1942、
この「の」は何だろう(「が」「つ」はしばらく措く)。ただの格助詞で、名詞と名詞とを繋ぐだけの働き、あるいは、~にある、~という名の、といった意味だけか。それなら、無いのはどうなるのか。あるのと無いのとで意味が変わるのだろうか。それなら、音数の関係で付いたり付かなかったりというのは、どうなるのか。必ず「の」がついて、付かないのはない、というのはどうだろうか。~の海(これは多すぎて出さなかったが)、~の国(これも出さなかった)、~の浦、などは、~国、~海、~浦、というのは少なくとも万葉集にはない。こういうのは人名の場合でもありそうだ。柿本人麻呂はいつも、かきのもとのひとまろ、であって、かきもとひとまろ、はない。
音数の関係で、付いたり付かなかったり、というのを見ると、ただの和歌的な修辞技巧ではないかとも思える。一句目では「の」のないのを使い、二、四、五句目では「の」を付けるとか。だから付けたいときは、その句で使い、付けたくないときは、一、三句目で使うとか。
岩波古語辞典の助詞解説では、「…にある」「…である」「…という」の意であったというだけで、地名などの「の」の解釈に役立つような説明はない。
時代別でも、そうかわらない。ただし、解説の最後で、
ノはガより敬意を含んだ表現に用いられることが知られ、…
というよく知られた事を付け加える。これは、「が」との比較の話で、地名に「の」が付いたり、付かなかったり、の事とは違う。「が」の付く地名との比較では参考になるかも知れない。
かすがのやま、が、春日にある山、で、かすがやま、は、一語の固有名詞だでもいいが、長歌短歌の一連で、両方が出たり、ただの音数の関係だとなったりすると、果たして意味の違いはあるのか、ということになる。