2142~2146

2142、
青根我峯(1120)。山関係の最後で吉野のもの。峰はやはり吉野にふさわしいが、なぜ「が」なのか、分かったようで分からない。「が」だから、広大な吉野山中のごく一部分の地形の名前だろう。それにしても、吉野などはどこを見ても青々とした山々峰々で、青根で特徴づけられ、関心を持たれるのはどのような人々の間で、そして具体的にどこの山なのか。
大井重二郎、萬葉集大和歌枕考、 青根ケ峰は象山の背後にそゝり立つ最も高き一峰である。即ち象山の東南に當り、金峰山の北である。高さ六六〇米余、吉野宮瀧附近よりは象山の背後に隱れてゐるが東方より望めば絶壁を作つて頭上に壓しかゝる如く※[山+牙]然と聳え立ち、獨り諸山の環り周れる間にある。
北島葭江、萬葉集大和地誌、通説通り。
阪口保、萬葉集大和地理辭典、あをねがたけ (青根我峯)
  み吉野の 青根我峯の 蘿むしろ 誰か臓りけむ 經緯無しに(一一二〇)卷七
の歌から考へて、青根我峯は寧、所在を限定することは困難なのではないか。和州舊跡幽考・大和名所圖會・大和志料、みな、安禅寺の上方の山とするが、わたくしは吉野へ行つた時、之を見落してしらぬ。豐田氏に從へば「安禅寺(寶塔院)は、吉野の奧院にして、金峯神社の上方に在りしが、今は僅に石垣を遺すのみなり。」と。
 猶、象の小川の發源を、あをねがたけなりとする書が多い。之に就て、辰巳利文氏は「今、さうした名の山があるかどうかを知りませぬ。」(大和萬葉地理研究、八頁)といつてゐるが、いふが如くならば、金峯山(本集のみかねのたけ)の北の尾根の部分稱とみるべきであらう。
北島は安禅寺上方の山、つまり通説通りとするだけ。阪口は「みね」ではなく「たけ」と読んでいる(中西進も同じ)。「たけ」と言うほどの特殊な関心が持たれた山とも思えない。単なる地形名の「峰」がふさわしい。三人ともどうも今地図に青根が峰と記入される三角点のある山に登っていないようだ。大井は660mとするが、今地図に青根が峰と記入され三角点のある山は858mである。あまりに違いすぎる。この山は奧駈け道の途中から後戻りするようにして少し歩けば三角点のある頂上に達する。高度差も感じず、展望もなく冴えない山である。大井は宮瀧からは見えず、東の方からよく見えるようなことをいっているが、その東というのはどこかはっきりしない。それにしても660mではどこからも見えないだろう。おそらく858mの勘違いである。
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大井の言う660mというのは水分神社あたりで、金峰神社からはかなり手前になる。そのあたりを青根が峰と呼んだことはなさそうだ。万葉では、水分山と言う。
阿蘇全歌講義、【歌意】青根が峰の樹木の青々と茂った状態を苔むしろに見立てて、
新大系、「苔むしろ」と訳し、「蘿」は、「蘿ヒカケ・コケ」(名義抄)、とする。
釈注、◇蘿席 苔が一面に生じて青い絨毯のように見えるさまをいったものか。
新全集、山林内の岩や朽木などの表面に、たまごけ・うますぎごけ・はいごけなどの蘇類が密生して絨毯のように見えるのをムシロにたとえたのであろう。
渡瀬全注、○苔席 「羅」の字はサルオガセをも意味するが、ここでは苔のこと。
一三三四参照。「席」は敷物。苔が一面に生じているさまを青い絨毯のような敷物に見立てた。〔考]…。吉野離宮から見える青い秀峰を苔の織物に見立てた、新しい文学的趣向による山ほめ(渡瀬「経緯なき織物」大東文化三四四、昭和五八年二月)。
2144、
奇妙に説が分かれる。新全集が一番当たっているようだが、それを眼前にしての光景なのかどうか明言していない。釈注もほぼ同じだろう。阿蘇のは相当疑わしい。これは宮瀧のもとの中荘小学校(廃校になるかなり前に校舎内で一泊したことがあり懐かしい)あたりからは見えないから、北のほうに少し登った(今何か箱ものがある)宮瀧を見おろすほどの高みから象谷の奥を見ると、確かに青根が峰が見える(ようだ)。しかしそのわずかに見えるのも相当距離があるから、ただ小さく青い三角の山肌が見えるだけで、樹木が茂った状態とも苔の筵のようとかにも見えない。万葉の言葉でいえば、「青旗」である。青い布地の旗である。渡瀬全注も奇妙な説だ。一面に生えた青い苔の絨毯の敷物というのはいいけれど、それを阿蘇のように、宮瀧から見える青根が峰の山肌の比喩とするのだ。すでに言ったようにどう見ても、青い絨毯には見えない。ただの水色がかった布きれだ。それに、巻7-1120の題詞には詠蘿とある。比喩の材料としての蘿ではなく、実物の蘿を読んでいるはずだ。蘿席(こけむしろ)だから、比喩と見えないこともないが、苔製の絨毯なのだから、やはり苔そのものであり、眼前に見ないと言えることではない。当時の大宮人も、みな宮瀧のあたりだけを歩いたわけでは無かろう。なかには登山の好きな人も居て、青根が峰あたりぐらいなら、軽い日帰りの感覚で登ったのであろう。
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宮瀧周辺は歌も多く、地名もかなり詠まれていて、景観が想像しやすいが、現在の吉野山については非常に歌が少なく(ほとんど詠まれていないといっていい)、地名も曖昧なものばかり。353の高城山(たかきのやま)は水分神社の上方というだけではっきりせず白雲が棚引いているというもの。雲が棚引くのは少し離れた所から見なくてはわからないし、宮瀧からは見えないから、あの長い吉野山の尾根上のどこかから見たのだろうか(蔵王堂のあたりからでも)。1130の水分山は水分神社のあたりとされ、結局高城山とほぼ同じ所。これは岩がごつごつしているとあるから、かなり近くで見たものか。ほんとうの岩山なら遠くからでもわかるが、吉野山にそんなところはない。ただ尾根筋はところどころ岩の露出が見られる。今は桜が多いが、かつてはかなり貧弱な植生だったのだろう。水分神社から相当な登りを経て金峰神社に着く。今は小型のバスやタクシーで行けるが。大峰ほどではないが、かなり山深い感じがしてくる。そこから青根が峰までまた車道も続き、はげ山的な感じになるが、金峰神社あたりの幽邃な森が青根が峰あたりを一面に覆っていたとすれば、大台ヶ原ほどではなくとも、苔の絨毯が存在しておかしくはない。大峰の最深部(小篠の宿址など)なら今でも所々そんなところがある。
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高城山の作者は僧で吉野山の尾根筋まで登る可能性はある。もうそのころは役小角なども活躍していたはずである。1130の水分山と1120の青根が峰はどちらも巻7で作者不明だが、宮瀧あたりまで遊覧するような大宮人が作者らしい。「が」の場合は、その地名に相当する範囲が狭い。ということはその場所に関する知識を持つものが多くはないということである。それに苔の絨毯などというのは実見したもの以外なかなか言えることではない。吉野山の最奥部で、そこから先はもう大峰山の一部だから、当時としてもかなり登山好きな大宮人なのだろう。大津皇子漢詩懐風藻6)に似ているところから中国風の自然愛好者かも知れない。そう言う人達の間で、「青根が峰」という地名が共有されていたのかも知れない。