1900~1901
○佐保過ぎて、の沢瀉の注釈。
口譯、佐保過ぎて…。新考に…二・一三六の「過ぎて」と同じく「遠ざかる事なり」とあるやうに、後にして去るといふ意味にも用ゐられ、…確かな事は決定し難い。

訳に「過ぎて」とあるように、歯切れが悪い。新考の説も、「後にして」ではなく遥かに通過して、ということである。この程度では、わざわざ300番を参照せよと言うほどでもない。それに沢瀉は佐保に長屋王邸があったと言っているが、平城京内の大邸宅が発見され、佐保が別邸であったことが確認された。京内の邸を出、途中、佐保を通過してでよく分かるのである。

山田講義
この句はその佐保の第宅を立ち出でられたるをいふならんといふ説あれど、若し然る時には、「過ぎて」とはいふべからず。…この歌はその排列の順序を大體時代順とせるものと認むるときは寧樂宮以前の詠とせざるべからず。…この王の佐保の邸宅は、寧樂遷都以後新に営まれしものと推定すべきものなれば、この歌に「さほすぎて」とあるは、なほ藤原の地より來りその佐保の地を過ぎて、寧樂山に越えられしものと見るべきものなりとす。
山田も平城京内の長屋王邸の存在は知らなかったが、「過ぎて」は「立ち出る(後にする)」という意味ではないとはっきり言っている。これに尽きる。なお、前に、窪田評釈が、「難波を過ぎて」を的確に理解したと言ったが、3333番で、「大和を過ぎて」を、「大和国を通り過ぎて。大和京から発足するのであるが、勅命の旅を主として、言いかえたもの。」と理解したのは一貫性がない。「通り過ぎて」といいながら、「発足する」では矛盾だ。勅命云々というのも理解できない。

○新考、二卷なるアヲ駒ノ…スギテキニケルのスギテとおなじくて遠ざかる事とすべし
口訳、奈良の都を出て、佐保を通つた、…
講義、すでに引用した。
全釈、佐保は…。此處を通過して奈良山へかかられたのである。契沖は…、果して然らば過而は出立したこととなる。
総釈、佐保を通つて…
金子評釈、佐保の家から出掛けて、…
全註釈、古の平城の都から、佐保を通つて寧樂山にさしかかるのである。
窪田評釈、「過ぎて」は、通り過ぎてで、奈良山に向かおうとして、その途中の地としていっているのである。
佐佐木評釈、佐保路を過ぎて、…
私注、佐保を過ぎゆき… 王の邸は佐保にあるが、ここは佐保の域内をすぎて…。
大系、佐保をすぎて
注釈、すでに引用した。
全集、佐保を出て… このスグはその地を後にする意。
集成、佐保を過ぎて… 佐保の邸宅が出来る前。
全訳注、佐保を通りすぎ…
全注、「過ぎて」はその地を後にする。…(2・一三六)と同じく、遠ざかる意。
…「佐保を遠ざかって」である。
新全集、佐保を通って… 長屋王の邸宅は左京三条二坊、今日の奈良市二条大路南一丁目にあった。「佐保宅」もあったことが知られるが、ここはそれに立ち寄らなかったことをいうのであろう。
釈注、佐保を通り過ぎて… 「過ぐ」はその地を素通りする意。
和歌大系、佐保を通り過ぎて。
新大系、左京三条二坊の邸宅を出て、「佐保宅」の地を過ぎてという意味であろう。
阿蘇全歌講義、佐保の地を通り過ぎて。ただし藤原京を出発したもの。
多田全解、佐保を過ぎて