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巻1、2の地形地名等で、ノの有無、ノ表記の有無の違いについて見てきたが、その違いの意味は良く分からなかった。最後に書いたが、宇治間山(うじまやま)などは、1例しか無く、その地名にどのような感情が込められているのか、さっぱり分からなかった。富士谷御杖ではないが、倒語的な裏の意味も、さらには表の意味もわからない。「うじま」ノ「やま」なのか、「うじ」ノ「まやま」なのかも分からない。後者なら、土屋私注の解釈にもなるが(本当は「うじ」ノ「ま」ノ「やま」でちょっと違うが)、案外可能性がある。なお作者が長屋王ということで、地名にあまり情感を込めたり、擬人的にみたりしない個性が絡んでいたのかも知れない。
こういう比定に困難を感じる地名の一つが、問題にしている「耳我嶺」なので、有名無名の観点からもう一度見直してみよう。
1、まずいわゆる旧国名については、一部を除き、万葉の時代には確定していたので、現在のどこかが明瞭に分かり、歌の理解にも支障がない。
 八間跡能國(2)、倭(29、35、64、70、71、73)、日本(44、52、63)
  これらの場合、大和の国、つまり現在の奈良県の意味のもあれば、日本国の意味のもあり、さらには、郡程度の大きさの古い呼称のもあるようで、判定にはさじ加減が必要。
 淡海(ノ)國(29)、淡海乃國(50)
  現在の滋賀県でいいが、びわこ南岸から西岸にかけての一帯のイメージがある。
 木路(35)
  和歌山県を貫く道路ではありえない。和歌山県内の主要道(今の場合南海道)の一部。
 對馬(62)
  ただの離島だが、国境にあり旧国名になるほどの島だから著名。
以上4例。大和の一部を除き、印象は鮮やかである。
あとで触れるかも知れないが、題詞に国名のあるのがある。作者が付けた題詞でないとき、なにか残された記録で判定したのだろうか。
5、幸讃岐國安益郡… これは歌中に「網能浦」とあるだけで、記録がないと無理。
10、11、…徃于紀温泉… 「紀温泉」といえば紀伊の国の温泉。
17、…下近江國… 歌には三輪山、奈良山が出るので、題詞は関係がない。
歌中に地名の無いので、題詞にあるのはおおかた行幸、まったく行幸のおかげでどこで詠んだかというのがだいたいわかる。行幸の記録には歌も挿入するのが決まりだったのだろう。

国名に次いで、現在のどこか分かるのは、郡名だろう。
 内(4) これは現在全域が五條市だが、和名抄に宇智郡とある。
 伊奈美國波良(14) 和名抄に印南郡とある。大和しか知らない人間で、地理に興味のない人にはどこか分からないような地名だが、山陽道を旅行した当時の知識人ならよくわかる地名だろう。
 吉野(25、74)、芳野(26、27)、吉野乃國(36)、吉野乃河(37)、芳野川(38)吉野乃山(52) もちろん和名抄に吉野郡とある。郡であろうとなかろうと、大和の人間で知らないものはないが、のちには全国的に知られた地名になった。不思議なものだ。「ヨシノ」の響きがいいということもあろう。
 兎道(7)、氏河(50) 山城国宇治郡があり、今も宇治市としてよく知られている
 住(ノ)吉(65) 摂津国に住吉郡があり、今も住吉は有名。
 隠乃山(43)、隠(60) 伊賀国名張郡があり、今名張市になっており、大和に接していて近いから、大和の人で知らない人はないだろう。
 手節乃埼(41) 志摩国に答志郡答志郷がある。
 思賀乃辛碕(30)、志我(31) 県名にもなった近江国滋賀郡がある。都があったのだから。だいたい当時の知識人は知っていただろう。

以上国はともかく、郡名となると知らないのが増えると思えるが、万葉集は大和とその近くが多く、よく知られたものばかりで、その有名なのがそのまま郡名になっているといったものだ。

次に郷名にあるものを列挙する。
 巨勢道(50)、巨勢山(54)、許湍(54)、巨勢(56) 高市郡巨勢郷
 三輪乃山(17)、三輪山(18) 城上郡大神《おほみわ》郷
 泊瀬(ノ)山(45)、泊瀬乃川(79) 城上郡長谷郷
 奈良能山(17)、平山(29)、楢(79)、寧樂(80) 添上郡楢中郷
 泉乃河(50) 山城相楽郡水泉郷
 大伴(63、66、68) 摂津西成郡雄伴郷

以上で終わり。案外少ない。しかも大和とその周辺だけ。巻2から20まで全部見たらもちろん、まだまだ出るが、やはり、万葉で一番古い巻1あたりならこの程度だろう。しかし、国郡郷以外のもたくさんある。

