2325、わざみ8

2325、わざみ8
高野正美、高市皇子の殯宮挽歌、万葉歌の形成と形象、笠間書院、1994.11.1、所収。
榎本氏が、高市挽歌の壬申の乱の読解において、村田、金沢氏と並べて、何度か引用し、その解釈を否定した。主語の問題にしろ、神話的な表現科と言った問題にしろ、明快な否定であって、榎本氏の新説といってよいものだった。高野氏の場合は、その説は大方森朝男氏のをうけたもので、森朝男氏を引用すれば、特に高野氏の名をだすこともなかった。榎本氏とは関係ないが、高野氏のは後半、殯宮にかかわって、「もがり」論が、本居説などを引用しながら、長々と展開されており、しまりのない論文になっている。以上のようなことで、今更紹介するほどのこともないが、一つだけ引用する。

「真木立つ不破山越えて」は壬申紀の記述と相違することから、この戦關に従事しなかった人麿が、大和から見て不破山を越えた彼方のというふうに思いやったもの(1)、ともいわれているが、これは、
  やすみしし わご大王 (中略) 神ながら 碑さびせすと 太敷かす 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 石が根 禁樹おしなべ 坂鳥の 朝越えまして…… (巻一・四五)
という軽皇子の安騎野狩猟歌と同様に、神としての行動を讃える表現であり、史実とは切り離して考えるべきであう。

これはほとんど誤読と言っていいものである。「真木立つ 荒山道を …朝越えまして…」が「真木立つ不破山越えて」と似てはいても、「荒山道を」と「不破山」では決定的に違う。「不破山」という固有名詞を持ち出したら、書紀の記述と逢わないし、大きな地理上の矛盾をきたし、そういうものが、神としての行動になるはずもないのである。神であっても、飛鳥から、泊瀬山ではない、奈良山とか、龍田山を越えて、宇陀の安騎野へ遊猟に行くなどという酔狂なことはしないであろう。人麻呂のような構想力に優れた歌人長歌の傑作という先入観があるから、それに合わせたような読解(誤読)へとバイアスがかかってしまうのだろう。

吉田義孝柿本人麻呂とその時代、桜楓社、1986.3.10、所収「高市挽歌論――高木氏の所論との関連で――」、初出「万葉」五一号、1964.4
吉田氏については、榎本氏もかなり詳しく言及されたが、それは『古代宮廷とその文学』1998.5おうふう、の日並挽歌論であって、高市挽歌論ではなかった。金沢氏は、こちらの方を引用されたが、人麻呂舎人説否定に関する箇所だった。高野氏も、引用されていたが、壬申の乱の戦闘描写について、吉田氏説を否定していた。
いずれにしても、必ず参照すべき論文であることは間違いないようだ。私は二冊ともに読んでいるが情けないことになにも印象に残っていない。北山茂夫、吉永登などの所謂政治と文学を論じた人たちの一人として有名な人だという印象は強い。それはともかく、あらためて読んでみると、榎本氏の論文は大方吉田氏のと同じである。表現の分析が細緻になっているだけだと思える。吉田論文に、村田論文などを加えて基調にしたものに思える。吉田氏が自身で要約したものを、引用しておく。

 第六章 高市挽歌論――高木氏の所論との関連で――
 かつて高木市之助氏は、高市挽歌を中心に、人麻呂の宮廷儀礼歌は、壬申の乱後に呼びさまされた集団的な舎人意識を、皇子の舎人としての人麻呂が継承発展させることで、その重厚な文学達成を可能にしたと主張し、それを全面的に支持した西郷信綱氏は、同じ高市挽歌の壬申の乱の叙述の中に、英雄叙事詩的なものの残映を認めようとしている。この章では、高市挽歌を、発想や内容・構成等の角度から綿密に分析検討したことの結果として、この挽歌にうたわれている皇子の舎人の悲哀と慟傷は、決して人麻呂のそれと等質なものではなく、人麻呂はむしろより高次な宮廷歌人としての立場から、第三者的な客観描写をしたもので、その意味からするならば、人麻呂を草壁・高市両皇子に直接勤仕した舎人とは到底考えられないことを強く指摘し、さらに歌の内容に即しながら、人麻呂がこの歌で印象づけようとしていることは、第一に、壬申の乱の最高の殊勲は天武天皇その人に帰するもので、高市の功績は天武の下命にもとづいた総指揮者としてのそれにしか過ぎなかったこと、第二に、持統朝における高市の任務は、あくまでも太政大臣として持銃を補佐することにあり、決して皇太子としてのそれではなかったこと、の二点にあり、そうしたことの叙述を踏まえて、亡き皇子へ篤い哀悼をささげたもので、歌じたいすぐれて政治的な意図をふくみもつことを明らかにした。また、それに関連し、人麻呂のこの宮廷歌人的な政治姿勢が、壬申の乱の叙事文学的な形象化を著しく阻害していて、そこに英雄時代の残映を認めることは到底不可能なことも指摘しておいた。戦後の学界を大きく揺るがせた、歴史学者をもまきこんでのいわゆる英雄時代論は、この国の古代文学の本質把握に深くかかわる主要な問題をはらんでいるにもかかわらず、主唱者はもとより、その支持者たちも、いまや全く沈黙を守って、その後大きな進展をみないまま今日にたちいたっている。あえて、『万葉』五十一号(昭和三十九年四月)掲載の論攷に、手を加えず、当時のままに転載する所以である。

