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甕《ミカ》というのは、甕《カメ》のことで、本来「カ」だけでその意味がある。だから、ミ・ミカというのは、ミ・ミ・カとなって、敬称の「ミ」が二重になるというのもおかしい(後述の古義の説)。なお、ミカというのがカメだとすると、縦長の紡錘型のようなものになるが、稀にはそんな山があるとしても、大峰の弥山はそんな形ではない。既述のように鉢伏型である。
〇略解、真淵の考と同じ。
〇楢の杣、注釈無し。
〇燈、耳我嶺については真淵をまるまる引用。「思ふ」の内容ははっきりしないとして、恋の思いか壬申の乱に対する思いかどちらかだとして判断保留。「隈(くま)」を詠んだのは道程が長い事を示し、物思いも長い事を示すという。
〇攷證、耳我嶺について、良いと思えないとことわりながら、真淵をまるまる引用。語釈をしているが、特にとるべき事もなく、思いの内容については触れない。
〇檜嬬手、書紀を長く引用して、近江からの吉野入りの時の作とする。耳我嶺嶽爾、耳は弭の略字で、嶽は脱落したもの、とする。そして、「みがねのだけに」と読むとする。「弭」の音は確かに「ビ・ミ」だが、「ミ」と読むのは珍しい。真淵なみに、別記を書き、脱字説まで出して、真淵の「ミミガネニ」を一歩進めて「みがねのだけに」とした。つまり後世の「御金の岳」と同じ山にするために、強引に本文をかえてしまうわけだ。ところが、真淵のところで言った、大迂回という欠点については何も言わない。「八句四聯の疊對」が見事で、人麻呂もこういうのを学んだのだろうという。「吉野山の中にても金《カネ》の御嶽《ミタケ》はとりわけ高山なりければ、雪も雨も時なく間《ヒマ》なくふりけるが、彼の御陰謀につきて、吾物思も其雪雨の時なく間《ヒマ》なきが如《ゴト》滋《シゲ》くて、道の隈々…」というように、壬申の乱の陰謀が物思いの対象だと明言している。
〇古義、橘守部のように、耳我(みみが)などという山の名は吉野にありそうもないという。またそういう漢字表記も地名とは思えないし、大和志などの地誌類の説も臆説だという。このあたりさすがに懇切だ。そして真淵や守部のように巻十三の類歌をもとにするが、読みは守部に従って「ミカネノタケ」とする。ただし「耳我嶺」がなぜそのように読めるかについての根拠は示さない。真淵の「御缶(ミミガ)」説については、ミという美称の接頭語の重複、また「ミカ」が「ミガ」と濁音になるのはおかしいといって否定している(2269で言ったのは古義の説だった、訂正する)。またそれを鵜呑みにする略解なども厳しく批判しているが、自分は「ミカネノタケ」と読む根拠を全く示していない。それに、清濁の違いを批判しながら、自分は「我(が)」を清音に読んでいるようだ。これでは批判にならない。例によって「行」と「来」の違いを論じている。吉野の宮から女の元に通ったときの恋の歌とする。山越えで通うのはいいとして、大峰の雪山を越えていくのはほとんど不可能に近い。天武天皇やその周辺の人々が、そこまで吉野の自然に無知だったなどとは思えない。
注、時代別大辞典の万葉仮名一覧表では「弭」を「み(甲)」の仮名で出すが、書紀の例だけで、それ以外の古事記万葉集等の古代文献からは出していない。
注、同じ表で、「我」は「が」の仮名で出すだけで、「か」では出していない。
〇近藤註疏、古義説を否定するが、守部説のように類歌があるというだけで「ミカネノタケ」とよむのも無理として、「耳」を「ミ」と読み、更に「嶺」の下にもう一字「嶺」があったのが脱落したのだろうとして「耳我嶺々」とし、ミ・カネノタケとする。これもかなり持って回った説で、どうしても「御金の嶽」に持っていこうとしているようだ。あとは古義の説を大方引用しているが、物思いの内容については、天智没後大友が吉野まで攻めてきたらどうするかといったことを考えていたのだというふうに、かなり具体的に説いている。
〇美夫君志、耳我嶺について、真淵、守部、雅澄の説を長く引用してあれこれと批判している。要点をすべて要約引用するのも大変だ。
缶のような山などどこにでもあるから、缶の形からの命名ではなく、嚴(いか)の意味だ。ミイカをミミカとも言ったのだ。
巻十三の御金の岳に一致させようとしすぎるのは間違いだ。金嶺(カネノミタケ)、嚴嶺(ミカノミネ)、耳我山のそれぞれの山が吉野にあったのだ。
僻案抄の「結句に其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあれば、山路の間の御製にてはなく。到り給ひて後の御製と見えたれば、來の字をこしとよむべしといへり、さることなり」を支持。
拾穂抄、僻案抄の説をだいたい支持し、大友皇子との将来の大事(争い)をいろいろ思案したということ。
注、著者が「(ミ)カ」をどのような形と見なしていたのかわからないが、陶器の、酒壷、味噌壷のようなものなら、紡錘形の上下を切り取ったようなものだから、私がすでに言ったように、まずそんな形の山はめったにないだろう。それに、いかめしい形だから、厳山だというのはもっとよくない。「いかめしい」というのは、形容詞としては文句ないが、そう言うのはどんな山にでも言えることだ。形状からも、植物の生育状態からも、神社仏閣の存在からも、それぞれ言えるだろうが、それをそのまま固有名詞として山の名に付けるのは無理だ。ただの普通名詞になってしまう。「かんなび」とか「神山」とかいっても、それは神のいる山であって、「いかめしい」山ではない。ついでに言えば、嶽(だけ)という普通名詞がそもそも「いかめしい山」ということだ。他説を批判したつもりが、その批判がそのまま自説に当てはまるとは、よくあることだが、自慢できることではない。とくに、地名や難解語句の解釈など五十歩百歩になる事が多い。
補足、「かんなび」とか「神山」も普通名詞で、ところによって、それが固有名詞に転用されたものだが、こういうのは、普通名詞が固有名詞になったもので、「いか山」などという、いわゆる形状言がついたもので、固有名詞になるものはめったにないだろう。ただし形状言だからというより、「いかめしい」という形状の意味の山名ということで、丸山、高山とかいったものならあるだろう。