2110~2115
2110、
先に普通名詞の「原」も出しておいたが、圧倒的に植物が多いのは当然だろう。あとは地形に関するのが続く。国原、海原、河原、天原。そして気象が一つ、露原。当然ながら動物はない。狼などどこから出てきたのか。以下例によって、注釈の点検。
拾穂抄、まかみかはら 八雲抄に大和と云々日本紀廿一ニ蘇我ノ馬子始作2法興寺ヲ1此地ヲ名ク2飛鳥ノ真神カ原ト1云々名有v故
代精・代初、天武崩御の後、持統天皇の朱鳥二年十一月に至て、高市郡大内陵に葬奉らる、彼處を眞神原とも云か、崇峻紀云、蘇我(ノ)馬子(ノ)宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫造祖|樹葉《コノハ》之家(ヲ)1始(テ)作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神《アスカノマカミノ》原1、亦名2飛鳥(ノ)苫田《トマダ》1、…。其名づくる由は別に注す、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/1/62_KJ00008992048/_pdf/-char/ja
に仏性としての真神が出てくる。法興寺の建立と関係はないか。調べてみよう。
2111、
童蒙抄、眞神之原爾 天武天皇の皇居大和の地名淨御原ともいひ、まがみの原とも稱せし也
万葉考、眞神之原爾、 是より下七句は、天武天皇の御陵の事を先いへり、さてこゝには明日香の眞神の原とよみたるを、紀には大内てふ所と見え、式には檜隈大内(ノ)陵と有は、本明日香檜隈はつゞきてあり、大内はその眞神原の小名と聞ゆ、然ればともに同じ邊にて違ふにはあらず
略解、考とほぼ同じ。
楢の杣、眞神の原は即清み原の宮造在し所也。こゝを眞神の原と云は、欽明紀…(狼のこと)。今の飛鳥から藤原京までの原野。
攷證、考と同じ。
2112、
檜嬬手、天武天皇の…清御原の宮號は申さずして、眞神の御陵を以て申せるは
古義、考をまるまる引用。
近藤註疏、考をまるまる引用。
新考、檜隈大内陵は飛鳥の真神の原だったが後に檜隈に属したのだろう。
折口辞典、橘、河原の間から見瀬に伸びたところ。飛鳥は古く檜隈も含めた。
2113、
講義、真神の原はいわゆる飛鳥大仏のあたりで、檜隈の大内陵は関係ない。「淨御原の宮の所在はこの眞神原となる」。
全釈、天武天皇陵のあるところ。陵のあるところは檜隈と飛鳥が接している。
土屋総釈、真神の原は陵墓の地。今の高市村飛鳥。
精考、眞神が原は文脈からしてどう考えても陵墓である。
金子評釈、天武天皇がその皇居飛鳥(ノ)淨見原宮を雷の岡の東、眞神の原に奠められたことをいふ。そこを陵墓の所在地とするは甚だしい誤解である。
2114、2115
茂吉評釈、吉田地名辞書の結論を簡単に書いただけ。茂吉らしくない。
全註釈、まがみがはら。天武の陵墓以外の解釈は不可能。檜隈大内は「まがみがはら」を通過したからそう言ったのだろう。
窪田評釈、従来、御陵墓の地と解されていたが、喜田貞吉、『講義』などの考証によって、宮殿の地と解されるに至った。…檜隈大内陵とあり、…、飛鳥とは離れていて、明らかに別である。したがって御門は宮殿であって、真神が(ママ)原に浄御原宮はあったというのである。従うべきである。
佐佐木評釈、吉田地名辞書の通り。真神の原は陵墓の場所ではない。
私注、真神の原は宮殿の地。今の飛鳥寺南方の平地。
大系、吉田地名辞書の通り。陵墓は檜隈にある。真神の原は宮のあった地とする。
注釈、窪田評釈とほぼ同じ。
全集、真神の原は飛鳥大仏のあるところだが、ここは陵墓のある地である。飛鳥大仏と檜隈大内陵とはかなり離れており疑問とするのもある。
集成、真神の原は飛鳥大仏のあたり。そこが宮殿なのか陵墓なのか明言しない。
全訳注、地名辞書の通り。陵墓がどこかは言わない。真神の原は宮廷のあった所。
全注、窪田評釈と同じ。
新全集、地名辞書の通り。陵墓がどこかは言わない。真神の原は宮殿のあった所。
釈注、窪田評釈と同じ。
和歌大系、地名辞書の通り。天つ御門を天武陵とする説もあるが浄御原宮をいう。
新大系、真神の原を陵墓の地と見ている。
阿蘇全歌講義、地名辞書の通り。真神の原は宮殿のあった所。
多田全解、地名辞書の通り。真神の原は宮殿のあった所。
豊田八十代、萬葉地理考、地名辞書の通り。陵墓の地だが、檜隈大内とは矛盾する。
大井重二郎、萬葉集大和歌枕考
奥野健治、萬葉大和志考、澤瀉説がよいようだ。
北島葭江、萬葉集大和地誌、山田講義の言うように真神の原は宮殿のあったところ。
阪口保、萬葉集大和地理辭典、折口説の紹介のみ。
犬養孝、万葉の旅(上)、地名辞書の説を紹介したあと、異説も紹介。~