長い引用で申し訳ないが、まるまる引用した。私はこの論に全面的に同意する。具体的な分析の部分でも、吉永説を敷衍させた部分(戦闘場面は、一般的な描写で、高市皇子を主役にしたものではない)は説得力がある。高野氏はここを否定していた。書紀の記述と大きく矛盾するのは、天武持統への翼賛的な思考がもたらしたものだということになろう。「人麻呂のこの宮廷歌人的な政治姿勢」というのは、如是閑のいう「職業詩人」的な態度につながるだろう。そういうものを傑作とは言いにくい。

北山茂夫、白鳳の宮廷詩人、「萬葉の創造的精神」、青木書店、1960.4.1所収、初出、萬葉第7号、1952.4
思い切って古い論文だが、吉永、吉田などに関係があるから、読み返してみた。例によって、小説風に書紀を訳し写したような部分が多く、論文としての奥行きに欠けるし、人麿、赤人、家持まで説明するのだから薄くなる。万葉学会から頼まれたものだろうが、おなじようなものでも、益田勝実などより落ちる。
儀礼の場で、天皇の詔を受けてうたおうとした…すこぶるエネルギーを込めて…、典礼の創始という宮廷の事情のもとに…作歌の内容、形式の上に、白鳳期の集大成…ゆたかな特質を備えている。…その傾向は守旧的でもある。…すこぶる情緒的だ。批判の気分など…あらわれていない…。…宮廷の草創的気分の中で…空前の文芸的達成をかちとることができた。そういう意味においてのみ、かれを白鳳期特有の宮廷詩人とよぶことがゆるされるであろう。
わかりにくい引用になったが、結論部分をまるまる引用してもそうかわりない。ようするに白鳳の時代精神をみごとな文芸作品のかたちで残したから、宮廷詩人だというのだろう。文芸というのは、文学ではないから、詩人といっても、一段落ちるのだろう、だから「宮廷」詩人というわけだ。守旧的で、疑問や批判精神がないというのは、伊藤博などのいう、時代の制約ということだろう。独裁国家も上昇期にあっては建設的な面もあるということか。ついでにちょっと言っておけば、北山あたりの古代史家に多いのだが、南大和という言い方が頻出する。わたしのような奈良県人に言わせると、南大和というのは、吉野や五條あたりのことだが、北山は、高市郡あたりのことを言っている(地元では中和ともいう)。中和というのは馴染みがないのなら、せめて飛鳥地方といえば誤解がない。それから壬申の乱の時の金綱井(かなつなのい)も何度か出るが、橿原市今井町小綱(しようこ)といっている(岩波古典大系も同じ)。こんな地名はない。橿原市小綱町(しようこちょう)だ。こういう地理的な間違いが、学者には多い。論文としてはどうでもいいのかも知れないが、違和感があるし、ひっかかるし、地元に対して失礼だ。

同、柿本人麻呂、同、初出、体系文学講座巻7、1956.9
人麻呂にしぼっただけあって、詳しくわかりやすいが、要点は前掲の論文と同じだ。一つ言い添えるなら、歴史的な制約の多い儀礼歌(献呈歌)ではない、相聞歌にこそ、人麻呂の文学としての傑作があると言っている。

阿蘇瑞枝、壬申の乱の周辺、「万葉の虚構」古文芸の会・大久間喜一郎編、雄山閣出版、1977.9.15
これは最近の論文では引用されないようだが、阿蘇氏の「全歌講義」119番のところで自分で、この歌の虚構についてはこの論文で論じたと言っている。私の課題は、壬申の乱の描写の虚構だから、一度大昔に読んだ(勿論何も覚えていない)ものを再読した。
斎藤茂吉、武田、土屋、吉永登、松原博一、代匠記、全釈、沢瀉、伊藤博吉田義孝(補足的に西郷信綱)、橋本達雄、桜井満
が引用されている。当時としてはこれで充分なのだろう。それにしても、他説の引用や、書紀の引用が大量で、長い割りに独自の部分はすくない。そして、骨格は、吉永、吉田説に従っている。つまり、壬申の乱の叙述は当時の通説のような、高市皇子の前戦での奮闘ではなく、吉田説のいうように、一般的な戦闘の描写に過ぎない。ということは、高市は和※[斬/足]から動かなかったのであり、その事実を知らせるために、人麻呂は一般的な戦闘描写をしたというのである。戦闘そのものよりも、戦乱後の天武のもとでの執政が偉大な功績であったのであり、それですぐれた挽歌になっているというのである。

