1944、
もう一つ是非紹介したいのが、
萬葉集大成(風土篇) 大和の風土 北島葭江
である。北島の「萬葉集大和地誌」は今までも何度も引用してきたが、これは大和の風土を見事に捕らえた好論である。しかし、かなり長い論文で、簡潔な要約は困難である。目立つ主張としては、
○当時の万葉歌人は、盆地の生活にほぼ限られ、山の名前でも、盆地周辺の目だった限られたものだけが現在ほぼ確実に比定され、そのほかは、漠然とほとんど普通名詞的に、泊瀬の山とか、巨勢の山とか、吉野の山とか言われるだけで、実際にどの山なのかこまかく比定することはできない。吉野の山にしても、「よしのやま」なら5音で使いやすいにかかわらず、必ず、「よしののやま」という。また、当時、「吉野の山」といわれたのは、龍門高取山地で、現在の桜の吉野山などは平安時代以降のものである。  この吉野山論は結構知られているが、かなり強引なもので、同意できない。今まで調べてきたように、「よしののやま」「よしのやま」のどちらもある。また、高取山地が吉野の山だというのは、ちょっと無理である。ついいでにいうと、昨日池上のところで、山に「が」を使った例はないと言われたが、「耳我山」を通説の「みみがのやま」ではなく「耳が山」と読めば、「が」の例になる。
○万葉人は山中へは余り入らず、山岳景観(懸垂する滝など)もあまり詠まなかったが、川については観察が細かく、地域ごとの細かい名前も詠んでいる。
なかなか要約しにくいから、これ以上は短時間ではちょっと無理だが、これらを本にして、今まで見てきた、「の」「が」の付く地名を見ていけば何か収穫があるかも知れない。