖母とし、A(をはりだ)を父としたようだ。つまりD(みかね)は、一番新しいのだが、A(をはりだ)を直接承け、Bからも影響されて出来た作だというわけだ。つまり、A、Dは恋の歌だから直接影響し、Bは天武の吉野行きの歌だから間接だというのだろう。反歌の在り方を見ても、Aのは反歌ではない(反歌の形にして関係のない歌をつけたもの)、Dはちゃんと反歌になっていて、長歌には反歌があるものという時代の産物だから、Aが先で、Dがあとであると言える。それはともかく、ABCDを虚心に読むと、Aが形式も内容も素朴で、一番古い民謡に思える(このあたり水汲みに関した内容のことを言っているから、高木と同じである)。そして奥野説を引用して、
少年期青年期の大部分を、その岡本、明日香の地に過された天武天皇には、この民謠が親しいものに感ぜられ、何彼の縁につけて口ずさまれる愛誦歌の一つになつてゐた。その天皇よし野へいでまして雨と雪との山道を辿られながら
    小治田の年魚道の水を
と口ずさまれてゐた民謠が、
    みよし野の耳我の嶺に
といふ天皇御自身の新しい創作となつた。
という。そしてあと、題詞の問題や、「念」と「思」の違いに触れて終わる。だいたい類歌の順序としては、Cについて触れることがほとんどないが、納得できるようだ。ただし、奥野説は以前考察したように、成立しそうにないから、天武は尾張の民謡の影響を受けたのだろう。また、天武の雨雪の中の吉野行きというのも以前考えたように間違いである。萬葉集注釋の25番歌の解説では順序についての説明が少なくなっているが、結論は同じである。
5、「万葉研究新見と実証」、松田好夫、桜楓社、1968.1.10、「問答歌成立の一過程」初出、日本文学研究9、1950・2・1。
題にあるように、問答歌の論なので、巻13の類歌で反歌とされているものが、反歌ではなくて問答の答歌であることの論証に半分以上費やされていて、25番歌との関係についてはあまり詳しくない。まず4歌(25、26、みかね、をはりだ)すべてを、恋の民謡歌であるという。このあたりで沢瀉説とは大きくことなる。その理由は類句があり、歌の調子(曲節)が同じだというにある。そして、25→26→みかね→をはりだ、とし、「をはりだ」が一番新しいとするのも、沢瀉説とは大きく異なる。
まず最初に吉野でできた民謡(25番)が来るという。それが大和平野に伝播したのが26番だという。順序はともかく、その地理的な根拠が荒唐無稽の机上の空論であることは以前指摘した。26番が25番のあとだという根拠は別に考慮しなければならない。26番の次が「みかね」だという。多くの表現がかなり変化しており、特に最後のところがはっきりとした相聞の表現になり、文学的に爛熟したものだという。最後の「をはりだ」は全く歌詞を替えた歌(替え歌)になったが、民謡としての曲節や相聞の内容は変わらないとする。以上で終わるのだから、なぜ突然「をはりだ」の替え歌になったのか、「をはりだ」というのはどこなのか、といったことが全然説明されていない。沢瀉とは読みが違うところから結論も違うのだろうが、沢瀉のほうが読みが正確とは言えるだろう。
当然とも思えるが、平凡社萬葉集大成第21巻風土編、1955.11.30、所収「萬葉集に於ける東海地方」で、尾張説を支持している。飛鳥も実地踏査し、奥野説を批判する(それなら吉野や大和平野も全面的に踏査して耳我嶺も調べればいいだろうに)。そして、大和の人間が、尾張を旅行して、街道筋の「あゆちの水」を、「耳我嶺」の曲節で詠んだのが伝わったという。わざわざ東海道を旅して、新しい替え歌を作り、民謡を広めるような風流で数寄な大和人というのも小説じみている。