イ、生前の姿を歌い上げる時にも、対象にふさわしい事柄を歌材として採択しているのであって、そこにすでに人麻呂の文学的虚構の精神が働いていたとみられよう。
ロ、人麻呂がその挽歌で壬申の乱に中心をおいたのは、けっして彼のひとりよがりではなかったのである。その戦闘の叙述に和※[斬/足]以外の地名をもちこまなかったのも、高市皇子が明らかに敵と対戦したと思わせるような表現をせず一般的な戦闘の叙述にしたのも、皇子が和※[斬/足]から動かなかった事実を人麻呂が知っていたからかも知れない。
ハ、事実をふまえながらも、そこに独自の秀れた文学的世界を構築し得たところに人麻呂の詩人としての生命があったといえる。

この程度しか引用する所がないが、どう考えても、議論がかみ合っていないとしか思えない。この論文の目的は高市挽歌の虚構の解明だったはずである。題材の選択がなぜ、文学的な虚構と言えるのか。万葉最大の長篇でも、文選の、誄、哀、碑文、墓誌などに比べたら比較にならないのだから、題材が一番関心のある行跡に絞られるのは当たり前であり、虚構というような大げさなものではない。論文最後のハでは、事実を踏まえながら、といっているが、事実を構成して虚構になるのか。こういう認識だから、不破山越えや、和※[斬/足]行宮といった書紀の記述との矛盾については、全く触れもしない。沢瀉久孝ですら、触れているのに(もっとも沢瀉は地理に触れることの多い人だが)。

身崎壽高市皇子ヤマトタケル――高市皇子挽歌試論――、国語と国文学、1996.4、73巻第4号
榎本氏は、人麻呂の方法-時間・空間・「語り手」、2005.1.25、を引用されていたが、この論文は大きく圧縮されて再録されていて、ヤマトタケルは一回しか出てこない。金沢氏はこの論文を引用している(まだ論文集の方は出版されていなかった)。村田氏はこれの20年以上も前だから当然引用できない。榎本氏はもちろん、金沢氏も、身崎氏の論文の前半、つまりその部分の主語(主体)を文脈から論じた部分を少しだけ参考にしているだけで、後半のこの論文の主題である、高市皇子ヤマトタケルの重なりについては言及されない。当然だろう。根拠の薄弱な思いつきで(私でもそれぐらいは思い付く)、ちょっと考えれば、挽歌の中の高市皇子など全然ヤマトタケルには似ていない。論文集収録の際の初出論文の一覧に論文の題名すら出さなかったのは、失敗作だと認めたのだろう。

追補、「そがひ」について調べたとき、橋本全注が、中西進氏の論に賛成していたことを見、批判しておいた。ようやく中西氏の論を見ることが出来たので、改めて批判しておきたい。
中西進 著作集23(万葉の長歌)、四季社、405頁、5500円、2008.9.30(初1981.12.1教育出版)
                   
「帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに」=「帯ばせる」は帯としていらっしやるという敬語ですね。神様の降臨なさる山のことを神奈備山と申しますけれども、神祭備山には必ず神奈備川という川がありまして、その川が取り巻くことにおいて神奈備山の条件が完備すると古代には考えました。つまり、そういう山と川のワンセットが聖なる地をつくり上げるわけですね。そういう点で「帯ばせる」という言い方は、神奈備川に習慣的に出てくることばです。だからここも神奈備川と同じに扱っているのです。
 実はこの片貝川は、立山と少し離れているのです。ですから、正確に申しますと、「帯ばせる」というのは多少適さないことになります。立山の範囲を少し北の方まで拡大すれば、確かにそうなるのですけれども、普通に申しますとそういうわけにはいきません。いかないにもかかわらず、「帯ばせる 片貝川の」と言ったところが、実はどういう気持であったかを正直に語っていますね。つまりこれを神奈備山にしたいのです。だから、多少の無理をして片貝川を帯とするという言い方をしてしまうわけですね。無理のところが、気持をかえって強く示していることになります。

…夏の間じゅう見ているけれども、見飽きないことだ。それは「神から」であるらしいという歌ですね。「神から」はその神様が神様であることによってらしい、言ってみれば神山の名にそむかないことよという意味です。つまり、夏の間じゅう雪が消えない状態を神々しい神の姿だと考えているのです。

始めの引用で、「神様の降臨なさる山のことを神奈備山と申し…」といいながら、後の引用で「神山」とか「神々しい神の姿」とか言っている。これは矛盾している。以前にも言ったが、「神奈備」というのは、中西氏も言うように、祭りなどの時に「神が降臨する」山とか森である。ところが、立山は、富士山などと同じように、山そのものが神であって、山に神が降臨するのではない。大和の神奈備などとは大きく違う。つぎに、遠く離れていて、立山の帯にはなっていない、片貝川を無理して神奈備川にしたのは、気持を強く示したからだと言うが、無理な話である。立山には、常願寺川という立山の麓をぐるっとめぐる帯そのもののような川がある(すでに地元の学者によって指摘されている)。家持は、越中には川がたくさんあると言っているのだから、片貝川よりはるかに大きい常願寺川を知らないはずがない。それを無視して、なぜ遠く離れた片貝川を無理に帯としての神奈備川にしたのか。その理由を中西氏は説明していない。どこから見ても無理な説であり、これに賛同された橋本達雄氏も考えが行き届かなかったと言えよう。