1920、3289
少し分かりにくそうな歌なので、阿蘇全歌講義の訳だけを引いてみる。
三二八九 み佩かしの、その剣の池の蓮の葉に溜まっている水のように、どうしてよいかわからず、頼りない思いでいた時に、逢おうと思って逢ったあなたのことを、共寝をしてはいけないと、母はおっしゃるのですが、わたしの心は清隅の池の底のように清らかに深く澄んでいて、あなたを忘れることは決してありません。直接お逢いするその時までは。
     反歌
三二九〇 神代の告から私達は逢ってきたようです。この今の世においても、あなたのことをいつもいつも忘れることができません。
      右、二首
これで見ても、どうしてわざわざ剣の池の蓮なのかわからない。考えられるのは、その近くに住んでいていつも見ている作者が、その固有名詞を使ったと言うだけである。全註釈も言っていたが、その池の近くには軽の市などもあり、当時の大和平野南部でも有数の人口密集地だったようだ。どことなく、葦屋乙女や、耳成池で入水した女を思わせる(主題ではなく雰囲気)。蓮の葉の上に溜まった露や水は、確かに不安定だ。風などで葉が揺れると動揺するが落ちそうで落ちない。それを日常的に見ていたのだろう。清澄の池は、なにか空想上の池だろうか。大和平野には、火山の火口湖(たとえば摩周湖)のような透明な池はまずない。盆地周囲の谷を塞き止めた池でもそうだ。なぜそういう池を空想したかというと、やはり、剣の池の濁った池の対極として澄み切った池を想定したと言えないだろうか。そうすると、濁った池のような周囲の人達の中で清らかな蓮の上の水のような自分は、どうしていいか分からず、ひたすらあなたに頼る。そんな深い純愛は剣の池ではなく清澄の池の底なのです、とでも言うのだろうか。ここまでの空想は、注釈書では無理かな。