2051、2052、2053、2054
万葉20号(1956年7月)、浅見徹「「廣さ」と「狹さ」――上代における連體格助詞の用法について――」
長い論文で難解かつ読みにくく、昨日今日で何とか読み終わったが、結論がすぐには見えてこない。それに主題であるはずの「廣さ」「狹さ」への言及がなく、推理するしかない。それはともかく、地名の「の」「が」に触れたところがあるのは参考になるかも知れない。残念なのは、参考文献の中で読んだのは池上禎造先生のものだけで、石垣、青木、山田はほとんど読んだことがなく、森重、佐伯などは一部読んだだけということで、勉強不足は今さらどうにもならない。
浅見論文を読むの続き。
「が」地名として例示されたもの。
かほやが沼、弓月が岳、藤井が原、むらじが磯
これらの固有名詞は「の」のつく固有名詞に比べて少数で、地名構成以外の例がない。同一地名で「の」「が」両形のあるのはない。
あすかの川、というとき、あすか地方にある川、という意味と、川自体が「あすか川」なる名称を具えている、という意味とがある。前者は「が」では表現できない。
(つまり前者の方は普通名詞の性格が残っており、後者は固有名詞としての性格が強く、「が」の場合がそうである、ということ。弓月が岳、というのは、弓月という名前の岳、ということである。)
「が」の場合、「上下を結合すること緊密にして…特別の名称と見るを妥当なりとす」(山田、奈良町文法史)ということになる。よって、富士の高嶺、のように、Bに非固有名詞的な修飾を含んだ表現は成りたたないといえる。
(つまり、富士が高嶺、とは言えない。「が」の上下の体言(AB)は緊密に結合するということ。)
このあと、及びこの前には、地名の話はない。何となく索然とした話になっている。だいたい地名の「の」「が」の違いは分かるのだが、それとて普通の古語辞典にある説明とそう変わりはない。「の」の場合、どこそこの川とか山とかの意味、つまりその所在地を意味するのと、その名前そのものを示す場合とがあり、「が」はその後者しかないというのだが、だいたいはそうだが、例外的なのもありそうだ。「吉野が岳」などは、場所なのか、岳そのものの名前なのかわからない。また、そのものの名前という場合、「の」でも「が」でも同じことなのか。どうもそうでもない。やはり、その場合でも「の」はまだ普通名詞の雰囲気を持っており、「が」の方は固有名詞といての緊密度が高いようだ。あすかの川、がそのものの名前のばあい、あすか川、といってもいいわけで、緊密度をゆるめて、温雅な雰囲気をもたらす和歌的な技法ともいえる。「が」の場合は緊密度が高いせいか、「が」を略すのはないようだ。弓月が岳、を、弓月岳(ゆつきだけ)ということはない。
「の」は用法が広い。「が」は狭い。これが浅見論文の題の意味だろう。それはそれでいい。辞典の説明も似たようなもの。「が」の付く地名が少ないのも事実。私が知りたいのは、「の」でも言えるものをなぜ「が」でいう地名があるのか、ということだが、そういうことについては言及がない。弓月が岳、は、なぜ、弓月の岳、といわないのか。「が」を使う意味は何なのか。ただ狭いとかABの結びつきが強いとか言われても、和歌の解釈にはあまり役立たない。国語学的にはそういう説明で納得なのかもしれないが。あるいはそういう主観的なことは分かりようがないということなのか。