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結局巻1の大和の地名といっても、和名抄にあるもの、大和志に記載され、その時代に於いて確実に存在したもの(それは現在も存在する)、は、万葉の時代から消滅せずに使い続けられたもので、信頼できるものである。また、和名抄にも、大和志の村里にもないものでも、大和志の山川等に記載され、記紀万葉等の古代文献による状況証拠で、ほぼ比定できるものもある。
そのどれにも属さないものが、宇治間山であり、耳我嶺であり、秋津である。これらは、万葉集の時代以降に消滅した地名である。このうち秋津は人麻呂の吉野宮の歌で、秋津の野辺に宮柱をたてたとあるから、ほぼ現在の宮瀧当ありだという事がわかるから、それで十分だろう。また、去来見山もこれらにはいるが、大和の地名ではないようなので、今は措く。宇治間山と耳我嶺については、歌の状況証拠から吉野にある地名だとは分かるので、実地踏査などもいろいろと行われ、説も出ているが、大和志のいうところはあてにならないので、現在の注釈書でも、吉野のどこかということで処理している。しかし吉野といっても非常に広く、歌の理解には全く役立たない。たとえ消滅した地名で比定のしようがないといっても、諦めてしまうのはよくないだろう。要は、歌の理解にどれだけ有効かということで絞り込んでいくべきだということだろう。そこがいままでの研究では弱かったようだ。歌から割り出すのではなく、実地踏査による小さい地名から割り出そうとするのでは、本末転倒だろう。大字や小字の地名にいくら似たものがあっても、それが歌の理解に資するところがないのなら無駄である。