1881~1883
○全体にわけの分からない歌で、最近の注でももてあましている。最初に藤原の都の事が出るから死んだ皇子は藤原の人かと思うと、遠く離れた郡山まで国見に行くとある。これはまずありえないことだ。「ゆ」という助詞の働きからして、城上の道は出発点でも目的地でもなく通過点となるが、それでは、ふじわらで死んだ皇子が、はるか彼方の広陵町まで出向いて、そこから急角度に方向転換して(ほとんどあともどり)、桜井の石村(いはれ)に向かい、そしてそこの葬地に至るとなって、まったく辻褄が合わない。それを気にしたか、城上近辺に皇子の宮殿があったとする注が幾つかある。それでは、通過しての意味に合わないが、それは目をつぶるとしても、それでは最初の藤原の描写は何だったのか。そこに人や皇子はたくさんいるといいながら、肝心の死んだ皇子は城上あたりにいたでは、分けが分からない。こういうものを辻褄の合うようにしようとすると、小説にするほどの推理が必要となる。それをしないとなると、なでこんな分けの分からない歌をどうどうと編集してくるのか、その意図を知る必要があるが、それもよくわからない。だれかが汎用挽歌の下書きにしたのだとか。それではなぜ、殖槻などという挽歌には関係のなさそうな地名を使うのかわからない。城上、石村、などはよく知られているからいいけれど。

○つじつまの合うような推測をしてみよう。出だしの藤原の都の描写は、結局、この死んだ皇子とは関係のない場所のようだ。あの藤原の都には、人も皇子もたくさんいるが、死んだ皇子は、殖槻に近いところに、宮殿を持っていて、春の国見は殖槻に、秋は宮殿の萩の鑑賞に、雪の降る冬は、どこともわからないが、可能性としては平群地方での狩猟にと、楽しい生活を送っていたようだ。そしてまだ若いのに、死んでしまい、高市皇子ゆかりの城於(きのへ)の道を通って、(そこから藤原への長い道は無用なので略して)藤原の東の石村の岡を見ながら葬礼を行った。反歌によると、火葬かどうかは不明ながら、石村の山の近くに葬ったようだ。
ここで問題なのは、なぜ郡山あたりからわざわざ遠く離れた、盆地の真向かいのような石村で葬儀をしたかということ。また郡山から石村までなら、初瀬川を船で行けば簡単なのに、ちょっと遠回りのような城於(きのへ)経由で行ったのかと言うことだ。

○本来藤原京内かその周辺に住むべき皇子でありながら、なにか事情があって遠ざけられ、郡山あたりの遠く離れたところに住宅を持ったのであろう。葬送が対角線的に盆地を横切らず、城於(きのへ)に寄ったのは、なにかそこに地縁があったのであろう。おそらく高市皇子関係と思われるが、とすれば高市皇子に縁のある皇子では無かろうか。葬地と思われる石村の少し東の桜井市外山(とび)に、延喜式にもある宗像神社がある(小さいながら雰囲気がよいが、背後を大きな車道が通っているのが玉に瑕、恐らく神社の境内を削ったのだろう)。宗像とあるように、高市皇子の母方の氏族に関係がある。ここから石村は近いから、この皇子は胸形氏関係のもので、何か事情があって、郡山近辺からはるばると、石村まで運んで埋葬を行ったと思われる。