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工藤氏が二つ目に出された参考文献。
古代の読み方 神話と声/文字、西條勉、笠間書院、283頁、2800円、2003.5.31
これは未読なので最初からきちんと読んだ。ところがいけどもいけども出てこない。第二部の第二章「韻律と文字」(150~175頁)でようやく出た。これは品田氏と違って、主題として論じたものであり、頁数もかなりある。
五七五七七の定型は書くことで成立すると言われるが、それをあきらかにするための予備作業をするといっている。これは嫌な予感がする。入口だけで本論がないのではないだろうか(実際その通りだった)。歌謡というのは、本来、韻律(リズム)と歌舞による民間の言葉の音楽で、肉体性のリズムが言葉のリズムに置き換わったものが所謂古代歌謡である(このあたり西條氏が親炙された西郷氏の論説と似ている)。それが万葉になって五七五七七の和歌の定型になった。これはもう目で読む歌だが、人麻呂あたりでは、それが声に出して歌われることもあった。
ということで、それからいよいよ本格的に万葉の定型(長歌も含む)の成り立ちが詳しく論じられるのだろうと思ったが(字足らずの不定型も含めて)、ぷつんと切れていて、「土地の名と文字」、といった全然関係のない議論になる。第一部のほうも、テクスト論とかパラダイムの摩耗とか作家論の流行とか、読んで飽きないけれども、しょせん注釈や解釈を金科玉条とする万葉学会の人たちには通じない話だ。それに話題があまりにとびとびで、総体としてただの八百屋になっている。ちょっと言い過ぎたかな。個々の作品を論じるときに、万葉集全体というテクストの文脈を捉えて作品を読むことが大事だ、というのは納得した。茂吉ではないが、やはりどうしても柿本人麻呂の作品なら、そこに柿本人麻呂という作家の精神を読もうとしてしまう。万葉集という歌集のなかでどういう歌として読むかという視点が必要というのは、感心した。
それから西條氏は、専論のかたちで、和歌の定型の成立を論じておられる。次にはそれを読んでみよう。