大和
 天乃香具山(2)、天之香来山(28)、高山(13、14)、青香具山(52)
 耳梨(13)、耳梨山(14)、耳為(52)
  大和志、十市郡村里、戒下《カイゲ》【一名香久山】。山川、香具《カグ》山【在2誡下村上方1山形秀麗有v寺】
 耳|成《ナシ》山【成一作2梨或無1又作2無v耳1在2木原村上方1四面田野孤峯森然山中桐樹多矣因又呼2梔子《クチナシ》山1】  
 明日香(78)、
  同、高市郡村里、飛鳥《アスカ》
 雲根火(13)、畝火之山(29)、畝火(52)
  同、高市郡村里、畦樋《ウネビ》
  同、山川、畝火山【畦樋村上方巍然特立無2他山相連1】 
 藤原(50、53)、藤井我原(52)
  同、高市郡山川、大原【大原村一名藤原又名藤井原見2多武峯寺記1】
 埴安(52)
  同、高市郡文苑
 橿原(29)
  同、葛上郡【古蹟】橿原宮【柏原村 神武天皇都2於畝火山西南橿原1…
 耳我(ノ)嶺(25)、耳我(ノ)山(26)
  同、吉野郡山川、耳我《ミヽガノ》嶺【在2窪垣内村上方1山勢盤紆頗幽勝○御舩山已下中莊】
 去来見乃山(44)
  記載無し。
 秋津(36)
  記載無し。
 象乃中山(70)
  同、吉野郡村里、喜佐《キサ》谷【屬邑二】
  同、同、山川、象山《キサヤマ》【喜佐谷村上方】
 宇治間山(75)
  同、同、山川、宇治間山【在2池田荘|千俣《チマタ》村1○倶有2古歌1】
  同、吉野郡文苑
 阿騎(45、46)
 同、宇陀郡村里、拾生《ヒロフ》【舊名|明城野《アキノ》】 
  同、同、山川、吾城《アキ》野【在2迫間《ハサマ》本郷二村間1】 
  同、同、神廟、阿紀神社【…○在2迫間《ハサマ》村1…
  同、吉野郡山川、安騎《アキ》野 東《アツマ》野【倶在2御料莊善城下市二村間1】
 佐保川(79)
  同、添上郡山川、佐保川【源自2鶯瀧1經2川上村1納2佐保山水1※[しんにょう+堯]2南都西北1經2大安寺1至2辰市1流2郡界1曰2奈良川1至2下三橋1入2添下郡1】 
 高野原(84)
  同、添下郡山川、高野原【在2超昇寺村1有2高野陵1】
 立田山(83)
  同、平群郡村里、龍田【屬邑六】
  同、同、山川、龍田山【在2立野村上方1形勢雄偉巨川※[しんにょう+堯]v麓流山麗水潔】 
綜麻形?(19)
  城上郡記載無し。

和名抄の国郡郷以下の村里のようなものの地名を大和志で拾ってみよう。まず「十市郡村里、戒下《カイゲ》【一名香久山】」というのは疑わしい、「カイゲ」と「カグヤマ」では発音上かなり離れているし、村里の名を山の名から取るというのも普通ではない。飛鳥は村里で出ているが、和名抄の郷名にないのが不思議なほどよく知られた地名だ。畝傍は表記はかなり違うが(畦樋)、村里の名で出ている。藤原は山川の地名で出しているが、大原村の一名としても出している。しかしあまり信用できない。藤原氏にゆかりがあるから、藤原とも言えるといったところだろう。あとは、立田山の立田が「平群郡村里、龍田」で出ている。これら以外は村里の名として知られるものではない。もちろんこれは江戸時代の大和志(五畿内志)が書かれた頃の村里だが、非常に克明なもので、現在の地名とほとんど一致する。行政上の地名の記録などが細かく残され、それが現在につながっている(といっても1980年ごろまでの話だが)。
これら以外の多くは、「山川」の項目で出て来たものだが、これも村里のと同じく、今も残る地名が多い。しかし、大和志らしい混乱というか、古典文学に出る歌枕的な地名も現実にそういう地名があるかのように掲出している。これははっきり区別しなければいけない。現在残っていない地名は、やはり大和志のころにもなかったと見なすべきだ。古典文学から作り出された架空の地名である。
山川地名で、現在も存在するもの。
香具山、耳成山畝傍山。言うまでもなく大和三山のことで、記紀万葉などに出る場合も、現在の地理に一致しており、問題ない。ただし耳成山は、私の父ぐらいの人以前では「天神山(てんじんやま)」というのが多く、耳成山とはあまり言わなかったようだ。しかし耳成山で通じたことは間違いない。また畝傍山は、私の子供の頃は「むね山」といっていた。「うねび山」の「うね」が「むね」に訛ったのではなく、別の言葉としての「むね山」だった。これも「畝傍山」でも通じた。こういった別称というのは山川地名ではよくあることだ。高取川にしても、わたしなどは「しょうめんがわ」といっていた(おそらく青面川)。ただし川の場合は流域が多町村にまたがるから、部分名という場合が多い。別称と言うことで言うと、大和志は、耳成山を梔子山(くちなしやま)とも言ったと言って、山中に「くちなし」が多いからと言っている(そのせいか橿原市の木とかになっているようだ)が、おおいに疑わしい。まず耳成山を初めとして橿原市あたりで、梔子が自生している山などない。耳成山に多いのは、ヤマモモである。ついでにいうと畝傍山にも多い。昔は耳無とも書いたから、いや口がない、口無山だろうという、平安時代の和歌(古今集)に由来するもので、全く無意味な地名だ。実際に耳成山には梔子の木が繁っていると勝手に空想する人までいるようだ。天神山は普通に別称として使われた。
藤原、藤井が原。現在こういう地名はないし、大和志の時代にもなかったようだ。大原の別称が藤原だというのは先述したように疑わしい。万葉に出るのは、大和三山に囲まれた平地だが、もちろんそんな地名はない。万葉のころにはあったのが消滅したのだろうか。
埴安。これも現在は存在しない。大和志も文苑の項に出しているだけ。つまり万葉の歌の地理から見て、香具山の近くだろうというわけだが、ただの状況証拠で、実際に確実な比定は出来ない。香具山の麓に建土安神社(たけはにやすじんじゃ)というのがあるが、これは神名であって、地名とは関係ない。
橿原。大和志は御所の柏原を出しているが、曾我川の対岸でもあり、記紀万葉のとは関係ない。現在、橿原公苑とか橿原市とか言っているが、新しく作られた地名である。記紀万葉の橿原は畝傍山の麓だというだけで、どこにあった地名なのか不明である。
去来見乃山。大和志に載せていないということは、大和の地名とは見ていないのだろう。万葉集の注釈書類では、吉野の高見山のことかとするのが多いが、大和志では、高見山、別称、高角山(たかつのやま)とするだけで、「いざみのやま」の「い」の字もない。万葉の状況証拠から見ても、伊勢行幸のときの歌だから、伊勢方面の地名と見ているのだろう。ただし伊勢にも(あるいは伊賀にも)そんな地名はなく、謎である。
秋津、吉野宮瀧を舞台にした人麻呂の歌にあるから、状況証拠から見て、その辺だろうというだけで、大和志も出していない。つまり大和志時代の地名として宮瀧あたりには影も形もないということ。今、宮瀧の対岸の「秋戸河原」の大字を出してそこかと言ったりしているが、あまりあてにはならない。キャンプではないのだから、河原に宿泊用の家を建てるわけがない。
象の中山、今そういう名の山はないが、喜佐谷というしっかりとした地名があり、宮瀧の対岸にそれらしい山もあるから、まず間違いない。ただし大和志が山川で象山として出しているのは、例によって実在の地名ではなく架空のものだろう。
宇治間山、象山と同じ考え方。ただしこちらは、千股(ちまた)の「ちま」と「宇治間」の「ぢま」が共通だというだけのようで、喜佐谷より根拠薄弱。それに状況証拠からして、飛鳥から吉野宮瀧への道筋というが、千股は宮瀧からかなり離れているし、千股にそれらしい山もない。正しく謎である。
阿騎、今そういう地名はないが、書紀や万葉の歌から見て、大和志の言うところで間違いない。
佐保川、大和志の言う通り。
高野原、陵墓名「高野陵」だけを根拠に山川で出しているが、多分そのあたりだろうぐらいのもの。今、近鉄に「高の原駅」が出来て有名だが、万葉による新地名で、最近の開発の激化で全国的な現象。ほとんど普通名詞のようなものだから、具体的にどことわからなくても困らない。
立田山、村里でも山川でも出していて、明瞭なように見えるが、現地は丘陵性の低い山があるだけで(生駒山地大和川になだれこむところ)、万葉地理の研究者も具体的にどこを示せばいいのか迷うところで、説が分かれる。高野原と同じで、だいたいわかれば歌の解釈には問題ない。要するに、大和と河内の国境ということ。
綜麻形、大和志も完全に無視しているが、状況証拠から三輪山あたりの地名と言うだけで、地名かどうかも再考の余地がある。
耳我嶺は、25番歌の歌中の語から、吉野にあるということは分かるが、それ以上詳しい事は、不明である。大和志が、吉野の山川で【在2窪垣内村上方1山勢盤紆頗幽勝】として出しているのは荒唐無稽。だいたい大和志で「在…上方」というときは、実際にはそう言う地名がないということだ。窪垣内村というが、実際には国栖の一部で、そこに天武天皇関係の伝説があるところからの付会であろう。こういうのを根拠にいろいろと25番歌の背景や壬申の乱の行程などを穿鑿しても意味がない。
以下、大和以外のは省略する。

和泉
   高師能濱(66)
近江
   樂浪(29、30、32、33)、左散難弥(31)
   大津(ノ)宮(29)
   比良(31一云)
   田上山(50)
伊勢(志摩、三河
   射等籠荷四間(23)、伊良虞能嶋(24)、五十等兒乃嶋(42)
   嗚呼見乃浦(40)
   圓方(61)
山(ノ)邊(81)?
三河
   引馬野(57)
   安礼乃埼(58)
紀伊
   岩代(10)
   野嶋(12)
   阿胡根能浦(12)
   子嶋(12或云)
   勢能山(35)
讃岐
   網能浦(5)
伊予
   熟田津(8)